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第一話 一難去って前途多難④

「じゃあ、美卯もまた後でな」


「はいはい。お姉ちゃんが泣いちゃうから逃げないようにね。……楓ちゃんも、くれぐれもお兄ちゃんを甘やかさないように」


「は、はーい……」


 楓が苦笑しながら返事をすると、美卯は「それじゃあね」と言って去っていった。


「怒られちゃったから寝れないね」


「寝ないように努力はするとしても途中で絶対落ちるぞ。多分、どう足掻いても三限あたりで限界を迎える」


「もう少し頑張れば昼休みに寝れ……ないんだもんね」


「寝るな寝るな言っておいて、唯一寝ても許される昼休みにわざわざ呼び出してくるからな。言ってることとやってることが矛盾してるのにいい加減気づいてほしい……が、気づいたところで、姉貴がそれを許すわけがないからな」


 と、梛があくびすると同時にため息を吐くと、


「――おっ、今日は朝から一緒か。珍しいな」


 背後から、知った声と共に肩にずんと腕が置かれた。体重をかけられ、梛の右肩がどんどん沈み込んでいく。


「……安達、重いからその腕をどけろ。それと、こんなところでうろちょろしてないで、さっさと教室に入ったらどうだ」


「おいおい、冷たいな。俺たちは『大親友』……だろ?」


 梛が振り返りながら筋骨隆々な腕を払い除けると、自称『梛の大親友』こと安達蓮(あだちれん)は、肩をすくめながら言ってくる。


「あ、安達くん、おはよー!」


「おう、おはようさん。……しっかし、彩峰は相変わらず眠そうなツラしてるな。夜更かしはほどほどにしろよ?」


「夜更かしどころか、最近は日付が変わる前に寝てるっての。朝飯と弁当作らなきゃいけないから、その分早く起きてるせいで眠いんだよ」


 梛が不機嫌そうに言うと、安達は納得したように頷く。


「あー……そういや、親が海外に行ったとか言ってたな。そりゃあ大変――となると、今はお姉さんと妹さんとの三人暮らし中か」


「……それがどうした」


「けしからん……実にけしから――いや、羨ましい!」


「そういうのって普通は逆だろ」


「俺は正直な男だからな!」


 そう言って、安達は腕組みをして胸を逸らした。


 こういう正直なところは本来褒めるべき美徳なのだろうが、苦労も知らずに羨ましいと言われるのは少々……いや、かなり腹立たしい。


「二人とも相変わらず仲が良いね」


「だろ? それなのに彩峰は俺のこと……うっ……」


「……楓。言って良いことと悪いことがあるんだぞ? ちなみに今のは後者だ。わかったか?」


「彩峰……俺たちは熱い友情を誓い合った仲だろ? なあ!」


「残念ながら、橋の下で殴り合った記憶も、夕日をバックに熱い握手を交わした記憶も、何もかも一切合切存在しないぞ」


 梛は肩を掴んで揺さぶってくる安達に淡々と言ってやる。


 入学当初、『安達』に『彩峰』と、名前が五十音順で並んでいて席が前後だったため、すぐに打ち解けて話すようになった。……が、当時はこんなに面倒なやつだとは思ってもいなかった。


 とはいえ、それでも梛の良き友人であることには違いない。面倒だが根はいい奴だ。超が複数個つくほど面倒だが。ちなみに大親友ではない。


「ともかく、彩峰。俺はお前が羨ましい!」


 相も変わらずそう言ってくる安達に向けて、梛は大きくため息を吐いた。


「……楓、この勘違い野郎に教えてやれ。あれと一緒に暮らすということが、どんなに大変なことかを」

「え、私!? えーっと……って、私に振られても困るんだけど……」


「つまり、楓が何を言えばいいか頭を悩ますくらい大変だということだ。その筋肉しか詰まっていない残念な頭で理解できたか?」


「そ、そんなに大変なのかっ……! ――なんて言うわけないだろ!」


 案外ノリの良い安達は、一歩退いて大袈裟に身体を仰け反らせてから声を荒らげた。


「畜生……どうして彩峰ばっかり……ッ!」


「……まあ、自分の都合のいいように解釈するのは勝手だが、あまり理想を追い求めすぎない方が身のためだぞ」


 言いながら、梛は扉を開けて教室に入っていく。と、眠たそうに教卓の前で伸びをしている、グレーのスーツに身を包んだ女性と目が合った。


「……ん? ああ、彩峰たちか。今日は一段と遅かったな。重役出勤か?」


「いや、たしかにギリギリではあるけど遅刻はしてないでしょ。先生こそ、頭に寝癖ついてますけど、寝坊して遅刻しかけたんじゃないですか?」


「……本当だな。なんで誰も教えてくれなかったんだ……?」


 梛たちの担任・笹塚秋穂(ささづかあきほ)は自分の頭を触って確かめると、凛とした声でそう言って苦笑する。


 スラリとした体躯と整った美貌、そして背まで流れる、艶やかな濡羽色の髪が特徴――なのだが、このようにどこか抜けて、かっこいいと言うよりだらしない印象の方が勝ってしまう。


 そんなだらしなさとその親しみやすい性格から学年問わず人気で、生徒からは『アキちゃん』という愛称で呼ばれていたりもしているらしい。安達も、秋穂のことを「アキちゃん先生」と呼んでいる。


「先生、クシと鏡どうぞ!」


「ああ、すまんな月宮」


 と、秋穂が楓の手も借りながらなんとか寝癖を直そうとしていると、無慈悲にも予鈴が鳴り響く。

 立ち歩いていた生徒たちは次々と自分の席へと戻り、梛の後ろにいたはずの安達も、いつの間にか着席していた。


 梛と楓も周りと同じように窓際最奥の席に着くと、まだ寝癖が完全には直っていない秋穂によるホームルームが始まる。


 しかし梛は、まぶたを閉じてうつ伏せると、秋穂の話を右から左に聞き流す体勢を作った。


 こんな春の暖かさが際立つ絶好の昼寝日和に居眠りしてはいけないなんて、もったいないにもほどがある。今日寝ずにいつ寝ろというのか。


 梛は、美卯の忠告も、そして隣で呼びかけてくる楓の声も無視して、そのまま夢の中へと旅立って行った。

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