第1話 一難去って前途多難③
慌ただしい朝の時間を乗り越えて、梛が学校に着いたのは八時二十分頃だった。
梛の家の最寄り駅の一駅先。商店街を抜けた先の閑静な住宅街に佇む、我らの学び舎――私立平駒高校。
創立百年を迎えた伝統的な高校らしいが、その事実は、存外綺麗な校舎からは想像などできなかった。
とはいえ、それも本館だけ。
すぐ横に隣接する別館に至ってはかなり年季が入っていて、近いうちに取り壊すとのことらしい。そして、そこに新しく校舎を建てるというのだが、完成時期を考えると、梛には一切関係なさそうだった。
三人は校門をくぐり抜けて、人が蔓延る校舎へと足を踏み入れる。
と、梛の肩がちょんちょん、とつつかれた。
凜桜は梛に抱きついているし、美卯は隣にいる。
誰だろうか。ハンカチでも落としただろうか。そう思いながら振り向いた瞬間、梛の頬にその人物の人差し指がぐいと突き刺さった。
「ふふ、引っかかったね」
「……なんだよ、楓」
「おはよ、梛」
そう言って、梛が楓と呼んだ少女は優しく微笑んだ。
肩に触れるか触れないかくらいの赤髪に、どこか柔らかな雰囲気。穏和な性格とは裏腹に、梛に対してだけはいたずら好きな一面もある少女。
月宮楓。小中高と十年間共に過ごしてきた、梛の『幼なじみ』である。
家が隣なこともあり、互いの家に高頻度で遊びに行くほどの仲。いわゆる家族ぐるみの付き合いで、彩峰家と月宮家合同で旅行に行くこともあるほどだ。
「楓ちゃん、おはよー!」
「あ、楓ちゃんだ。おはよ」
「おはよう! 凜桜さん、美卯ちゃん!」
二人が振り向いて挨拶すると、楓も元気に挨拶を返す。
「こんなに遅いなんて珍しいな。寝坊か?」
「まあそんなとこ……かな? 梛もすごい眠そうだね」
「飯担当故のつらさだな。……あとは、どっかの誰かさんのせいで朝から疲れたから、そのせいで眠そうに見えるってのもあると思う」
言いながら、梛はその元凶に目を向ける。当の本人は相変わらず梛の腕に抱きついたままだ。
「二限あたりで一度沈みそうだから、あとでノート見せてくれ」
「はーい……って、二限目は体育じゃなかったっけ?」
「あー……じゃあ、一限で少し寝るか……」
と、梛があくびを噛み殺しながら言うと、美卯が睨みながら梛のスネを蹴ってくる。おかげで、少し目が覚めた気がした。
「……ちょ、おま……」
「何授業中に寝ようとしてるの? 楓ちゃんも、お兄ちゃんを甘やかそうとしないで」
「……でもな、美卯。今日の一限目は笹塚先生だから、別に寝てても怒られ――」
「そういう問題じゃない、でしょっ!」
そう言って、美卯は梛に二発目をお見舞いする。が、十数年一緒に暮らしてきた妹の行動などお見通し。梛は片足を上げ、それを華麗に避けた。
「……なんで避けるの?」
「当たり前だろ! 弁慶の泣き所って言って、普通に痛いんだからな!? スネ当てをしてるわけでもないんだし」
「でも、痛みで目も覚めるんじゃない?」
「逆に、一生寝たまま目が覚めなくなるぞ……」
妹の凶暴性が本当に恐ろしい。クラスにちゃんと馴染めているのか、心配になるレベルだ。
「ねえ、梛。このままだと遅刻になっちゃうよ?」
「……と、そろそろ行かないとだな。姉貴、離れ――」
「いーやーだー! 梛と一緒にいたいー!」
梛が引き剥がそうとするも、凜桜は必死にしがみついてくる。まるで親離れできない子供だ。
……これが毎日なのだから、本当に恥ずかしくて仕方がない。
新一年生以外はもうこの光景に見慣れたらしく、またやってるよ、と言わんばかりに素通りしたり、孫を見るかのような微笑ましい目で見てくる。共感性羞恥で恥ずかしくならないのだろうか。
「ほら、お姉ちゃん。楓ちゃんの言う通り、早くしないと遅刻しちゃうから」
美卯が言うと、凜桜は納得がいかなそうな表情のまま、仕方ないというふうに梛から離れる。
「よし、ナイスだ」
「むー……お昼は一緒に食べようね?」
「はいはい」
梛が面倒そうに適当にあしらうと、それで満足したのか凜桜は笑みを浮かべながら教室に入っていった。
「さて、行くか」
三人は凜桜を見送り、再び階段を登り出す。
平駒高校は、一階が玄関口、二階に家庭科室などの実習系の教室、三階に職員室や会議室、そして四階以降に生徒たちの教室、という構造になっている。
生徒の教室は、三年生が一番下の四階、その上に二年生、一年生と、上の階に行くほど学年が若くなる配置だ。
そのせいで一年生の頃は、凜桜がなかなか剥がれず遅刻寸前、なんてことは当たり前だった。
しかし二年生になってからは、新たに入学してきた美卯が、こうして凜桜を説得して引き剥がしてくれている。そのおかげで、ホームルームの開始時刻まで多少雑談を楽しむ余裕さえ生まれた。校舎の造りと美卯には感謝しかない。
もし、配置が逆だったり、美卯が別の高校に通っていたらと考えると恐ろしいが、現実はそうではないのだから、考えるだけ無駄だろう。
そうこうしているうちに、短いような長いような階段を上り終え、気がつけば梛たちは自分たちのクラスがある階にたどり着いていた。




