第7話 聞かぬなら 拉致してみせよう 無理にでも⑥
「まあでも、もし本当に姉貴が寝てるなら、さっさと入ってきた方が良さそうですね。起きてたら乱入してきそうで怖いですし」
「おや、仲睦まじいじゃないか。凜桜くんを起こして、一緒に入ってきたらどうだい?」
「絶対に嫌です」
からかうように言ってくる雛菊に、正気を疑うような視線を向けると、梛は残りのコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、お先にいただきます」
「ああ、ゆっくりしてくるといいよ」
「まあ、まずは彩峰が無事に着替えを確保できるかどうか、だけどな」
「それはまあ……頑張りますとしか言いようがないですね……」
梛は苦笑いを浮かべてリビングをあとにすると、抜き足差し足忍び足で、足音を立てないよう慎重に階段を上っていく。
扉の前に立つと、まずは聞き耳を立てる。声は聞こえなかった。
次に扉をわずかに開き、隙間から覗いてみる。角度的に凜桜を視認することは叶わなかった。
そしてようやく、梛は部屋に入る。音を立てないよう、まるで武道家のように摺り足で。
すると、ベッドの上で枕を抱きしめ、すやすやと寝息を立てている凜桜が目に入った。どうやら、秋穂の推理通り寝ていたらしい。
しかし安心するのはまだ早い。
慎重に、かつ迅速に。梛はソファに置いたボストンバッグの元へ移動すると、手際よく着替えを手にする。
自分で用意したものではないので少し不安ではあったものの、さすがは美卯と言うべきか、その日その日の分が綺麗にまとめられていた。
これであとは脱出するだけ――と、そう思った、次の瞬間。
「――なーぎー……」
「……ッ!?」
背後から凜桜の声が聞こえ、梛は勢いよく振り向く。
そして、それと同時に凜桜が襲いかかり、梛はまたもや押し倒される――なんてことはなかった。
凜桜の姿は先程と変わらずベッドの上。寝返りを打ったのか梛の方を向いているものの、相も変わらず気持ち良さそうに寝ている。どうやら、寝言で梛の名前を呼んだだけらしい。
そんな凜桜を横目に、梛は急いでこっそりと部屋を出る。そして、自身が安全であることを確認すると、ようやく警戒を解いて、安堵のため息をこぼした。
「……ったく。ビビらせやがって……」
『気分はまるで、世界を股に掛ける大物スパイ!』――なんて言えればいいのだろうが、実際のところ、そんな生易しいものじゃない。
どちらかと言うと、あの緊張感は『捕まれば化け物に喰われる、ホラーゲームの主人公』をイメージさせる。ドキドキワクワクなんて、もってのほかだ。
と、ぼやきながら階段を下りていくと、雛菊と秋穂が、待っていたと言わんばかりにこちらに目を向けていた。どうやら、梛の無事な生還を案じていたらしい。
「その様子だと、凜桜くんは寝ていたみたいだね」
「……なんか、やつれて見えるな。大丈夫か?」
「寿命が何年か縮んだ気がしますよ……」
梛は動悸を抑えるように胸元に手を当て、苦笑いを浮かべる。
「じゃあ、お先に失礼しますね」
そう言い残し、梛はふらふらと疲弊したような足取りでリビングをあとにした。
今の梛の疲労度は、およそ八割。ここまで疲れたのは数ヶ月ぶり――今年の初めにあった、学校行事のスキー教室以来だろう。
もっとも、スキーはただただ楽しかっただけで、真に疲れた原因は、帰宅後に待っていた凜桜の相手なのだが。
そんな疲れに疲れ切った梛に安らぎを与えてくれるのが――そう、お風呂である。
「おお……すげぇ……」
癒しを求めて扉を開き、浴室内を目にした瞬間、梛はログハウスを前にしたときと同じように感嘆の声を漏らした。
床には若干凹凸のある不揃いな石が敷き詰められており、壁は腰の高さまでが床と同じデザインになっている。
そこから上は、ログハウスの壁とは違って木材が縦に張られており、入浴施設のサウナを彷彿とさせた。
浴槽も、一般家庭で見るようなものではなく、旅館でよく見るような磨かれた石材のもの。まるで小さな大浴場のような空間だった。
そして、なにより驚くべきは、その広さ。
何もかもが彩峰家の二倍。シャワーの台数も、洗い場や浴槽の広さも、すべてが二倍。もちろん、風呂桶や椅子の数も二倍だ。
こんな広々とした空間を一人で使えるなんて滅多にない。
せっかくの機会だし、ゆっくりのんびりさせてもらうとしよう。と、フェイスタオルを投げ置いて椅子に座り、シャワーを浴び始めた――次の瞬間。
広々とした空間が瞬く間に狭く感じられるようになり、のんびりするどころか、急いで浴室から出ていく必要が出てきた。
「――なーーぎーー!!」
――そう。先程まで部屋でぐっすり眠っていたはずの凜桜が、突如として浴室に現れたのだ。
勢いよく扉が開けられたかと思えば、凜桜は叫びながら一直線に駆け出し、梛が振り向く間もなく抱きついてきた。
「ちょっ……姉貴!?」
背中に押し付けられた、温かく弾力のある双丘に、梛は慌てふためく。
ここは浴室。当然、凜桜は一糸まとわぬ無防備な姿だ。
そんな状態の凜桜に抱きつかれれば、せっかくのバスタイムを邪魔された怒りなど、一瞬にして消え去った。
「なーぎー! 一緒にお風呂入ろー!」
「入らねえよ! てか離れろ! 隠せ!」
梛は目を瞑り、とっさにタオルを腰に巻きつけながら叫んだ。
すると凜桜は、不満そうに「むー」と唸り、さらに身体を押し付けてくる。
「えー、なんでよー。昔みたいに一緒に入ろーよー」
「昔は昔、今は今!」
そりゃあ、小学生の頃は一緒に入ったりもした。
しかし、それも三年生くらいまで。それ以降は基本的に――凜桜が今回みたいに無理やり押しかけてこない限りは、一緒に入っていない。
それに、今と昔では色々と違うのだ。
互いに成長したのはもちろん、血の繋がらない『義理』の姉弟だということも判明した。
それなのに、「昔も一緒に入ってたわけだし、別にいいか」とはならない。なるわけがない。
……まあ、それで納得してくれれば、梛がこうも手を焼くことはないのだが。
「てか、笹塚先生と雛菊さんは何してんだよ……」
二人ともリビングにいるわけだから、凜桜が浴室に向かうところも、確実に見ているはずだ。
それなのに普通にここまで来ているということは……つまり、そういうことなのだろう。高校生の男女が一緒に風呂に入るのを黙認するのは、大人としてどうなのか。しかも、一方は教師だというのに。
まあ、それについては後ほどゆっくり話を聞くとして、今は目の前――もとい、背後の凜桜をどうにかしなくてはならない。
「……姉貴。今すぐ離せ。じゃないと――」
「一緒に入ってくれないなら離れてあげないもーん」
「っ……」
今この状況で主導権を握っているのは凜桜だ。そう言われてしまえば、梛に為す術はない。
しかし、だからといってこのまま凜桜と一緒に入るわけにはいかない。……いかないのだが。
「……わかった。一緒に入るから、せめてタオルくらいは巻いてくれ……」
こうなってしまっては逃げることもできない。梛は諦めたように息を吐き、せめてもの譲歩を求めた。
すると凜桜は、一緒に入れることが相当嬉しいようで、花咲き乱れるかのような屈託のない笑みで大きく頷く。
「すぐ持ってくるから、ちょっと待っててねー!」
と、凜桜は浴室を飛び出すと、ものの数秒でタオルを身にまとい、再び梛の元へ戻ってきた。
まるでこうなることを見越していたかのような速さに、梛は思わず顔を引きつらせる。が、凜桜はそんなのお構いなしだ。
「おねーちゃんが頭洗ってあげるねー!」
「いや、自分で――」
「おねーちゃんが! 洗って! あげる!」
「……」
あまりの圧に梛が黙り込むと、それを了承と受け取ったのか、凜桜は梛の頭を洗い出す。鼻歌まで歌っているが、いったい何がそんなに楽しいのか。
「だいじょーぶ? 目にシャンプー入ってなーいー?」
「大丈夫。元から目瞑ってるから入ってない」
「力加減はだいじょーぶ?」
「大丈夫。むしろ丁寧すぎてくすぐったいくらいだ」
「痒いところはなーい?」
「大丈夫。……大丈夫だから、早く終わらせてくれ」
今のような問答を、かれこれ三周は繰り返している。凜桜としては楽しいのだろうけど、梛からしたら生き地獄のようなものだった。
「それじゃあ流すねー!」
と、五周目に差しかかろうとした辺りで、ようやく洗い終えたらしい。頭の上に積もった泡を、綺麗さっぱり、優しく丁寧に流していく。
これでようやく凜桜から解放される――なんて考えは甘かった。
「じゃあ、次は身体ねー!」
「ちょっと待て」
さすがにそれは恥ずかしすぎる。梛はボディソープへ伸ばされた凜桜の手をすかさず掴んだ。
「姉貴。待て。ステイ」
「だいじょーぶ! おねーちゃんが優しく洗ってあげるから!」
「いやいや、そういう問題じゃない。身体くらい自分で洗うから」
「えー」
納得できないようで、凜桜はぐぐぐ……と、じわじわボディソープへ手を近づける。何が彼女をそこまで突き動かすのか。
「……わかった。じゃあ、背中だけ頼む。背中だけだぞ? わかったな?」
梛が妥協案を口にした瞬間、凜桜はパーッと顔を明るくした。
「うん! 任せて!」
「くれぐれも、絶対に、背中以外は触るなよ」
「うん!」
「……フリじゃないからな?」
「……はーい」
「おい、今の間は何なんだ」
梛が問い詰めるも凜桜は知らぬ顔。ボディソープを泡立てて、梛の背中を優しく撫で始めた。
梛は嘆息すると、自分でも身体を洗い始める。
すると、しつこい念押しが功を奏したのか、意外にも凜桜は大人しく背中だけを流した。
あまりにも素直すぎると、それはそれで何か企んでいるのではないかと勘繰ってしまう。凜桜の日頃の行いのせいだろう。
「ありがとな。じゃあ、俺は――」
と、お礼を言って梛が湯船に浸かろうとすると、凜桜に手を引っ張られて引き止められた。
「おねーちゃんも洗ってほしいなー」
「……」
正直なところ、この展開を予想しなかったわけではない。むしろ、凜桜のことだから言ってくるだろうなとまで思っていた。
「……わかったよ。こっちも洗ってもらったもんな」
梛は入れ替わるようにして凜桜を座らせると、自身の頭を洗うよりも丁寧に、そして慎重に洗っていく。
『髪は女の命』という言葉があるくらいなので、髪を痛めないように、目に泡が入らないように、細心の注意を払って。
長髪な分、普段自身のを洗うよりも時間がかかってしまったが、それでも何とか、元から綺麗だった凜桜の髪を根元から毛先まで、より一層綺麗にすることができた。
そのまま最後まで気を抜かず、泡のひとつ残らないようシャワーで洗い流してやる。
「よし。これで終わりだな」
「じゃーあー、次はおねーちゃんの身体をー……」
「調子に乗るな」
梛はシャワーで凜桜の顔にお湯をかけると、怯んだその隙に浴槽へと逃げ込んだ。
湯船に浸かった途端、湯に溶けるように脱力し、身体の奥底からじんわりと温められる。まるで今日一日を、この瞬間のために生きてきたような感覚だ。
今だけは、凜桜が不満そうにこちらを見つめながら身体を洗っていることも忘れ、梛はうとうとと眠りそうになるほど癒されていた。
しかし、それもほんの一瞬。梛のHPが全回復する前に、身体を洗い終えた凜桜が湯船に足を踏み入れ、梛のすぐ隣に腰を下ろして寄りかかってきた。
「……なあ、姉貴。せっかく広いんだから、もう少し離れろよ」
「やーだー」
梛が距離を取るも、凜桜はまるで紐で結ばれているかのように、その分だけ距離を詰めてくる。
隣に座られると落ち着かない。と、梛が背を向けると、凜桜は背後から抱きつくように身体を密着させて、梛の体力をじわじわと蝕み始め――
「ちょっと待て。姉貴、お前タオルはどうした」
梛は、温められてほぐされた身体を即座に強張らせた。
背に当たる感触は、濡れたタオルのようなしっとりしたものではなく、べったりと肌に張りつく、妙に生温かい、弾力のあるものだった。
それが凜桜の胸部だと気づくのに、数秒もいらなかった。
「タオル巻けって言ったよな!? なんで外してるんだよ!」
「えー。だってー、梛ともっとくっつきたいんだもーん」
凜桜は反省の色など見せず、その双丘をさらに押しつけてくる。この姉には羞恥心というものがないのか。
脱出しようと必死にもがくも、凜桜の拘束は底なし沼のように抜け出せない。もがけばもがくほど、逆に強く抱きしめられていく。
湯船の熱と無駄な抵抗、そして凜桜に密着されることで梛の体温は急上昇して目眩を起こし――ぷつん、と糸が切れたように、梛の意識はそこで途切れた。




