第1話 一難去って前途多難②
「なんで朝からこんなに疲れなきゃいけないんだよ……」
梛は目を擦りながら、大きなあくびと共に愚痴をこぼす。
両親の海外赴任により、梛にかかる負担は大きく増えてしまった。その中でも特に重大と言える事象が二つある。
両親がいなくなったばかりなので、あとからさらに増えていることに気づくかもしれないが、ひとまずは二つだ。
一つ目は凜桜と美卯の扱い。
いつもなら、凜桜が下着姿で梛の布団に潜り込むこともなければ、美卯がエアガンで起こしてくることものなかった。
そういう意味では、以前の生活はまだ平和と言えたはずだ。
……もっとも、起きたら凜桜が隣で寝ていたり、美卯が乱暴に起こしてくるような日常茶飯事を、果たして平和と呼んでいいのかはいささか疑問ではあるが。
しかし、今は両親が不在。よって、凜桜と美卯のそうした所業を許す事態となっており、朝起きた時のようなことが多発するのは防ぎようがない。本人たちが改善してくれればいいのだが、それはまあ……望み薄だろう。
そして二つ目は食事。
母親が不在の今、料理できる者が梛しかいない――なんてことはないので、正直なところ、手が空いている者が作ればいい話なのだ。
しかし、梛以外誰も料理をしようとしない。凜桜も美卯も、別に料理ができないわけではないのに、だ。
その原因となっているのが、梛の料理の腕前である。
料理というのは、一人暮らしの必須スキル。早く一人暮らしを始めたいと思っていた梛は、中学時代から母親に料理を習ったり、本や動画を見て勉強したりして地道に腕を磨いていた。
別にこそこそ隠れてやっていたわけでもないので、当然のように凜桜も美卯も、梛の料理の腕前を把握している。結果、不幸にも梛が料理担当に抜擢されてしまったということだ。
ちなみに、高校からしたいと考えていた一人暮らしは、両親にはやんわりと、凜桜からは全力で却下されてしまった。
「早く帰ってきてくれないかな……」
まだ両親が家を空けてから数日しか経っていないというのに、早くも弱音を吐きながら、梛は階段を下りて洗面所へと向かう。
「あ、変態お兄ちゃんもやっと起きてきたんだ」
と、先に降りてきていた銃撃犯……もとい、美卯が、先程と同じように罵倒してくる。幸い、エアガンは自室に置いてきたようだ。
手入れされた、凜桜と同じ夜色の長い髪。その頭頂に近い一部を左右で束ね、残りを背中に流すようにして整えながら、美卯はいつもの調子で続ける。
「お姉ちゃんは? てっきり、二人で抱き合って下りてくると思ったんだけど」
「そんなことするわけないだろ……」
「でも朝からイチャついてたじゃん。それなら、抱き合って下りてきてもおかしくはないでしょ」
「あれがそう見えたなら相当目が悪いから、眼鏡作った方がいいと思うぞ。それともコンタクトの方がいいか? ……いや、美卯はコンタクト入れるのが怖いか」
梛が鼻で笑いながら言うと、美卯は鏡越しにムッとした表情を見せてきた。
「あの状況でイチャついてないって相当無理があると思うけど。それとも……もしかして、お姉ちゃんのこと襲ってたの?」
「……お前はどうしても俺を犯罪者に仕立て上げたいのな」
「別にそこまでは言ってないじゃん」
美卯はやれやれといった様子で嘆息すると、結び終えた髪を揺らしながら、梛の方へ顔を向ける。
「で、お姉ちゃんは?」
「俺の部屋で二度寝してる」
「いや、起こしてあげなよ」
言ってくる美卯に、梛は心底嫌そうな顔を作って返した。
「捕まるから絶対に嫌だ。あとは頼んだぞ」
「えー」
「朝と昼、飯抜きでいいか?」
「……それは卑怯じゃない?」
言って、美卯は凜桜を起こすため、渋々二階へと上っていく。
美卯と入れ替わるように洗面台の前に立ち、梛は少し曇りがかった鏡を見やる。と、先程まで可愛らしい女の子を写していた鏡の中に、寝癖だらけで目つきの悪い無愛想な少年が現れた。無論、梛である。
ただでさえ寝起きで目がしょぼしょぼとしているというのに、そこへ凜桜と家事の負担による不機嫌さが加わることで、梛の人相はすこぶる悪くなっていた。
冷たい水道水で顔を洗ってやると、幾分かマシな顔つきにはなった……ような気がしなくもない。
「……と、飯作らないとだな」
梛は頬を叩いて残った眠気を追いやると、朝食と弁当を作るためにリビングへと向かった。
すると、ちょうど足を踏み入れようとしたところで、階上からドタバタと足音が聞こえてくる。どうやら、美卯はしっかりと任務をこなしたらしい……が、にしてはやけに騒がし――
「なーーぎーー!!」
と、起きたときとは打って変わって寝間着に身を包んだ凜桜が、叫びながらプールに飛び込むかのように抱きついてきた。
数段上から勢いよく飛びついてきたものだから、あまりにも唐突すぎて避けることができそうにない。
梛は反射的に全身で受け止めたが、その勢いを完全に殺し切れるはずもなく、当然のように床に押し倒されてしまった。
「ごふっ……!」
梛が身体を床に打ち付けて呻き声を上げてもお構いなし。凜桜は、えへへー、と梛に顔を擦り寄せ、離れる素振りすら見せない。
「……ってぇ……何すんだよ!」
「だって、美卯が『起きたらお兄ちゃんのこと好きにしていいよー』って言うから……」
「……おい、美卯……」
梛は階上から、まるでショーやパレードでも楽しむかのようにこの光景を眺めている美卯へ、抗議の視線を送った。
「……いいじゃん。別に減るもんじゃないし」
「寿命が減るわ! 多分、今ので五年くらいは持ってかれたぞ!」
とっさに受け身をとったものの間に合わず、肘を強打してしまった。
日常生活にさほど支障はないだろうが普通に痛い。これが体育の授業中だったなら、大袈裟に痛がって保健室でサボる口実にしようと思うくらいには痛い。
「二人とも飯いらないな?」
『……』
梛のその一言がよほど効いたのか、凜桜は頬を膨らませながらも渋々離れ、美卯もぶつぶつと文句をこぼしつつ階段を下りてきた。
おそらく、この脅しが通じるのはあと数回だけだろう。そのうち、「自分で作るから」などと言い出すに違いない。今のうちに使えるだけ使っておくのが良さそうだ。
もっとも、両親が家を空けてからというもの、二人が料理する素振りを見せたことは一度たりともないのだが。
「姉貴はさっさと顔洗ってこい。美卯は……うん。テレビでも見て大人しくしててくれ」
何度も振り返りながら洗面所へ向かう凜桜を見送ってから、梛は台所へと足を向けた。
こんな日常が、両親が帰ってくるまで続くというのだから、早くも気が滅入ってしまうのも仕方のないことだろう。
梛は雲ひとつない洗濯日和の青空を、疲れ切った遠い目で見つめた。




