疑いたくはない
「お嬢様!」
婚姻省の玄関で。やって来たミレイアにモルガーヌを引き渡すと、セヴランはマチルダと共にそそくさとその場を去って行く。このような状況になってから、セヴランはミレイアをとても恐れるようになっていた。
「随分お早かったのですね。もう少ししたら迎えに来るよう貸馬車にはお願いしてあるのですが……」
ここで一旦モルガーヌとセヴランは別行動をすることになっていた。
まずセヴランには乗って来た馬車でマチルドを送って貰う。二人きりで話したいこともあるだろうからという心遣いだ。
その間にモルガーヌは貸衣装屋へ行き、時間のかかる着替えを済ませる。そして後から来るセヴランと合流するつもりだった。
「そう。じゃあ、ここで待っていましょう。立っていても平気よ、今日はそんなに疲れてないわ」
そしてモルガーヌはあの場であったことを一つ残らずミレイアに話して聞かせた。
「思ってたのと違ったわ。もっとこう……新規事業を提案するみたいな……前向きな話し合いをするものかと予想してたのよ。セヴランと必死に考えて、私達が婚約解消することのよい点を百個も用意していたのに馬鹿みたい」
「それは……お役所としては、現状維持が最も最善の結論なのでしょうね」
「でも記録では半分近くは離縁や解消を勝ち取っているのよ。諦めなければきっと大丈夫な筈だわ」
「そうなんでしょうかねえ……」
ミレイアは不安そうに相槌を打つ。
本当はモルガーヌ自身も大いに心配だったが、とりあえず今は頭の中から追いやっておく。
(最初から気持ちで負けるのは嫌だもの。前向きなことだけ考えていましょう)
馬車の迎えを待ちながら、建物に出入りする人々をぼんやりと眺める。職員とは違う様子の者達には密かに仲間意識を持って応援してしまう。
(あら?)
そんなふうに辺りに意識を向けている時だった。
モルガーヌは、建物の中から出てくる一人の栗色毛の女性に目を止める。
(あれは確かさっきの……面談員のルーセルさん。今から外出なのかしら)
なんとなく相手を目で追う。
そこでさらにもう一度、あら、と思う。
ルーセルが向かう門の近くの木の影に、身を潜めるように立つ一人の男性を見つけたのだ。
男性の手元がきらりと光る。
気付いて声を上げていた。
「ルーセルさん危ない!」
続いて振り返る。
「ミレイア!」
「はいお嬢様!」
言われたミレイアはどこからか鉄製の警棒を取り出すと駆け出した。
このミレイアという女性は。幼い頃から武術を学び、今では武人と言っていいスキルを持つ。モルガーヌの侍女兼護衛として仕えているのだ。
「! なんだお前、」
「おとなしくなさい!」
モルガーヌの警告で逃げ出したルーセルを追おうとした男を、ミレイアが一瞬で取り押さえる。
その鮮やかな手並みに、モルガーヌはホッとするのと同時に誇らしげな気持ちになる。
(さすが私のミレイアだわ!)
確保された相手はすぐに気付いた警護の者達に預けられた。
彼らと短い会話を交わした後、ルーセルはよたよたとモルガーヌの下へ歩いて来る。
「いやあ! 助かりました、ありがとうございます! お宅の侍女さんお強いんですねえ!」
「自慢の侍女です。それよりルーセル様は大丈夫ですか、お怪我などありません?」
「ええ、大丈夫……と言いたい所ですが。あれ? ちょっと足をひねったかな?」
様子を確かめて顔を顰める。
咄嗟にモルガーヌは支えの手を伸ばした。
「大変! こちらにお医者はいますの? いないのなら病院までお送りしましょうか?」
「おお! それは助かります。いいんですか?」
「はい、もちろん」
そうしてモルガーヌ達三人は、やって来た馬車に乗り込んだ。
ひとまず安全な個室に落ち着いて、モルガーヌはふう、と息を吐く。
まだ心臓がどきどきしている。こんな騒ぎに巻き込まれたのは生まれて初めてなのだ。
(お父様達がいつも忙しそうな理由がわかったわ。世の中には血の気の多い人がいるものなのね……)
ちらりと目の前のルーセルに目をやる。
(それにしても……)
「ふふふ私馬車ってあまり乗る機会がないんですよ。ちょっとわくわくしますねえ」
つい先ほど暴漢に襲われそうになったばかりだと言うのにまるで動揺した所のないルーセル。
モルガーヌはミレイアと視線を合わせて『今おかしいのはルーセルの態度である』ことを確認した。
「その……ああいうことはよくあるのですか?」
なのでついモルガーヌは尋ねてしまった。
ルーセルはにこにことうなづき返して来る。
「そうですね! こういう仕事なんで。さっきの人は、離縁が認められて嫁に逃げられてうちを逆恨みしてる輩ですね。手にしたものを奪われるのと、手に入れてないものから遠ざけられるのでは前者の方が人は怒りやすいようです。だから私らはなるべく離縁も破談もさせないようにしてますね」
「……まあ。そういうものなんですね」
モルガーヌは再びミレイアと視線を合わせた。現状維持が最善、という予想には、そんな理由も含まれていたらしい。
「でもまあ、大抵は街中で偶然出会って因縁つけられるくらいで、職場まで乗り込んで来られるのは滅多にありませんよお!」
両手をひらひらと振ってけらけらと笑う。
その話に笑える要素はどこにもない。ルーセルの反応はモルガーヌにはさっぱり理解不能だった。
ひとしきり笑った後、さて、と言ってルーセルは姿勢を正した。
「ブレイン嬢。婚姻省職員として、関係者に借りを作ったままというのもなんですので。ここは早々にまっさらにしておきましょう。まずは馬車に乗せて貰ったお礼を返します。……次回の面談から我々はやり方を変えますよ。貴女方もその心構えでいておいて下さいね」
突然真面目になった相手にモルガーヌは戸惑いながら問い返す。
「心構え、ですか」
「いやあ! 今回はこちらが見くびっておりました。温室育ちのお坊ちゃんお嬢さん方ならちょっと揶揄えば怒って出ていくか、ご両親に抗議申し入れをさせようとして計画がバレて申請が取り消されるとか、そういうことを期待していたんですけどねえ」
「さすがにそこまでうかつな人はいないでしょう!」
やはり揶揄われていたのかと思いながらモルガーヌは呆れた。ルーセルは肩を竦める。
「いや結構いるんですよ? 特に家に内緒で事を進めようとするタイプの方々は、現実認識の甘い方が多いもので」
「っ……」
モルガーヌはさっと顔を赤らめ、すぐ頭を切り替える。
「……まさか。ここで私を煽ってこちらが親の説得から始めようとするのを狙ってます?」
「てへ! ばれましたか!」
自分の頭を叩いてみせる。
(何なの、この人は!)
モルガーヌはぷりぷりしながらふとミレイアを見る。彼女が何か実力行使をしようとしているのを見つけて慌てて首を振って止めた。
「そ、そう言えば。貴女方は何故、親には知らせずにというこちらの要求を飲んでくれるんですか? 申請を却下するならばらしてしまった方が早いような……」
「何事も。追い詰めると言うのはよくない結果を生むものです」
過去に何かそのような事件があったのかもしれない。
ここで初めてルーセルの表情に影が見えた。
モルガーヌが気付いた、ということに気付いたルーセルはすぐその色を消し去る。
「こちらで離縁や婚約解消を認めたならば、申請者の関係者を納得させるのは我々の仕事です。もしもそうなった場合はご安心くださいね」
「まあ。そこまでしてくれるものなのですが……」
(敵である内は大変だけど、味方になれば頼もしい人達なのね)
モルガーヌの中で婚姻省に対する見方が少し変わった。
そんなモルガーヌにルーセルが挙手をする。
「では次に、命を救われた分の恩返しをしたいと思います。……これは婚姻省としてではなく、私個人としての見解と思って聞いて下さい。……ブレイン嬢。貴女、何か騙されてやしませんか?」
「はい?」
あまりの驚きに、裏返った声が出てしまった。
直前までへらへらしていたルーセルは、別人のような深刻な表情になっている。
「6年間の婚約で、今から破談にして良縁を見つけるにはぎりぎりの年齢。双方が認める完全な相手側有責。しかもブレイン家の不幸で延期されてしまいましたが、本来ならお二人は既に結婚してモルガーヌ様はとっくに向こうに嫁入りしている筈でした。……にも関わらず、この賠償金は何です? 桁が一つ違うでしょう」
ルーセルがくいっと眼鏡を上げる。
「婚約者に何かうまいこと言いくるめられてやしませんか?」
モルガーヌは慌てて両手を振った。
「それは、違うの。相場より減額したのは私から言い出したのです。実はブノワ領では今年に入って植物を枯れさせる悪い病気が流行ってしまって。花の庭園を観光名物にしている産業は大打撃だし、もちろん農作物にも被害が出たそうなの。だからあちらは今経済的にとても苦しい状況なんです。これで縁が切れる私としてブノワ家に出来ることはこれくらいかな、と思って……」
「では嫁入りそのものが不自然に伸ばされたのは? 喪中の2年間は挙式は避けるとしても、通例なら本来の結婚をするタイミングで向こうの家に入ってる筈ですよね」
「それは、セヴランが、身内を亡くして気を落としている家族にしばらく寄り添ってあげたらどうかと言ってくれたからですわ。あと、」
モルガーヌは少し恥ずかしくなって肩を丸めた。
「やっぱり同居と言うのはちゃんと式を挙げてからにしたいと思ったので……」
「将来お子様にご両親の婚姻成立日と自分の出生日の計算が合わないと泣かれても困りますからね」
ミレイアが付け足し、ルーセルがなるほどとうなづく。
この国での正式な貴族の結婚は、互いの一族だけを集めた式を挙げ、彼らに見守られる中で神父と新郎と新婦で婚姻書にサインをする。それを婚姻省に持って行き、受理されることで成立する。
ふむ、とルーセルは腕を組む。
「とりあえず、ご本人が納得のいかないような不審点はない、と。……でも、おかしいですねえ。長らくこの仕事に就いてる私自身の勘が、何かこの婚約解消には嘘がある、とそのように告げているんですよ」
「そんなことを言われましても……」
「あの、ルーセル様。例えばですね。この状況でお嬢様が騙されているとして、どういう事例が考えられます?」
モルガーヌは驚いた。ミレイアも自分と同様、ルーセルの的外れの勘繰りに困惑しているだろう、と思っていたので。まさか騙されているかもという方向を広げるとは思わなかったのだ。
(ああ。でも、仕方ないかもしれないわね。ミレイアは今、セヴランを悪者にしたくてしょうがないんだもの)
モルガーヌ自身があっさり許してしまったのでミレイアとしては消化不良なのだろう。
「そうですね。例えば。ザーラ嬢の腹にブノワ子息の子がいるのを隠しているとか。この場合婚約中の不貞ですので、賠償金どころか法的にも罪が問われます。ですが今の内にさくっと破談に出来たら、まだ腹も目立たないようですし、不貞の時期をごまかすこともできるでしょう」
「……まあ」
「後は……近くブレイン家に多大な問題が発生すると言う情報を持っていてそこから逃げ出したとか……」
「そういう話ならまずおじ様達には話を通すのじゃないかしら」
「では私も一つ。本当はマチルド様がお相手じゃなくて、お嬢様が絶対に嫌がる相手が本命だ、というのはどうでしょう」
「ミレイア」
「でもパティ様がお相手なら意地でも婚約を続けますよね?」
「っそれは、そうだけど!」
パティとはモルガーヌの従妹の名で、とにかく子供の頃から仲が悪く、互いを嫌い合っていた。
昨年の葬儀で久しぶりに顔を合わせたが、
『結婚式が伸びて残念ね。最新のウェディングドレスを作ってるって聞いたけど、その頃じゃもう流行遅れになってるわね。お気の毒に』
などと言ってきたのでモルガーヌは彼女を一生許さないと決めた。今ではどうにか彼女を式の参列者から外す方法はないかと思案しているところだった。
「……まさか。パティなの?」
「いえいえ、それは例え話です。さすがにセヴラン様もそこまで趣味は悪くないかと」
「脅かさないで!」
ふう、と息をつく。
「ともかくこのように、疑ってみれば様々な可能性がある訳です。モルガーヌ様も、お相手の言葉をそのまま鵜呑みになさらず、少し探ってみるというのはどうでしょうか。……あ、ここでいいです、下ろして下さい」
ルーセルは小窓を開け、御者にそう告げる。
小柄な体でぴょんと馬車を飛び降りた彼女は、モルガーヌ達を見上げた。
「それでは! また来週お会いしましょう。今日は本当に助かりました!」
こちらの胸に嫌な荷物を放り投げたまま、自分は元気に手を振って去って行く後姿をモルガーヌは微妙な気持ちで見送るのだった。




