婚約を解消したい
伯爵令嬢モルガーヌは、待ち合わせ場所に現れた伯爵令息セヴランに目を向けた。
「遅かったわね。抜け出せなかったの?」
「まあ色々とあってな。俺もなかなか忙しいんだ」
(オレ、ですって)
おそらく平民を装っているつもりなのだろう。似合わない一人称にモルガーヌは心の中で苦笑いする。
そうと知らないセヴランは帽子を脱いで席に着く。給仕にいくつかの注文をすると、その姿が消えるのを待って懐から一通の封書を取り出した。
モルガーヌの手にも同じ封書が合った。
「緊張するな」
「ええそうね。……では、一緒に確認するわよ」
そう言って二人は同時に中身を見る。
さっと文面を読み下した後、二人は揃って「あー!」と声を上げた。
「駄目だったか!」
「まあ、そうだろうとは思ったけれどね。この段階で片がつくなら難関とは言われないもの」
「俺の! 渾身の論文をなんだと思っているんだあの連中は!」
「セヴランの論文、50点。独創性に欠けて説得力がない、だそうよ」
モルガーヌは結果を読み上げてくすくすと笑った。
セヴランが不機嫌に口を尖らせる。
「笑いごとじゃないだろ。これで婚約解消が遠のいたんだぞ」
「そうねえ。結婚準備が始まる前、せめて今年中には解決したいわね」
モルガーヌはそう言ってお茶を口にする。
最近流行りだというこの店の、最も人気商品であるサンザの花を使った鮮やかなピンク色をした紅茶であった。これを飲んだ直後、一瞬だけ、飲んだ者の唇がサンザ色に染まるのが艶めかしいと、若い女性達に評判なのだ。
モルガーヌの変化に気付いたセヴランは、何か言おうとして迷って止める。
そして運ばれて来た自分の分の定番の茶と、軽食を詰め込むようにして摂取していく。
頬を膨らますその様子にモルガーヌは目を見張った。
「ずいぶん急いでいるのね」
「ああ。この後マチルドと約束があるんだ」
「そうなの。まあ、それはそうね、彼女も結果を待っているのでしょうし。いいわ、ここは支払っておくから早く行って。私はもう少しゆっくりするから」
「いいのか? 悪い、次は俺が必ず持つ」
立ち上がって個室の出口まで歩くセヴランは最後に振り返った。
「あー、なんだ。その、平民の変装、似合ってる」
「貴方もね」
モルガーヌはひらひらと手を振ってセヴランに早く行くよう促した。
そして一人になったテーブルで、手付かずだった茶菓子を頬張る。
(こうして自由に過ごせるのも今の内かしら。セヴランとの婚約が終わったら、お父様もお母様もきっと二度と好きにはさせてくれないわ。短い猶予時間をせいぜい楽しんでおきましょう)
ここ、ベージュリア王国における結婚に関する全ての許可は、婚姻省と呼ばれる役所が請け負っていた。
申請された婚約や婚姻の許可に関しては比較的速やかに認められる。
だが、離婚や婚約の解消に至っては、恐ろしいほど厳しい審査が繰り返されるのだ。
その結果、それらの申請をしたものの、途中でくじけて諦める者が半数以上。
この国では婚姻関係以外の相手を持つのは重罪となるので、泣く泣く不自由な人生を受け入れるか、他国へ逃亡するかになる。
半年ほど前だ。
その夜、珍しく何曲も踊り続けた舞踏会の途中で、モルガーヌはセヴランにバルコニーへと案内された。
互いに12の時に婚約を交わしたモルガーヌとセヴランは、今年で6年目のつきあいになる。
モルガーヌとしてはセヴランを、特別なときめきはないけれど、いずれ誰かと結婚しなければならないのなら、わりと気が合うこの相手なら悪くない、というくらいに思っていた。色恋の相手よりは異性の友人という感覚がぴったりだ。
なのでその夜は、なんだか相愛の恋人同士のようなセヴランの振る舞いに少しの疑問を持ったのだ。
「モルガーヌ。君との婚約を解消したい。他に妻にしたい相手が出来たんだ」
二人きりになっていきなり言われたその宣言に、モルガーヌは驚くより先になるほどねと納得した。
思えばここ数か月、彼とは不自然に会えない期間があった。この国の貴族は半年ごとに王都と領地を行き来するが、その王都滞在時期にも関わらず、である。
今夜何曲も踊り続けたのも、この件を言い出す勇気がなかなか出なかったからなのだろう。
(それにしても、意外だわ)
長年この相手とつきあってきたが、恋に溺れるようなタイプだとは思わなかった。
異性への興味よりも様々な趣味に夢中で。婚約者としての対応も、いつもいかにも「こうするものだとお勉強してきました!」という感じであった。
「本気で言ってるのね」
「ああ」
「婚約の取り消しは簡単にはいかないって知ってる?」
「もちろん知ってる。僕は、覚悟を決めたんだ」
セヴランは、これまでモルガーヌが見たこともない真剣な顔つきをしていた。
それに気付いたモルガーヌは息を吐いた。
「……そう。わかった。だったら私もつきあうわ。婚姻省に申請して、しっかり解消を勝ち取りましょう」
「モル……!」
モルガーヌの言葉に、セヴランが瞳を潤ませる。
泣くほど嬉しかったのか、と思えば、モルガーヌの心は少しざわつく。
(この人。私が拒否したらどうしてたのかしら)
きっとひたすら謝り続けながら最後には泣き落としに出ただろう。
何かしらの非をこちらに押し付けて突き放す、というようなやり方は出来ない男なのだ。
そうして自分はあっさりと絆されて、やっぱり解消を受け入れてしまったいたに違いない。
(無駄なやりとりがワンターン減った、と思いましょう)
モルガーヌは肩を竦める。
「それで? 相手はどんな人なの? 私も知ってる?」
「……実はさっき、すれ違って挨拶した」
「え」
「貴族だけど、大学で植物の研究をしている女性でね。領地の問題でアドバイスをもらっている内に……そうなったんだ」
「私は今、自分が人の心の変化に気付かない人間だと気付かされて大きくショックを受けているわ。全っ然わからなかった。心変わり……とは言わないわね。恋をした婚約者を見抜けない?」
「それは、こっちも滅茶苦茶気を付けていたからな。覚悟を決めるまでは絶対に表に出しちゃいけないと思ってたし……」
モルガーヌは首を傾けてセヴランを見上げた。
「他に好きな相手がいるまま、私と結婚をするつもりもあった?」
「むしろそれが大人の対応だと信じてたよ。でも……それは、モルを裏切る行為だと思った。君の性格なら、そういうのは嫌だろう?」
モルガーヌは少し驚いた。
(それじゃあまるで、私の為に別れようとしているみたいじゃない)
貴族間の結婚に恋愛感情が不要なのはこの国では当たり前の話であった。
モルガーヌもそんなことは充分理解している。
『お前達でタッグを組んでこの家を運営していきなさい』が親に言い渡された婚約の意味だ。互いに相手を敬うが、愛情が育つかどうかは運次第である。
でも、モルガーヌの本音の理想を言えば。夫になる相手にとって、妻である自分は世界中の誰よりも最優先される人物でありたかった。
(例えばセヴランが死ぬ時に。その手を握っていて欲しい相手が他にいる、というのは寂しいわ)
そのようなことをはっきりと口に出して語り合った覚えはなかった。けれどそれなりに長いつきあいの中、セヴランはモルガーヌのそういう性質をよくわかってくれていたのだろう。
モルガーヌはそんなセヴランの友情に応える為、自分自身も覚悟を決めた。
「……そうね。二人とも寂しくなるよりも、二人で幸せいっぱいになる道を選びましょうか」
こうしてモルガーヌとセヴランは婚約解消申請書を婚姻省に提出した。
申請に必要な書類や論文はちょっとした本の厚みほどになった。
そこから専門家達による関係者達の調査が始まり、一か月後に封書で結果が送られて来たのである。
ちなみにこの審査結果の効力は絶大で、家はもちろん、時には王命でさえ覆すことが出来ると言う。
「まああ! お金も置いていかないで帰ってしまったのですか、あの方は!」
セヴランが出て行ったのを見届けて、大部屋のテーブルで待機していたモルガーヌの侍女、ミレイアが入れ違いに入ってくる。
「見逃してあげて。小銭の扱いがわからなくて苦手なのよ」
この国の貴族は基本サインで支払いをするので現金に触ることは滅多にない。
今、二人は家にはばれたくない秘密の行動中なので、平民の服装で平民の店を使い、足のつかない現金払いを選んでいた。
ミレイアと二人きりになり、気の抜けたモルガーヌはお行儀悪くテーブルに頬杖をつく。
「あーあ。自分の為に男のプライドも後回しにして駆けつけてくれるようなお相手が私も欲しいわー」
「婚姻省は縁談の斡旋もしてくれるようですよ?」
「私に夢中になってくれる人を希望します、で探してくれるかしら?」
「……その場合、お嬢様に拒否権はないかもしれませんね」
「……それは怖いかもしれないわね」
一度婚約を解消した令嬢となれば、一つ価値が落ちたと見る相手も多いだろう。年寄りの後妻や非常に難ありの独身貴族からの申し込みがあるかもしれない。
想像したモルガーヌはぶるりと身を震わせた。
「まあ、なんにしても申請が通ったらの話だわね! さすがに婚約中に別の縁談を探したらまずいだろうし」
カップに残ったお茶を飲み干す。
ミレイアはテーブルに広げられた返答書にちらりと目を落とすと、静かに口を開いた。
「お嬢様。……正直、不受理で少しホッとされてます?」
モルガーヌは茶菓子を二つに割った。
「それはどういう意味で? 親に知られて大事になるのが少し伸びた、という点ではそうかもしれないわね。セヴランと別れずに済んだという意味では全くそんなことはないわ」
茶菓子の半分を手渡され、席に座るよう促されたミレイアは指示に従う。
「……私はセヴラン様はお嬢様に恋されていると思っていました」
「侍女の欲目ね。何を根拠に? 焼きもちの一つも妬かれたことないのに」
「妬かれるような親しい異性がいましたっけ?」
「……まあ、いないけど」
菓子を一口ミレイアの口へ放り込む。
「いい機会だから。ミレイアにだけは嘘偽りない気持ちを言うわ。……一緒に生きて行こうねと決めてたパートナーにいきなりその手を振り払われたことはとても衝撃で、悲しかった。同じ未熟者同士と思ってた相手が自分だけさっさと大恋愛をしていたというのはかなり悔しい。……でもね。ただ親に示された道をぼんやりと並んで歩くだけだった片割れが、『これを手にしたら自分は幸せになれるかもしれない』っていう何かを見つけたっていうのは……私にとってもすごいことなの。そんなものを見つけた相手を、出来れば応援してあげたいなというくらいには……セヴランに情があるのよ、私」
「お嬢様」
何故かミレイアは置いてあったナプキンで目元を拭った。
「貴族女性にとって、婚約の解消は非常に、ひっじょーーに、大きな出来事です。大袈裟に言うのではなく、それは一生を左右する大事件です。それを、当の婚約解消を申し出て来た相手への友情の為にこうもあっさりと受け入れてしまうなんて……私はお嬢様が素晴らしい淑女になるようこれまでお育て申し上げましたが、まさか私の予想以上に巨大な器を持つ女性におなりになって、感無量と言うよりもはや驚愕しかございません」
「ミレイアに育ててもらった覚えはないわよ、三つだけ年上でしょ。あとおかしな嫌味は止めて。そりゃあ、まあ……セヴランと結婚するなら貴女にもついてきてもらう予定だったのだし? 次のお相手でどうなるかはわからないし? 文句の一つも言う権利はあると思うけど……」
「あ、それは大丈夫です」
ナプキンを下ろして全く涙の痕跡もない顔を向ける。
「お相手に同行を断られましたら、他人になりすましてでもお嬢様のお側に仕えられるよう工作しますから」
「怖いわよ! 本当にやりそうだし! ……まあその場合は私が現地で侍女の募集をかければなんとかなるかもしれないわね……」
モルガーヌにとってミレイアはただの侍女と言うよりは、姉のような時には兄のような友達のような、そんななくてはならない存在だった。
二人は目と目を合わせると、ふっと笑い合う。
「もう、動き始めてしまったものはどうしようもないわ。ミレイアさえいてくれれば最悪でも野垂れ死にはないような気がするし」
「お任せください。お嬢様一人くらい私が養って差し上げましょう」
「頼もしいわー」
目をキラキラさせてミレイアを見上げてしまう。
「さて。とりあえず将来の不安もなくなったことだし、帰りましょうか。……そうだ、ここはお菓子の持ち帰りができるのよね。エリックに何か買って帰りたいわ」
「お忘れですか。本日は隠密行動です」
「……そうだったわね」
思いついた名案がすぐに潰れて少ししょげる。
(でもお茶もお菓子もとってもおいしかったから。いつか何かしらの理由をつけてエリックと一緒に来ましょう)
モルガーヌはそう自分を納得させた。
そうして二人は席を立ち、外では行列の出来始めている店を後にしたのだった。




