第28話 2人目の魔王、歩き病原体
ゾフィア・グレイにとって、この世界の学問は――あまりにも簡単すぎた。
「なにこれ、小学生のドリル?」
机の上には魔法の理論書、薬草学の教本、鍛冶技術の基礎図面が並んでいる。
けれども、どの分野も彼女にとっては手を伸ばせばすぐ届くほど浅い内容だった。魔法陣の組み方も、人体構造も、金属加工の温度管理も、すべて既知の範囲。むしろ、現代知識に近い感覚を持つ彼女にとっては、児戯の域に感じられる。
「……まぁ、覚えるのは楽でいいけどさ」
彼女の前に座るのは、背中の丸まった老婆――かつて賢者と呼ばれた人物だ。
その授業は丁寧すぎて、まるで幼稚園の先生が子どもに絵本を読み聞かせるようだった。
「さぁ、これでひと通りの知識は身につきましたね」
「うーん……でも、魔法はやっぱり使えなかったわ」
ゾフィアは肩をすくめる。手をかざしても火花一つ生まれない。
「仕方のないことです。魔法には適性がありますから」
老婆は優しく微笑む。
「ですが、あなたには別の天賦――“病魔”の力がある。その力は、これから向かう場所でこそ真価を発揮するでしょう」
「そうだといいけどね」
ゾフィアは机に肘をつきながら、つまらなそうに天井を見上げた。
「次に行ってほしいのはジェラルド王国です。そこに……おそらく勇者様の転生体がいます。必ず、その方を見つけてください」
「見つけても、私にできることなんてないでしょ?」
「いいえ、あなたの力が、必ず役に立ちます」
老婆の瞳には確信があった。
「……まぁ、悪いやつを片っ端からとっちめるくらいしかできないけど」
「それが、あなたのいいところです」
老婆は立ち上がり、背後の棚からリュックサックを取り出す。
「旅の荷物をお渡しします。……ああ、その前に。あなたにはひとつだけ、弱点があります」
「弱点?」
「機械族やゴーレム系には、病魔は通用しません。彼らは生きていない。出会ったら……逃げなさい」
「なるほど。生物じゃなきゃ、病気で殺すことはできないもんね」
ゾフィアはあっさり頷いた。
こうして、知識と荷を得た“病魔の治療”の使い手は、滅びかけた村を後にした。
村の人々は、手を振って見送る。ゾフィアは振り返らず、小さく片手を上げた。
旅立って三日後。
「……なに、これ」
道中の村が、一つ残らず壊滅していた。
道端に転がる荷車。干からびた家畜の死骸。家屋の中は、静まり返ったまま誰もいない。
そして――黒い煙のようなものが、ぶすぶすと空に溶けていく。
ゾフィアは本能的に悟った。あれは病魔だ、と。
「ぐ……魔王が……」
最後の力でそう呟き、老人は地面に崩れ落ちた。
「魔王……?」
ゾフィアは足を止め、顎に指を当てる。
海の向こうの崖下に眠っているという“初代”魔王とは別。ならばこれは――二人目。
元賢者から聞いた知識が脳裏をよぎる。
魔王とは、人が極限の呪いを受けた時に誕生する。
幼少期から虐待され、教育も受けられず、悪魔のような環境に閉じ込められ……心が腐り、魂が歪み、肉体が穢れて――その果てに魔王になる。
かつての魔王も、人間であり勇者の友だった。だが勇者に裏切られ、地獄の戦場で少年期を過ごし、心も体も焼き潰された。
その成れの果てが“災厄”だった。
「ってことは……この二人目も、そういう生い立ちってわけね」
黒い煙が漂う方角は、ジェラルド王国。
「まずいな……このままじゃ、王都まで壊滅する」
幸い、まだ配下のモンスターはいない。単独で行動している。
ゾフィアは病魔を吸収しながら進んだ。
吸い取るたびに、耳の奥で悲痛な叫び声が響く。
『やめて……痛い……』
『もういやだ……』
「……奴隷、だったのね」
ゾフィアは奥歯を噛みしめた。まだ完全覚醒していない。今なら……間に合うかもしれない。
ようやくたどり着いた開けた広場。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
全身から黒い炎を噴き上げ、髪は逆立ち、瞳は血のように赤い。
背後から溢れる触手のような黒いオーラが、逃げ惑う人々を絡め取り、悲鳴とともに地面へ叩きつける。
触れられた者は苦悶の表情を浮かべ、泡を吹き、やがて動かなくなった。
「……あんなの、無理」
足が震える。心臓が耳元で爆音を立てる。
だが――逃げられない。
「やるしか……ない時があるのよ、ゾフィア・グレイ」
彼女は深呼吸を三度。肺に残る恐怖を吐き出すように。
そして、物陰から一歩踏み出した瞬間――
視界を覆い尽くすほどの黒い塊が、波のように押し寄せた。
【病魔の治療】が反射的に発動する。
だが、その濁流はあまりにも濃く、ゾフィアの意識は一瞬で飲み込まれた。
――暗闇。
そこで彼女は、少女の声を聞く。
泣き声。悲鳴。
絶望に満ちた独白。
『助けて……お母さん……』
その声を聞いた瞬間、ゾフィアの胸の奥で、何かが強く締め付けられた。
初めて、彼女は心から弱音を呟く。
「……助けて……誰か……」
そして、闇はさらに深く――彼女を包み込んだ。




