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辺境への道

第1話:辺境への道

秋の風が、荒野を吹き抜けていく。

荷馬車の荷台に揺られながら、リオン・アッシュフォードは灰色の空を見上げていた。四十五歳。二十年間、宮廷で料理人として働き、そして追放された男。

「なあ、あんた本当に宮廷料理人だったのか?」

御者台から声がかかる。馬車を操る商人は、信じられないという顔をしている。

「ああ」

リオンは短く答えた。

「それがなんで、こんな辺境に?聞いた話じゃ、辺境領なんて破産寸前だぞ。領主は借金まみれ、村は貧乏、何もない土地だ」

「...知っている」

「引き返した方がいいぜ。宮廷料理人なら、もっとマシな職場があるだろ」

リオンは答えず、自分の手を見つめた。

皺が増えた。傷も多い。包丁で切った跡、火傷の痕。

二十年間、この手で何を作ってきた?

誰を幸せにしてきた?

「...いや、違うな」

「あ?」

「俺は、誰も幸せにしていない」

リオンは呟いた。商人には聞こえない声で。


馬車が止まったのは、日が傾き始めた頃だった。

「着いたぞ。ここが辺境領の入口だ」

リオンは荷台から降りた。足が地面に触れる。固い土の感触。

目の前に広がるのは、小さな村。

家々は古く、壁には亀裂が走っている。畑は荒れ、作物はまばら。道端に座り込む老人たち。痩せた子供たち。

「...ひどいな」

商人が呟く。

「ここで本当にいいのか?」

「ああ」

リオンは荷物を降ろす。革の鞄一つ、木箱一つ。全財産だ。

「じゃあな。生きて帰れるといいな」

商人は馬車を走らせ、去っていった。

リオンは一人、村の入口に立つ。

風が吹く。枯れ葉が足元を転がる。

「ここが、俺の最後の場所か」


村の中心に向かって歩く。

すれ違う村人たちが、じろじろと見てくる。

見慣れない男。綺麗すぎる服。場違いな存在。

リオンは気にせず、歩き続ける。

「ねえ、あんた誰?」

小さな女の子が声をかけてきた。六歳くらいか。ボロボロの服を着ている。

「旅人だ」

「旅人?珍しい。この村、誰も来ないのに」

「そうか」

「お腹空いてる?」

女の子は小さなパンを差し出した。硬そうなライ麦パン。恐らく、数日前のものだ。

「いいのか?」

「うん。ママが、困ってる人には分けなさいって」

リオンは受け取った。ずっしりと重い。石のように硬い。

「...ありがとう」

女の子は笑って走り去った。

リオンはパンを見つめる。

このパンを、この子は自分のために取っておくべきだった。

なのに、見知らぬ男に分け与えた。

「...馬鹿だな」

でも、温かい。

リオンは鞄からナイフを取り出し、パンを削る。表面の硬い部分を削ぎ落とし、中の柔らかい部分を一口。

パサパサしている。味気ない。

でも、確かに小麦の味がする。

「悪くない」

リオンは全部食べた。


村の奥、小高い丘の上に、古い館が建っていた。

領主館だ。

石造りの建物。だが、壁は崩れかけ、屋根には穴が開いている。

リオンは正面の扉を叩いた。

ドンドンドン。

しばらくして、扉が開く。

出てきたのは、五十代の男。疲れ切った顔。深い皺。

「...どなたですか?」

「リオン・アッシュフォード。手紙を送った者です」

男の目が見開かれる。

「リオン...本当に、来てくれたのか」

「ええ」

男は深く頭を下げた。

「ありがとうございます。私が領主のヴァルデマール・フォン・エーレンベルクです」

「では、早速」

「中へどうぞ」


館の中は、外見と同じく荒れていた。

廊下の絨毯は色褪せ、壁には染みが浮いている。

応接室に通される。

古い革張りの椅子。木製のテーブル。暖炉はあるが、薪は入っていない。寒い。

「すみません。お茶も出せなくて...」

ヴァルデマールは申し訳なさそうに言った。

「構いません」

リオンは椅子に座る。

「単刀直入に聞きます。なぜ、俺を呼んだんですか?」

ヴァルデマールは深くため息をついた。

「この領地は、終わりかけています」

「...」

「借金が金貨五百枚。返済期限は二年後。収入は年間金貨百二十枚。支出は百八十枚。毎年、赤字です」

ヴァルデマールは顔を覆った。

「このままでは、領地を手放すしかない。村人たちは路頭に迷う」

「それで、俺に何をしろと?」

「料理で、領地を救ってほしい」

リオンは眉をひそめた。

「...料理で?」

「ええ。あなたは宮廷料理人だった。その技術で、この領地に産業を作ってほしいんです」

「具体的には?」

「特産品の開発。加工技術の指導。商品として売れるものを作る」

ヴァルデマールは資料を広げた。羊皮紙に書かれた、領地の情報。

「この領地には、資源はあります。でも、活かす術を知らない」

リオンは資料を読む。

農作物:小麦、野菜数種、ルビーベリー(食用不可)

家畜:羊百頭、鶏若干

その他:山菜、川魚

「ルビーベリーとは?」

「赤い実です。大量に採れますが、酸っぱすぎて食べられません」

「...見せてもらえますか?」

「今すぐ?」

「ええ」

ヴァルデマールは立ち上がった。

「分かりました。畑にご案内します」


二人は館の裏手にある畑に向かった。

夕日が、地平線に沈みかけている。

「ここです」

ヴァルデマールが指差す先に、低い木が並んでいた。

枝には、小さな赤い実がびっしりとついている。ルビーベリー。

リオンは一粒を摘み、口に入れた。

「っ...!」

強烈な酸味が舌を刺す。思わず顔をしかめる。

でも。

噛み続けると、奥にかすかな甘みがある。そして、独特の香り。

リオンは実をじっくりと味わう。

酸味、甘み、香り。

バランスは悪い。でも、素材としてのポテンシャルは高い。

「これは...」

リオンの目が輝いた。

「使えます」

「本当ですか?」

「ええ。この実は、宮廷で高値で取引されていたクリムゾンベリーに似ている」

リオンは実をもう一粒摘む。

「加工すれば、素晴らしい商品になる」

ヴァルデマールの顔に、初めて希望の色が浮かんだ。

「では...本当に、領地を救えますか?」

リオンは夕日を見つめた。

赤い光が、畑を照らしている。

「...分かりません」

「え?」

「でも、やってみる価値はある」

リオンは振り返った。

「明日から、始めましょう。まずは、このルビーベリーの加工から」

「はい!お願いします!」

ヴァルデマールは深く頭を下げた。


その夜、リオンは与えられた部屋で一人、窓の外を見ていた。

月が昇り、村を青白く照らしている。

静かだ。

宮廷にいた頃は、夜でも騒がしかった。宴会、密談、陰謀。

でも、ここは違う。

ただ、静かに時間が流れる。

「...俺は、ここで何ができる?」

独り言。

二十年前の記憶が蘇る。

あの日。晩餐会。

王女エレナが倒れた日。

俺の料理に、毒が混入されていた。

王女は命は取り留めたが、味覚を失った。

「あなたは悪くない」

そう言ってくれた。

でも、俺は自分を許せなかった。

だから、逃げた。

宮廷を出て、放浪して、ここに辿り着いた。

「今度こそ...」

リオンは拳を握る。

「今度こそ、誰かを救ってみせる」

窓を閉め、ベッドに横になる。

硬い藁のマットレス。薄い毛布。

でも、不思議と落ち着く。

明日から、新しい人生が始まる。

料理で、人を救う人生。

リオンは目を閉じた。


夜明け前。

リオンは目を覚ました。

体が勝手に動く。二十年間の習慣だ。

厨房に向かう。

館の厨房は、予想通り荒れていた。

古い竈。錆びた鍋。鈍った包丁。

「...まずは、掃除からか」

リオンは袖をまくった。

井戸から水を汲み、床を洗う。棚を拭く。道具を磨く。

二時間後。

厨房は、見違えるほど綺麗になった。

「よし」

リオンは革の鞄から、自分の道具を取り出した。

銀の温度計。研ぎ澄まされた包丁。小さな計量スプーン。

そして、一冊の古い本。

『王宮秘伝料理書』

これが、俺の武器だ。

リオンは本を開き、あるページを探す。

『保存食としての果実加工』

「ここだ」

彼は必要な材料をメモする。

砂糖、レモングラス、塩、香辛料。

「領主に頼んで、商人から買ってもらうか」

その時、扉が開いた。

「あら?」

振り返ると、若い女性が立っていた。

二十歳くらい。長い栗色の髪。大きな緑の瞳。

でも、顔色が悪い。痩せている。

「あなたが、リオンさん?」

「...ああ」

「初めまして。私、エリーゼ。領主の娘です」

彼女は微笑んだ。

でも、その笑顔の裏に、何か影がある。

「父から聞きました。料理で、領地を救ってくれるって」

「...できるかどうかは、分からない」

「大丈夫」

エリーゼは首を横に振った。

「私、信じてます。リオンさんなら、きっとできる」

「なぜ、そう思う?」

「だって」

エリーゼは窓の外、朝日を見た。

「諦めない人の目を、してるから」

リオンは彼女を見つめた。

この娘も、何かを抱えている。

それは、すぐに分かった。

でも、今は聞かない。

「...ありがとう」

「頑張ってください。私も、手伝います」

エリーゼはそう言って、部屋を出ていった。

リオンは一人、厨房に残る。

朝日が、窓から差し込む。

「さあ、始めるか」

彼は竈に薪をくべた。

火を起こす。

パチパチと音を立てて、炎が燃え上がる。

温かい。

この温かさが、料理の始まりだ。

リオンは銅鍋を火にかけた。

井戸から汲んできた水を注ぐ。

温度計を差し込む。

ゆっくりと、水温が上がっていく。

十度、二十度、三十度。

リオンは目を閉じ、音に耳を澄ます。

鍋の中の水が、かすかに音を立て始める。

対流が起きている証拠。

「まだだ」

四十度、五十度。

小さな泡が、鍋底に現れる。

「もう少し」

六十度。

泡が浮き上がり始める。

「今だ」

リオンは火を弱めた。

この温度を保つ。

「これが、全ての基本」

彼は呟いた。

料理は、温度との対話だ。

急げば失敗する。

焦れば崩れる。

ゆっくりと、丁寧に。

それが、料理人の仕事。

リオンは笑った。

二十年ぶりに、心から料理を楽しんでいる。

「ここで、俺は変われるかもしれない」

朝日が、厨房を照らす。

新しい一日が、始まった。

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