陽光の下、魔淵に死す 奇傑大関 八幡山 定吉
昭和生まれの好角家でも八幡山のことをご存知の方はほぼ皆無と思われるが、実は平塚海水浴場とも奇縁で結ばれた力士なのである。
湘南平塚海水浴場と言えば、昭和の始めから海水浴客で賑わう人気スポットだが、沖合いが急に深くなっているため水難事故も多く、一時期遊泳が禁止されていたこともある。平成八年にT字型堤防が築かれたことで浅瀬が確保され、危険度は減ったとはいえ、令和になっても遊泳禁止区域で溺れる事故がしばしば起こっている。
オカルト好きな方なら何かの祟りと思いたくなるかもしれない。この海水浴場を開いたのは八幡山という元力士で、角界において輝かしい栄光を手にしながら、身を持ち崩して非業の死を遂げたからである。
美しい景観に囲まれた海水浴場は、夏になると陽光の下、大勢の海水浴客で賑わいを見せるが、紺碧の海の一寸先に魔の淵が待ち受けていようとは誰も想像だにしないだろう。八幡山の相撲人生も一瞬の油断から深淵にはまり込み、そのまま抜け出せなくなった感が強い。
八幡山は本名廣田定太郎といい高知県土佐郡石井村に生まれた。明治十二年に大阪に出て相撲頭取猪名川音右衛門の門弟となったが、明治十七年、幕下の時分に同郷の先輩海山(後の友綱)とともに元大阪大関だった梅ヶ谷を頼って上京し、梅ヶ谷のいる玉垣部屋への入門を許された。
一七〇センチ一〇〇キロと体格には恵まれなかったが、大阪時代から定評があった足技を主武器に、明治十九年一月場所、十両筆頭で七勝〇敗一分一預の好成績で優勝し、上京から二年での入幕を果たしている。
一般に足技が得意な力士というと、外掛けの新海、内掛けの琴ヶ濱というふうに得意技に特化する傾向が強いが、八幡山は体を寄せれば内からでも外からでも足を絡めてくる一方、離れていても相手の出足に合わせて蹴手繰りを繰り出すなど、あらゆる足技に通じた達人といってもいいほどの存在だった。
新入幕の場所でも、二日目の内掛けに続き、三日目には巨漢の関脇西ノ海から極め出される寸前の土俵際で体を入れ替えながらの河津掛けで逆転勝利と足技が冴えわたった。四日目の大達戦こそ梅ヶ谷を引退に追い込んだ角界最高の実力者に全く歯が立たなかったものの、仕切りの最中は、八幡、八幡、と場内は人気大関より新入幕力士を応援する声の方が大きかったという。
八幡山はいかなる奇手にも動じることなく怪力を持ってねじ伏せてしまう大達だけはお手上げだったが、後に綱を張る西ノ海にはなぜか強く、二十年一月場所も巻き変えようとした西ノ海の左手を両手で抱え込みながらの蹴手繰りで土俵に這い蹲らせている。(通算成績は八幡山の三勝二敗二分)
二十一年五月場所、速攻と足技で相手を翻弄する相撲で一躍人気者となった八幡山をも凌ぐ弾丸特急のような力士がこの場所の話題を独り占めにした。新入幕ながら土付かずの成績で優勝までさらっていった小錦八十吉である。
立ち合いから左を差して寄ってくる八幡山を首投げでバランスを崩してから内掛けで仕留めるまでの展開の速さは八幡山のお株を奪うものだった。
二度目の対戦となった二十二年一月場所も四つ相撲から櫓気味に吊り出されてしまい、成す術もなかったが、幸い小錦の踏み越しとの物言いがついた結果、預かりとなり命拾いをしている。
自身のお株を奪うような小錦の台頭は、それまで上位には強くても取りこぼしが多かった八幡山の相撲に喝を入れた。
二十二年五月場所、三度目の対戦では四つに組んで吊り合うが、水入り後も勝負がつかずついに引き分けとなった。小錦とは二十四年一月場所も引き分けており、ついに一度も勝つことはできなかったが、入幕から四年間負け知らずだった小錦はこの間引き分けも三度しかなく、そのうち二度が八幡山となるとその価値は大きい。
小錦は八幡山の他に平ノ戸、若湊、谷ノ音戦での預かりもあるが、踏み越しのクレームがついた二番と同体と見なされた二番のいずれも小錦が優勢の相撲で、一度水入り引き分けに持ち込んだ平ノ戸もその後は三連敗を喫していることからも、初顔での不覚以降はほぼ五分に取っている八幡山こそ、全盛時代の小錦にとって最大のライバルであったと言えそうだ。
二十三年五月場所、新三役の八幡山はこの場所六勝一敗一分一預で初優勝。翌二十四年一月場所を六勝二敗一分で大関に昇進した。関脇で六勝二敗での大関昇進は甘いようだが、新横綱西ノ海に土をつけ、優勝力士の小錦の全勝を阻む引き分けが評価されたのだろう。これに大関大鳴門の引退が重なったことで、二十四年五月場所の番付では東の正大関小錦と並ぶ西の正大関として名を連ねることとなり、峠を越した感のある西ノ海の後釜をめぐる両者の出世争いは熾烈さを増した。
二十四年五月場所は小錦が休場したため、大関対決を楽しみにしていたファンは肩透かしにあったような格好になったが、その分八幡山が六勝一敗二分と大関の責任を全うし、張出大関剣山と同点の成績ながら番付上位の恩恵を受け、二度目の優勝となった。
上位に休場が多かったり、潰し合いで優勝ラインが下がった間隙を縫って、番付が低く上位との対戦が少ない小兵の業師が優勝をさらってゆくという番狂わせもたまには起こるが、こういう形で優勝した力士は上位では負け越すことが多く、たとえ定着しても三役維持がやっとというのが通例である。
その点、八幡山は、横綱、大関クラスと互角に取れるのが強みで、小兵の業師としては異例ともいえる大関にまで手が届いたばかりか、綱を競うところまで駆け上ってきたのは、あっぱれというほかはない。
ところが軽量の八幡山が足技に依存してきた代償は大きく、脱臼癖のついた膝関節はもはや完治が望めないほど悪化していた。このことから、大関昇進後に休場が増え、凋落の一途を辿ったのは怪我が原因だったと伝えられることが多いが、実はそれだけが理由ではない。八幡山といえば師匠も手を焼くほどの「飲む、打つ、買う」の三道楽者だったのだ。
土俵上での派手な足技に加えてちょっと苦みばしったルックスの八幡山は、女性人気も相当なものだったうえ、気前が良いからいつも懐はすっからかんだった。一足先に現役を引退した後、角界の一代勢力を築いた元海山の友綱貞太郎の忠告にすら耳を傾けるどころか逆ギレし、休場中に発作的に髷を切るほど色道にはまり込んでしまっていた。
それでも親方となった友綱にとって、大関は部屋の稼ぎ頭であるし、八幡山にとっても相撲から足を洗ったら最後、唯一の収入源が断たれるため、持ちつ持たれつの関係が続いていた。
二十六年一月場所初日、久々に回向院の土俵に姿を現した八幡山は、左四つから高浪を寄り倒した際に付いた右手を痛め、翌日から休場となった。
翌五月場所を全休したところで、二十七年一月場所の番付では単なる張出表記となり、この事実上の大関陥落を機に引退届けを提出した。
年寄湊川を襲名して協会に残ったものの、大幅な収入減は道楽者の彼にとっては死活問題だった。そのうえ友綱との関係も悪化したことで、東京から神奈川県平塚市に転居し、副業として平塚海岸で宿屋の経営を始めた。続いて海岸を海水浴場として大々的に宣伝したところ、これが大当たりして、平塚海水浴場はたちまち人気リゾート地となった。
明治二十九年、副業で大儲けしていることを協会から咎められた湊川は、もはや未練のない相撲界と決別し、それからしばらくの間は遊蕩三昧の日々を送っていたが、性悪女に入れ込んで身代を失い、宿も人手に渡ってしまう。
平塚を離れた後は大阪で一旗上げようと目論むが、放蕩癖は相変わらずで、そのうち健康まで害してしまい、最後は故郷の土佐に舞い戻っている。
土佐では呉服屋を経営していたという話もあるが、すでに梅毒に冒されていたと言われており、知己にすがろうと散々放浪したあげくに、乞食同然のまま人生を終えたという説の方を取りたい。
酒色に溺れて身を持ち崩した力士は少なからずいるが、優勝経験者にして大関にまでなった力士で、かくも惨めな最期を送った例は八幡山くらいのものだ。
八幡山の死から二年後の大正五年に、雷部屋所属の八幡山という力士が十両十二枚目に登場するが、本家と同じく無類の女好きで、巡業のたびに遊女から旅館の仲居、後家と相手を選ばず手を出したあげくに気の強い女から肥溜めに突き落とされ「臭い色男」の綽名を付けられたという。もちろん本業の方では大成せず、短期間で土俵から姿を消している(最高位十両六枚目)。
応神天皇を神格化した八幡様を四股名にしながら、二人ともまるで悪魔に魅入られたかのような土俵人生を送ったのは、八幡様の逆鱗に触れたからなのだろうか。
なにぶん明治中頃の力士であり、現代では知名度も低いので、限られた資料を元に人物像に迫ってみたつもりである。誰かが記録に残さなければ、こういう類の力士はやがては忘れ去られてしまうので、今後も優等生ではないが、記憶に残るユニークな力士について言及し続けてゆきたいと思っている。