16:月夜の逢瀬 1
月の満ちる夜。
ルッソ湖のほとりは、静寂に包まれていた。
水面に揺れる月。
風がさざ波を立てる中。
リュネットは一人、控えめな黒いドレスに身を包み、柔らかな外套を肩にかけ、空を見上げた。
ああ、夜空に浮かぶ月が美しい。
煌々と降り注ぐ光が穏やかに広がり、まるで神に選ばれたような感覚に気が締まる。
一昔前、戦乱の時代……
戦に向かう兵士は、こんな気持ちだったのかしら。己が世界を変え、導くという気概と、失うかもしれない恐怖を諫め立ち向かったのかしら。
──そう、思いを馳せるリュネットの耳に、馬の嘶きが届いた。
そろりと振り返り、広がる闇を見つめる彼女。
闇の中から現れる人間は想像がついていたが、もしかしたら、ということもある。
一瞬の迷い。
がさりと音を立て、近づく気配に息を呑んだ。
無意識に袖の刃に触れるリュネットは、次の瞬間。白銀の光に照らされた金の髪に胸をなでおろした。
クルードだ。
間違いなかった。
長い金髪をひとつにまとめ、煌めく紺碧の瞳に宿った、やや優し気な色。
気のせいか、初めて会ったあの日より少し、雰囲気が和らいだような印象を受ける。
クルードの紺碧の瞳がリュネットの瞳を射抜いて、そのまなざしにドキンと息を止めた時。彼の、武骨で穏やかな問いは、緊張を纏って届いたのだ。
「……追手は無いか?」
「ええ。お越しいただきありがとうございます、クルード様」
静かに首を振り立ち上がる。
彼の緩やかな目配せに鼓動が跳ねるが、リュネットは平静を装い目線を逸らした。
そこに届く、クルードの配慮を含んだ息遣い。
「リュネット殿。こちらこそ呼び出して済まなかった。本来ならば、このような手段を取るべきではないのだが」
「それを承知の上で参りましたわ。貴族ともなれば、移動に護衛はつきもの。ですがそれは、周りに『貴族の往来だ』と主張しているようなものですし」
「はは、それもそうだ」
笑うクルードは少し砕けている。
そんな彼の表情に、リュネットは目を取られ、考えてしまった。
……彼は、こんなに柔らかな色を放つお方だったかしら? 以前の彼はそう……とても威厳のある伯爵であったのに……
今の彼はどうだろう?
横に立ったクルードは、覚悟と緊張を漂わせながらも、放つ空気は穏やかで柔らかい。
あの時の威圧はなく、『手紙の向こうのクルード』がそこにいるようだった。
そこで気がつく、彼の素顔。
……ああ、あなたは本来、優しいお方なのね。
手紙で見せてくれた通り。
そう、安堵と納得を感じるリュネットに、クルードはもう一度。
気配を探るように目くばせをすると、倒木のベンチに腰掛け、座るように促した。
「それで、本題に入ろう。ダルネスの思惑は掌握した。おまえのおかげだ、礼を言う」
静かに切り出したクルード。
リュネットは、調子を合わせて頷くと、
「そう……やはり動きがあったのですね。詳細を聞いても?」
「やめておけ」
踏み込んだ問いに返ってきた、静かな牽制に目を見開いた。思わずクルードを見上げるリュネットに、彼の静かな紺碧の眼差しが返る。
「今後の身のふりのためにも、おまえは知らない方がいい。今はまだ、『子爵の妻』だろう?」
「……!」
その言葉に、リュネットの中、痛みと納得が走った。
彼が情報を伏せた理由は明らかだ。
リュネットが『ダルネスの妻』であり、ダルネスは『怪しげな動きをしている子爵』である。
今後ダルネスが国家の裁きを受けることになれば、リュネットにも嫌疑がかかる。その際、何も知らないのと、知らぬふりをするのは、反応が違う。
それを考慮してのことだろうが……
『子爵の妻』と言われると、胸が痛い。
確かに形式上、今はまだダルネスの妻だ。
だからこそ彼とのやり取りにも細心の注意を払ってきたし、心が完全に動かぬよう歯止めもかけている。
政治的観点・または今後を考えれば伏せられて当然なのだが──それを理由に真実から遠ざけられるのは、純粋に、寂しかった。
「知るべきではない」と切り捨てられた気持ちに小さな棘が刺さる。「不要だ」と言われたようで心が痛い。
けれど、クルードの意図が、自分を守るためのものであることも理解できる。
――しかし今は、言葉を飲み込むべき。
この場で抗うより、クルードの計画に身を任せる方が、きっと物事は良い方向に進む。
そう落とし込んで、無意識に小さく息をついたリュネットの耳に、彼の低い声が響いた。
「……それで、ショーンは? あいつは元気か?」
クルードの話題転換に、リュネットは一瞬思考を切り替えられなかった。が、彼女は慎重に言葉を紡ぐ。
「……彼は良く働いています。ダルネスも気に入っています。……ただ……」
そこで、言葉を切った。