13話 地獄の匂い
悪魔出現の気配を感じ取ったのは、ちょうど教室から出ようとした時だった。学校から近かったため、シモンはすぐに向かった。
(また、誘い断ることになっちゃった。でも、頑張れって応援してくれて嬉しい。次は一緒にサッカーしたいな)
建物の屋根を渡って到着したのは、トラディショナルな建物が並ぶ街の一角。ショッピングや食事を楽しむ人の往来が多く、車だけでなくトラムも通る交通量の多い交差点だ。
駆け付けたシモンが降り立つと、ヤコブが同時に到着した。
「ヤコブ!」
「おっ、シモン。同時に着くなんて、相性いいな」
茶色いメディア会社の建物の前で、警察が交通整理をしていた。そこに、苦しみ足掻く色黒の男性が蹲っている。どうやら偶然通り掛かって、一般人の避難を呼び掛けてくれていたようだ。
二人は警察官にお礼を言って、パトカーは走り去って行った。その直後、男性の中から悪魔が異形の姿で現れた。
「@¿σ∀ッ!」
「戦闘領域!」
シモンは戦闘領域を展開し、二人は迎え撃つ体勢を取った。
ところが。悪魔は攻撃することなく、使徒の二人を避けるように向かいの建物の屋上に素早く移動した。
「なんだこいつ。逃げた?」
「何か作戦でも考えてるのかな」
「そんなの考えてるやつ、今までいなかったぞ。こいつらって単細胞じゃねぇのかよ」
「ぽいよねー。でも急にしゃべる悪魔もいたから、気を付けないと。というか。他に誰も来ないね?」
「ペトロはデリバリーの途中だけど、すぐに来れるってよ。ユダとヨハネも合流する予定だ」
「今回は勢揃いだね」
「正直、フルメンバーじゃなくてもいけるだろ。攻撃して来ない今なら、潜入もできそうだし」
「じゃあ、ボク行って来るよ」
「おう、頼む」
《潜入!》
誰かが駆け付けるまでは大丈夫だろうと判断し、シモンが倒れた男性の深層に潜入した。
暗い底に着くと、男性が俯せになって倒れていた。
周囲には、ガラスやコンクリートの破片が散乱し、汚れている子供用の靴や一部が焼け焦げた洋服など、身の回りのものが散らばっていた。それは全て男性のトラウマに関連するものだが、きれいなものは一つもない。
「これは……」
それらを一通り見たシモンは、厭わしげに眉をひそめる。
倒れる男性は「苦しい……」と、やるせない気持ちを乗せて口にする。
「辛い……。嫌だ……。なんでだ……。どうして、こんなことになったんだ……」
(この人、もしかして……)
散乱しているものの状態を見て、自身にも思い当たる節があるシモンは、男性が過去に置かれた境遇を予感した。
「俺たちが何をしたって言うんだ……。ただ、家族と暮らしていただけじゃないか……。それなのに、一方的に……。身勝手な理由で壊された。全てを奪われた……。こんな地獄のような現実、生きているだけで辛い……」
男性の言葉の一つ一つが、シモンの記憶の鍵のようだった。一時的に封じ込めていた記憶が断片的に甦り、早くも男性と深い相互干渉状態になっていく。
シモンは両手を握り、甦る震えを抑えた。
「……そうだよね……。地獄の中で生きてるみたいで辛いし、これが夢だったらって何度も思うよね」
(ボクもそうだった。逃げても逃げても逃げられなくて、辛くて、心が痛くて、どうしようもなかった)
「俺たちはただ、平和に暮らしたかっただけだ……。なのになぜ、突然日常を奪われなきゃならないんだ。大切にしていた家族まで、喪わなきゃならなかったんだ。平和を壊されなきゃならなかったんだ……」
嘆くその言葉の全てが理解できるシモンは、表情に懊悩を浮かべる。
「それは……わからない……。ボクにも、その理由はわからないよ……」
(あのことは思い出したくない。記憶から消し去りたい。でも、忘れられない。どんなに楽しい思い出を積み重ねても、深い傷は埋まらない)
深い相互干渉の影響で、シモンの記憶が次々と再生される。目を覚まし始めたトラウマが、檻の中の猛獣のように暴れたがっている。
「大切なものを、取り戻したい……。返してほしい……。家族も。日常も。平和も。全部、返してくれ……。こんな苦しみを一人で抱えて生きるのは、もう限界だ。堪えられない……。こんな残酷で無情な世界には、もういたくない……」
「そんなこと言っちゃダメだよ。辛くても負けないで。ボクたちがこうして生き残ってるのは、きっと何か意味があるんだよ」
絶望し、生きるのを諦めたがっている男性を、シモンは引き止めようとした。すると。
「理由……? 理由って、なんだ……」
倒れていた男性は、四つん這いになりながらゆっくりとシモンに近付いて来た。
「俺たちは、聖職者じゃないんだ。善意だけで生きられるほど、心はきれいじゃない……。寧ろ、全てを奪われ壊されたせいで、悪魔に心を売ってもいいとすら考える。それで、全部がリセットできるなら……。亡くした家族が納得できるなら……」
「そんなこと考えちゃダメだよ。ボクたちが復讐なんて考えちゃいけないんだよ」
「なら、何を考えて生きればいいんだ?」
「祈るんだよ。何も奪われない日常と、誰にも壊されない平和を」
足元に辿り着いた男性は、シモンを見上げた。
「……無駄だ」
「……っ」
既視感のあるその表情を目にしたシモンは、ゾッとする。
男性の片方の頬は焼けただれていて、希望を失ったその目は絶望しか見えていなかった。
「祈りは無駄だ。俺はそれを知っている。だから、この世界に希望を抱かない。どうせ変わらないなら、祈ったって無駄だ……」
「そ……。そんなこと……」
「祈りは、誰にも届かない。無情な世界にとっては、雑音でしかない。それなら、俺は何もしない……。全てを諦める……」
恐れを懸命に振り払い、シモンは救いの言葉を届け続ける。
「諦めちゃダメだよ。ボクもその気持ちはわかるよ。だけどそれは、投げやりになってるだけだよ。絶望に心が支配されたとしても、諦めることだけはやめちゃダメなんだ!」
暴れ出そうとする自分のトラウマを必死に抑え、負のエネルギーに支配される男性のためにシモンは訴える。自分になら、この人を救えるはずだと。
男性は、シモンの衣服を掴んで膝立ちになる。
「それは、希望を見い出してるやつの言い分でしかない。俺たちの言葉は、誰にも届かない……。どうせそのうち、世界に殺される……。俺も、お前も、みんな死ぬんだ……!」
シモンは身体をビクッと震わせた。
「……死ぬ……」
「そうだ。死ぬんだ……。神に祈ってるやつも、普通に生きてるやつも、みんな死ぬ……。この世界に殺されるんだ……!」
生ける屍は、シモンのトラウマを暴れさせる。警鐘は、シモンの中で轟音のように鳴り響いていた。




