9話 人並みのしあわせ
下の階で、ユダたち三人が飲みながら話していたころ。ペトロは、シャワーを浴びながら思いを巡らせていた。
彼には、解決したい悩みが二つあった。一つは、ユダへの返事。もう一つは、父親から言われたある言葉だった。
「人並みの幸せ……」
その言葉が、時折頭を過ぎっていた。
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それは、墓地で再会した父親と別れる間際のことだった。
「たまには連絡してくれ。ご飯にでも行こう」
「うん。連絡する」
「それから……。無理して危険なことを続けないでくれよ」
「え?」
「俺も、SNSくらいやってるんだぞ。お前が何をしてるのかは知ってる」
父親は、ペトロが使徒であることを知っていた。ペトロは、余計な心配はさせまいと敢えて教えないつもりだったが、SNSで発信されている使徒の情報を見てしまっていたようだ。
「悪魔と戦ってるんだよな。なんでそんなことをしてるんだ。あんな目に遭ったっていうのに……」
苦衷を浮かべる父親は、ペトロが使徒になったことを認められないようだった。
最愛の家族を喪うという悲劇を経験したのならば、息子が危険の最中に身を投じるなど見過ごせないのは当然だ。だから、ペトロも話すつもりはなかった。
「どうして、お前が危険を冒さなきゃならないんだ」
「あの。それは……」
説明責任のあるユダは、ペトロの父親にいきさつを説明しようとした。しかしペトロはそれを止め、これは自分から言わなければならないことだと、ユダに目で伝えた。
「心配かけてごめん。父さん」
「なんでお前が、悪魔なんかと戦わなきゃならないんだ。神は、お前に試練を与えたとでも言うのか」
「そうかもしれない。でもこれは、オレが自分で選んだことだよ」
「危険なんじゃないのか。それとも、お母さんたちのところへ行こうとしてるのか? そんなことやめてくれ。お前までいなくなってしまったら……」
父親はペトロの肩を掴み、家族の葬儀の時と似たような表情をした。力が入る手は、尊いものを二度と手放したくないと言っていた。
ペトロにも、その深い愛情は伝わった。そして、父親への申し訳なさが滲み出てくる。
けれど、意志を示さなければならないと感じた。あのころの自分から、変わろうとしていることを。
「バカなこと言うなよ。オレは死ぬつもりなんてないよ。オレは、オレ自身のために戦ってるんだ。捨てられないものを背負ってるオレでも、誰かの役に立つことができるんだ。この力で人を救えるんだよ。自分のことだって……」
「ペトロ……」
「オレが戦うのは、これからも生きるためなんだ。痛い目にも遭うし、凄く辛いこともある。でも、全ては自分のためなんだ。明日を強く生きるための糧になることなんだ」
「無理してるんじゃないのか?」
父親は憂う眼差しで尋ねた。その眼差しの奥で何を案じているのかは、深層に潜るまでもなく簡単に汲み取れる。
だからペトロは、口角を上げた。
「少し無理はしてる。だけど、大丈夫だよ。心強い仲間と、支えてくれる人が近くにいるから。だから父さん、オレを信じて見守ってて。オレはちゃんと生きるから」
言葉だけでは伝えきれない。だから、見せる覚悟で思いを受け止めてほしいと、強い意志を示した。
憂慮していた父親だったが、息子は、孤独を連れ立つことを選んだような顔から随分と変わっていた。あのころとは別の強さを抱き、見違えるほど勇敢な顔付きだった。
「……わかったよ。だが、本当に無茶はしないでくれ。俺は、お前に幸せでいてほしいんだ。何も、金持ちになれとか言ってるんじゃない。人並みに幸せでいてくれたら、それでいいんだ」
ペトロの意志を尊重することを選んだ父親は、願うようにそう言った。
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(“人並みの幸せ”って、なんだろう。家族と一緒にいた時が、人並みの幸せって言うのかな……。それじゃあ、家族がいなくなった今は、オレは人並み以下の幸せなのか? そもそも、人並みの幸せってどういう状態なんだろう。普通に衣食住できてること? 学校に行けてること? 働けてること?)
「そう考えると、オレは今、一応幸せなのかな。住む所があって、寝るところもあって、ご飯も食べられてて、バイトしてる」
(これが人並みの幸せなら、心が満たされてるはずだよな。だって、家族といた時は何も不満がなくて楽しかったから)
「じゃあ。オレは今、心は満たされてるのかな」
シャワーブースから出たペトロは身体を拭き、下着だけ穿いて洗面台で髪を乾かし始めた。
(みんなといるのは楽しい。バイトは、やらないと生きていけない。モデルの仕事は、まだ楽しいとかわからない。使徒は、楽しいとかいう次元じゃないし……。でも、今の生活に嫌なことはない。だけど、心が満たされてる感じはない)
「何かが足りない……?」
(何が足りないんだろう。前は近くにあって、今はないもの……? オレの心がほしがってるもの……)




