8話 続・憂鬱なビール
「確か、ユダが誰かを探してるって最初に気付いたのは、ヨハネだよな?」
「そうなんだ。付き合いが一番長いから、バレちゃったのかな」
「そ……。そうですね……」
敗北感に抱き締められて話の半分は聞けていないヨハネは、相槌もまともにできない。
そんなヨハネにヤコブは小突き、何か伝えたそうに目配せしてくる。どうやら、聞き役に徹しようとしていたヨハネ自身から質問するきっかけを与えてくれているようだ。
しかし、急にパスをされても困ると、口を一文字に結んで俯いた。二人きりだったら、とてもじゃないが訊くことはできない。けれど、ヤコブが気を利かせて作った機会を無駄にしたら、朝までダメ出しコースになってしまう。
バクバクと心臓が激しく鳴り始めた。ヨハネはそれに負けまいと、意を決して口を開いた。
「あの。ずっと訊きたかったんですけど……。どうして、ペトロだったんですか?」
だけど、目を見ては訊けなかった。
「どうして、か……。難しい質問だね」
「簡単だろ。好きになった理由だよ」
「それが、説明ができないんだよ」
それは本当のようで、ユダは眉尻を少し下げる。
「ギャラリーの中にいたペトロくんが目に入ったのは、偶然だった……。いや。違うかな。意識を向けずにはいられなかった……かも」
「惹き付けられた、ってことですか?」
「そうだけど、そうじゃないような。でも、それと似た感覚というか……。なぜかわからないけど、この人だって思ったんだ」
「そういえば。名前は現れてるのか?」
「うん。薄っすらとだけど」
その事実は、心臓が鋭利な刃物で刺される幻聴をヨハネの脳に届けた。
「てことは。バンデになるって直感が働いたってことじゃね?」
「そうかもね。でも、その時はまだ、彼を好きにはなってなかった。だけど、一目見た時から気になって仕方がなかった」
話すユダも、少し不思議な感覚を表情と声音に乗せていた。
「それじゃあ。気持ちを確信したのは……」
「気持ちを確信できたのは最近だよ。告白する少し前かな。それまでは、曖昧な感情だった。でも、心が動かされた瞬間は覚えてる。あの日……ペトロくんを使徒にスカウトした日。彼を助けたあの瞬間。初めて間近で見て、やっぱりこの人だって感じたんだ」
「心が動かされたってことは、一目惚れしたってことじゃないのかよ。なのに感情が曖昧だったって、おかしくね?」
「うーん。最初の気持ちと、気持ちを確信した瞬間は、違う感情だった気がするんだ」
ユダはまた眉尻を下げた。
最初にペトロを見た瞬間は、理由もわからず目を奪われたのだが、何かの直感が働いたということ以外、その時の感情は今でも説明がつかない。
「とりあえず。よくわかんねぇけど好きになったってことか?」
「とりあえず、そういうことで」
「笑顔で誤魔化してねぇか?」
「自分でもよくわかってないの、記憶喪失の影響なのかな。でも、大切な存在になってることは確かだし、ペトロくんがいれば過去がない私の未来を作っていける気がしてる」
すると、それまでまともに目を見て話せなかったヨハネは、ユダの目を見て尋ねた。
「バンデになったこととは、関係ないんですか?」
「名前が現れたタイミングはわからないけど、それはペトロくんへの思いとは関係ないと思ってる」
「それじゃあ。ユダの中では、ペトロは最初から特別で、大切な存在なんですね」
ヨハネは完全な敗北感に満たされてきて、ユダと顔を合わせるのも本当は辛かった。
「みんなのことも大切だよ。みんなの助けがなければ、記憶喪失の私はここまで普通に過ごせていないと思う。ただ。支えてくれる人たちの中で偶然際立った存在になったのが、ペトロくんだったっていうだけだよ」
「僕は……僕たちでは、あなたを支えるには役不足なんですか?」
「そうは思ってないよ。記憶喪失の私一人だったら、使徒だってまともにできなかっただろうし。みんながいてくれるのは、とてもありがたいよ」
(僕たちを平等に考えてくれてるんだったら、ペトロ一人だけを選ぶ必要はなかったじゃないですか)
二の足を踏み続け、告白のタイミングを逃し続けた不甲斐ない自分が悪いのは、この席で痛感した。けれど、どうして仲間の中から特別な一人が自分以外から選ばれなければならなかったんだと、悔しさも湧いてきた。
こんな感情を抱きたくはなかった。ヨハネは嫌な気分になってくる。
その気持ちを中和してくれるのは、ユダの微笑みと言葉だった。
「ヨハネくんも、大切な存在だよ」
「え?」
「記憶喪失になってから初めて知り合ったきみのことは、とても心強い存在だと思ってる。事務所を立ち上げる時も副社長に手を挙げてくれて、私を献身的にサポートしてくれるヨハネくんがいてくれるから、私は安心してここにいられる。ありがとう」
不甲斐なさ過ぎる自分を卑下しかけた心に、まるで清水が注がれたようだった。
仲間の中で一番最初に出会った自分が、なぜ一番大切な存在ではないのだろう。どうして彼の名前が自分に現れないのだろう。清らかな眼差しに見つめられたら、そんな浅ましい考えに一瞬でも染まってしまいそうだった心を覗かれてしまうんじゃないかと怖くなり、注がれた清水で洗い流した。
ユダがくれた微笑みと感謝は嬉しくもあり、切ない。けれど、確かに自分に向けられた自分だけの微笑みと感謝だと、ヨハネはほんのちょっとだけ独り占めをした気分になる。
「いいえ。あなたの力になるために、僕はいますから。これからも側で支えます」
特別だけど、特別じゃない。でも、ヨハネにとっては特別だ。虹を見つけるくらい、儚い特別。
ユダがペトロと結ばれそうな運命だと知っても、口が滑っても恋を応援する気にはなれない。勝ち目はないかもしれないけれど、まだ夢を見ていたいと思ってしまった。
でも。好きだったビールが、少しだけ嫌いになりそうだった。




