32話 脱出
「ユダッ!」
ヨハネの呼び声に振り向くと、いくつもの羽の刃が飛んで来て、ユダは防御する。
防壁を維持したまま、ユダはもう一度棺の壁に触れる。湧いてくる思いの中に、ペトロに届く言葉があることを信じて。
「ペトロくん! きみは、強くなりたいと言った。その志は尊敬できるし、ずっと持ち続けてるきみはすごい。でも。その志は、トラウマがきみにそう誓わせたんだろう? トラウマから生まれたその誓いは、本当にきみが望んでいることなの? きみはきっと、無理をしてる。これまで頑張って強くなろうとしてきたその努力は否定しないし、誓いを守り続けてきたきみは本当に強いと思う。だけど、頑張ることと無理をすることは違う。その努力は、一人じゃ無理だ。きみ一人だけじゃ、きっとそのうち、誓いの重さに負けて立てなくなる。だけど、きみも負けたくないはずだよね。だから気付いて。一人じゃどうにもできないことがあるってことを。今はもう、一人じゃないってことを。私が側にいることを!」
ペトロは蹲り、絶望が覆い被さって立ち上がることができなかった。碧い瞳にも深い影が落ち、光が失われつつある。
思い通りに事が運ぶフィリポはしたり顔などせず、変わらず眉間に深い皺を寄せ、湧き上がり続ける怒りの面付きでペトロを見下ろしていた。
(さあ。罪悪感に押し潰されて堕ちろ! 贖罪の第一号だ!)
精神的に追い詰められ、堕ちるまでは時間の問題だった。
その時。ペトロの耳に、微かに声が届く。
───……気付いて
「……」
(なに……? 今、声が……。誰だ……。誰の声……?)
───私が側にいることを!
(ユダだ……。ユダの声が、聞こえる……。ここにいないはずなのに……。心に届く……)
光を失いかけたペトロの瞳に、光が戻ってきた。届いたユダの声がペトロの心を支え、胸がほのかな熱を灯す。
希望とともに生きる気力を取り戻していくペトロは、踏ん張りながらゆっくりと立ち上がる。
「……オレは、罪を犯した……。それを背負って生きていく覚悟は、持っていた……。だけど。いつか限界がくることは、なんとなくわかってた……」
「何っ!?」
思いもよらない展開にフィリポは動揺を見せる。
「オレは、オレの生き方を肯定する。だけど、押し込めた願望も本心では認めたい」
(本当は、誰かに側にいてほしいって望んでいることを)
「オレはまだ、選んだ道で何もなしてない。だから、ここでくたばる訳にはいかない」
(オレを信じてくれる人がいるから)
右手を突き出すと、ペトロの意志に応えるように光が集まり、ハーツヴンデ〈誓志〉が現れた。
あり得ない展開に、フィリポは目を見開く。
「馬鹿なっ! 此の極限状態の中で力を使える筈が……!」
「はあっ!」
ペトロが〈誓志〉に力を込めて暗闇に振るうと、斬撃で空間に亀裂が生まれる。
「朽ちぬ一念、玉屑の闇!」
今出せる限りの力で、もう一度亀裂を目掛け、金色の斬撃を放った。
すると、暗闇全体に亀裂が走り、空間はガラガラと崩壊した。
「棺が壊れた!」
崩壊した棺の中から、無事な姿のペトロが現れた。精神的な限界を迎える直前だったペトロは、立つ気力もなく、両膝を突いて倒れ込んだ。
「ペトロくん!」
「……ユダ」
顔色も悪く、戦える状態ではない。だが、無事に再会できたことにユダは安堵する。
棺を破壊されたフィリポは、激しく苛立つ形相で影の中から再び現れた。
「巫山戯るな! 呑刀刮腸すら忘却した糞野郎が!」
フィリポは怒りで目を剥き、自身の身体から〈業雷穿撲〉の一つのカットラスを作り出し、ペトロに投げ付けた。
カットラスが回転しながら脱力状態のペトロに迫る。
「防御!」
ユダは防壁で防いだ。ところが。
「甘いっ!」
防壁に弾かれたカットラスは軌道を変え、急速にペトロの背後に迫る。
防壁は間に合わないと判断したユダは、咄嗟に身を呈してペトロを庇った。「ぐぅ……っ!」無防備な背中は刃に切り裂かれた。
「闇世への帰標ッ!」
二人を守ろうと、ヨハネたちはフィリポに猛攻撃する。フィリポは戻って来たカットラスを掴み、攻撃を避けながら後退する。
「糞っ! 計画が狂った! 一旦退くぞ、グラシャ!」
フィリポは、思い描いていた結果と現実の大きな誤差に苛立ち、威嚇する狂犬のごとく表情を歪めてグラシャ=ラボラスを強制的に回収し、影の中に姿を消した。
それと同時に周囲を覆っていた影も消え、喧騒が戻った。人々は、一時この世から消されていたとも知らず、今日の続きを始めた。




