50話 侵入する悪の種
カフェラテのコップに、シモンはおもむろに両手を添えた。冷たい風に晒された指先が、まだ残っている温もりにジン……となる。
この指先に感じる温かさが希望に繋がってほしいと願うように、シモンは話し出す。
「……彼は、過去の過ちを引き摺って、自分から音楽に近付こうとしていませんでした。でもある時、何があったのかをボクにも話してくれました。音楽を避けるきっかけになったその過ちは、彼にとっては大罪だった。でもボクは、絶対に悪くないって彼を肯定しました」
「あなたは彼の心を理解し、寄り添う選択をしたんですね」
「過去を打ち明けてくれてから彼も少し変わって、ボクも安心してました。でもたぶん、ボクにまだ言えてないことがあるんです」
「彼は、別の過ちを隠していると?」
「過ちなのかどうかは……。でも、関係しているのは確かなんです。前に訊きそびれて、また言ってくれるのを待ってたけど、全然そんな素振りがなくて。だから、何度か訊こうとしました。最初は、彼の過去の過ちに関係することだから、無理に聞き出すのはやめておこうって思ってたんです。だけど、知らないままなのも嫌だったから、訊いてみたんです。音楽に近付けない理由が、他にもあるんじゃないの? って。だけど、結局はくらかされて……」
(MVを撮る時にお兄さんの形見のギターを持って行ったから、大丈夫になってきたんだと思ってた。だけどギターは、またケースに仕舞われたままになってる。ヤコブは一歩進めたけど、そこでまた立ち止まってるんだ)
シモンは〈バンデ〉として、恋人として、その先へ進む手助けをしたいだけだった。しかしヤコブ自身は、一歩踏み出した先を見ず、一歩踏み出したことすら後悔しているような気がしている。
「もっと話してください。全て吐き出してしまいましょう」
耳を傾けるオツェルが、温顔で頷きながら優しく促す。心の扉が開かれたシモンは、「大丈夫」で隠していた気持ちをスルスルと言葉にしていく。
「彼は、自分に任された仕事に誇りを持っていました。でもその肩書きは、自分には相応しくないって言ってました。それに、過去の過ちに関係する知り合いに、まだ後ろめたさがあるって。きっとその後ろめたさも、音楽を避けてる理由の一つなんです。だけど、ボクには何も……」
「心配しているシモンさんにも明かさないなんて。余程、後ろめたいことなんでしょうね」
「彼がそれから解放されないと、シモンさんの心配も消えませんよね」
心情を察するオツェルは憂い、同情して頷く。
(お兄さんの死に繋がったことなら、言うのさえためらうのもわかる。だけど、何で言ってくれないんだろう。ヤコブは直接関わってるわけじゃない、偶然が重なっただけの事故なのに……)
その時。カップを持ったまま愁眉するシモンに、ケエブは一滴の水を垂らす。
「シモンさんは、大事な彼をこんなに心配しているのに。彼にとってシモンさんは、頼るに値する存在ではないのでしょうか……」
その一滴の波紋がシモンの心の一角にある石に当たり、複雑に跳ね返る。
「……ボク、信用されてないのかな」
シモンは俯き、悲しげな面持ちを浮かべた。ケエブとオツェルは密かに口元を緩め、さらに胸中を聞き出す。
「これまで彼と過ごして来て、彼の気持ちを疑う瞬間はありましたか?」
「何度か……。いつもボクの周りにいるのは年上ばかりで、学生はボクだけで。だから前から、子供扱いされることはありました。一度その不満を打ち明けて、彼も反省してくれたんですけど……。十六歳になって、一つ彼に近付けたと思ってた。これからも隣で一緒に頑張ってこうって、やる気も湧いた。だけど、学生なのは変わらなくて。一番年下なのも同じで。気持ちは彼と同じなのに、身体は釣り合ってなくて。彼から見ればやっぱり、ボクはまだ頼りない子供なのかな。だから、明かしてほしいことを、秘密にしてるのかな」
「それは、社会的差別ですね。シモンさんはこんなに彼を慕い、思い、信頼しているというのに。そのひたむきな心に、見向きもしないなんて」
嘆かわしいと同情し、ケエブは首を横に振る。
「彼は、シモンさんの過去を知っているのですか?」
「はい。知ってます」
ケエブに続いてオツェルも溜め息を漏らし、嘆き同情する。
「知って尚、その態度とは……。人間に心を深く傷付けられ、穢れた世界で生きるしか術がないことを覚悟して懸命に日々を歩んでいるシモンさんの気持ちを、彼は軽んじているとしか思えません」
憤りさえ覚える表情で、救いようのない者をどう救えば……と手を組む。
その隣でケエブは、憂慮した面持ちでシモンに言う。
「シモンさんは、彼を信頼している。ですが、彼はシモンさんを信頼しているかは、疑念があります。それではあなたは、彼を信頼したくても、信じ続けていいのかという迷いに飲まれてしまいますよ」
「だけど。ボクは……」
「今の話を聞いて、シモンさんは彼に心の扉を開いているのが、我々にはわかります。ですが彼の方は、あなたに対して心の扉を開いていない。過去の過ちが原因だったとしても、明かしたシモンさんには開かれるべきです。しかし彼は、閉ざす選択をした。それは彼が、あなたを信頼していない証拠です。真に心を許す相手ならば、どんな過ちも聞いてほしいと思うもの。彼はあなたを、そこまで大事な存在とは思っていないのでしょう」
「まさか嘘だ」。そんな表情で、シモンは顔を上げる。
「大事な存在じゃ……ない?」
「彼は、シモンさんを必要としてはいないのかもしれません」
シモンを哀れに思う、言葉と表情。しかしそれは、寄り添う気持ちでも、救いの手でもない。脆くなり始めていたシモンの心に、虚言の波紋で傷口を作った。
(ボクは、必要じゃ、ない……)
ショックを受けるシモンの心に、僅かな穴が空いた。
曇り空で影もないのに、ベンチに座るシモンの足元から、真っ黒い影が足を伝って登ってくる。
それは、シモンの心に仕込まれた、悪の種。ケエブとオツェルは、それがシモンの心に入り込む道を作る。
「お辛いですよね」
「悲しいですよね」
「でも、残念ですが。シモンさんと彼の気持ちは、擦れ違っています。それどころか、彼はシモンさんの信頼の気持ちを裏切った」
「なんて酷い人なんでしょう。心を許し、慕い、大事に思っていたのに。シモンさんのその気持ちを知りながら突き放し、心の扉を開くことを拒むなんて。自分と吊り合わないと思い、別の方との関係を築く選択をしてしまったのかもしれませんね」
シモンは唐突に、ある日のシーンを思い出した。ヤコブが電話に出た時に、一瞬だけ相手の声が聞こえたことがあった。それは、親しみを込めて「ヤコブくん」と言う、ティウブの声だった。
「あなたは、出会いに恵まれなかったんですね。その人は、真に共存できる人ではなかった。あなたに相応しい人ではなかったんです」
「悲しいでしょう。寂しくて、裏切られて辛いでしょう。ですが、安心してください。我々は、そんな寄る辺のないあなたの味方です。舟を寄せる岸がないのなら、私たちがその代わりになりましょう」
「シモンさんが救いを求めるならば、我々はあなたを歓迎します」
「ボクは……」
自分はヤコブにとって、秘密を明かす必要のない相手。〈バンデ〉なのに、優先順位は二番目。一歩大人に近付けたと思ったのに、結局、社会的地位は変わらない。だから頼りにされない。経験値の低い自分よりも、社会的地位もあって人生経験もあるティウブを信頼している。ヤコブは、対等に話せる人を求めている。だから、何も話してくれない。ティウブには明かして、自分には明かすべきことをひた隠しにしている……。
ケエブとオツェルの言葉が、全て事実になる。証拠など何もない。だが、そんなものがなくても、シモンの心に侵入した悪の種が、欺瞞も本当にする。
ケエブはゆっくりと立ち上がり、背中を丸めて愕然とするシモンの背中にそっと手を添えた。
「今は、気持ちを落ち着けてください。焦る必要はありません。我々はいつでも、救われたい方に門扉を開いています。だからどうか、じっくりご自身の気持ちと向き合ってから、いらしてください」
添えられたケエブの手は、温かくも冷たくもなかった。シモンの手の中のカップの温度も、寒々しい気温で温もりを失っていた。




