45話 ひとりのよる
その後、六人で食卓を囲んだが、違和感は拭えなかった。ペトロも同席したが、始終口を閉じ、視線も上げなかった。
食事のあとは全員自分の部屋に戻ったが、ペトロだけは静まり返ったリビングルームに残った。缶ビール片手に、虚ろな目でソファーでぼうっとしていた。
「そのまま寝ると風引くぞ」
誰が来たかと思えば、ヨハネがペトロの掛け布団を持って来てくれた。
「ありがと」
「一人飲みしてたのか」
「ヨハネも飲む?」
ペトロは、床に置いていたまだ開いてない缶ビールを差し出した。アンデレのおかげか、多少顔色もよくなり、気持ちも乱れてはいなそうだが、気丈に振る舞っているだけだろう。
ヨハネは缶ビールをもらった。
「常温になってるし」
冷蔵庫から出して、少し時間が経ってしまっていた。ちょっと文句をたれたヨハネだが、開けて一口飲んだ。
床に視線を落とすと、キャラクターが表紙の本が数冊置いてある。
「マンガ?」
「ヤコブとシモンが、置いてってくれた。小説よりは、気が紛れそう」
「そうだな。じゃあ、これも」
と言って、ヨハネは脇に挟んでいた、青いヒーローのフィギュアをマンガ本の側に立てた。
「アンデレからの差し入れ」
「ヒーローのフィギュアって。オレ子供じゃないんだけど」
「ずっと側にいてやりたいけど、僕のバンデなのにそういうわけにもいかないから。だってさ」
ミニサイズになったヒーローが、勇気と正義と熱意の眼差しを向けている。
「アンデレ、心配してるよな」
ヨハネは、ペトロの横に腰を下ろした。
「昔のこと、前に話してくれた。お前が頼ってくれなくて、寂しい思いをしたって」
「もっと頼ってほしいって、不満漏らしてないか?」
「そうでもないよ。でも、もどかしそうにしながら、静かに心配してる」
アンデレはきっと、この場面で自分ができる相応しいことを探しているのだろう。けれど、親友を見守るだけなんてできず、かと言ってヨハネを放り出してしまうのも違うとわかっている。今の彼の脳内会議は、さぞ紛糾していることだろう。
「アンデレの気遣いは、嬉しいよ。でも今は、できれば一人がいい。差し入れありがとうって言っといて」
ヨハネとバンデとなりながら親友への真っ直ぐな思いを持ち続けるのは、とてもアンデレらしい。ヨハネはそれが、少し寂しく感じる。
「アンデレは本当に、お前のことを大切に思ってるよな。ちょっと羨ましい」
ずっと思いが届けられず、繋がることもできなかったから、愛情でも友情でも、特定の誰かに思われることが羨ましくなった。
ペトロは缶ビールを飲み干し、床に置いた。中身がなくなり空洞になった空き缶は、フローリングに立てられると不安定で頼りない。
「……ヨハネはさ。ハーロルトと話してて、どう感じた?」
ペトロからのその質問は、ヨハネたちと同じ印象を抱いているからだった。
「ペトロも感じてるのか。違和感」
「だって。全部忘れるって、おかしいだろ」
「僕とヤコブも同じ印象だ。まるで、違う人格だって」
「違う、人格……」
「ハーロルトは否定してたけど、もしかしたら、人格交代が起きたのかもしれない。僕たちは、ハーロルトが本来の人格だと考えてる」
人格交代し、しかもハーロルトが本来の人格だと聞き、ペトロはまたショックを受け瞳に動揺を浮かばせる。しかし同時に、ユダが言っていたことを思い出した。
「だから、棺の中でトラウマが再現されなかったんだ」
「惨苦のトマスと戦った時のことか」
ペトロたちは、ユダが記憶喪失になった場所から、彼はサンクトペテルブルク中央駅で起きた爆弾テロ事件の被害者ではないかと考えていた。だが、その被害者であれば棺の中で体験させられるはずが、再現されなかった。
そして、ハーロルトがサンクトペテルブルクに行った日は、爆弾テロ事件と同日。その日から記憶がなくなっていることから、巻き込まれたのだと推測できる。ユダの記憶の始まりが爆弾テロ後の病院であることから、人格交代が疑われた。だが、ハーロルトは多重人格を否定した。
多重人格ではないことが本当ならば、ハーロルトの人格を封じて『ユダ』という人格が生まれた、ということになる。一体なぜ、そういうことになったのだろう。唐突に事件に巻き込まれたショックで、多大な精神的負荷から自身を守る防衛手段として生まれたのだろうか。
だが、そうだとしても。学生証などの身分証が、『ユダ』の名前になっていたことが謎である。ヨハネたちはまだ気付いていないが、記憶が戻った途端、身分証の名前がハーロルトの名前に戻っていたことも。
それから。惨苦のトマスの棺の中で現れた、見知らぬ人物たち。そして。ゴエティア・アミーとの戦いで聞いた、『お前は誰だ』『お前は何者だ』という幻聴。幻聴は、ユダがハーロルトの別人格であることを問い質すものだったのだろうが、見知らぬ人物たちも彼に関係するものなのだろうか。
「なぁ、ヨハネ……。ユダは、どこにいるのかな。ハーロルトの中に、いるのかな」
「人格交代だったら、そうだろうけど……」
「戻って来ることは、ないのかな……」
「きっと戻って来る」。ヨハネはそう言いたかったが、不思議と、そんな無責任な励ましの言葉は心に留まった。
それは、かなり難しい希望だ。人格交代が起きた時と同じくらいのショックがあれば、可能性はあるかもしれない。だが、ハーロルト自身が現実からの逃亡を望まなければ、人格交代は起きないだろう。
一缶だけサシ飲みしたヨハネは、アンデレが待つ部屋に戻った。
「ヨハネさん。ペトロの様子、どうでした?」
「気丈にしてたけど、さすがにまだ」
「やっぱ、そうですよね……」
アンデレはまた、ペトロを心配して憂う。またペトロのところへ行くんじゃないかと思い、ヨハネは念を押しておく。
「今はまだ、そっとしといてやろう。アンデレの治癒もちゃんと効いてるから、大丈夫だ」
「わかりました……。今日は、ヨハネさんと一緒にいることにします」
「そんな律儀に……。バンデだから始終一緒にいなきゃならない決まりはないんだし」
「それはわかってます。でも。ヨハネさんも、ショックですよね」
アンデレは、憂う眼差しをヨハネにも向ける。真っ直ぐに見つめられ、ちゃんと見透かされているのを誤魔化したくて、ヨハネは思わず視線を逸らす。
「僕は……」
「ヨハネさんこそ、バンデのおれに遠慮しないでください。今の気持ち、ちゃんとわかるんですから」
アンデレは、ヨハネの右手を取った。心は繋がってると、伝えたくて。
「おれが必要だったら、頼ってください」
「アンデレ……」
「頼ってくれないと、ルール破ってこの部屋フィギュアだらけにしますよ?」
「それは絶対に嫌だ!」
ヨハネは握られた手にギュッと力を込め、拒否を示した。
「そこは正直っすね。手に気持ちがこもってます」
しかし、ヨハネの手の力はすぐに抜かれた。青い瞳は伏し目がちになり、心境を吐露する。
「……正直、僕も辛い。ユダがいなくなったんだって思うと、胸が詰まる……。だけどたぶん、ペトロよりは気持ちは落ち込んでないよ」
「我慢してないっすか?」
「我慢はしてない。でも。喪失感も感じてるのに、なぜか涙は出ない」
「そこまで悲しくないってことっすか?」
「悲しいよ。だから、アンデレは必要だ。いつも通りのお前でいてくれたら、気が紛れる」
ヨハネは、アンデレの手を少しだけ強く握り返した。今は、空気を読まないその明るさが必要だった。
「はいっ」
ヨハネの心を照らすように、アンデレは太陽のようにニカッと笑った。
寂しい夜が更けていく。
リビングルームで一人過ごすペトロは、読んでいた差し入れのマンガを途中で閉じた。
ソファーから立ち上がると、テラスの側に腰を下ろし、窓から夜の空を見上げた。けれど、雲が掛かっていて真っ黒で、月も星も見えない。
まるで今の自分のようだと、比喩した。
自分が大事にしようとしていたものが、忽然と消えた。微笑んでくれる優しい瞳も。手を握ってくれる温かい手も。包み込んでくれる腕も。
大袈裟かもしれないが、半身がなくなったように感じていた。
ペトロは、抱える膝に顔を埋めた。
「幸せなんてほしがったから、いけなかったのかな……」
氷で覆っていた願望を露にし、少しずつ自分が望む生き方ができるような気がしていた。不安になったとしても、隣に支えてくれる存在がいたから、生き方を変えられると思えた。
けれど、支えてくれるはずだった存在は消え、願望は押し込めて生きろと、誰かに言われているような気がしてくる。
道標の明かりもなく、ペトロはぽつりと立ち尽くす。
涙も出ず、喪失と虚無が広がる心だけが、ただ、側にいた。




