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イア;メメント モリ─宿世相対─  作者: 円野 燈
第5章 Verschwinden─裏表─

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34話 打ち寄せる波



「みんなに励まされてから、一度自分の気持ちを整理して、確かめたんだ。やっぱり私は、記憶喪失のままじゃいけないんじゃないかと思う」

「……うん」

「いろんなことが一気に重なって混乱したけど、きっと、本当の自分を知る機会が訪れたんだ」

「でも。怖いんじゃないの?」

「怖いよ。でもその怖さは、真っ暗な自分の後ろを、見ようとしてこなかったからじゃないかなって。でもこれからは、ちゃんと後ろを振り向かなきゃダメなんだと思うんだ。今までは、記憶喪失でも周りの助けがあったからどうにかなったけど、このまま生き続けるのは無理ないんじゃないかって、そんな気がするんだ」

「無理?」

「もしかしたら、心配してる人がいるかもしれないから。家族とか、友達とか」


 ペトロの脳裏に、あのテロ事件の記事と行方不明中の『ハーロルト』の名前が過った。そしてなぜか、ふと不安が胸を掠めた。

 それを察したように、ユダは続ける。


「行方不明の人と自分が、同一人物だと考えてるわけじゃないよ。名前も違うし。だけど。きっと私にも、そういう人たちがいるはずだから。みんなも支えてくれるなら、本当の自分と向き合えそうだと思ったんだ」

「……そっか」

「だから、知るべきことを知りたい。これまでの私は、どういうふうに生きてきたのか。忘れている大事なことを思い出して、これからを生きたい」


 そう語ったユダの目は、真っ暗な後ろを振り向く覚悟をしていた。

 幻聴に惑わされ恐れていたのに、記憶を取り戻すことに前向きなのはいい傾向だ。だが、ペトロは全力で背中を押せなかった。

 頭から『ハーロルト』のことが離れない。ユダは否定したが、もしも同一人物だったら。そう考えると、ただ名前が変わるだけで関係が変わるわけではないなのに、正体のわからない不安が波のように打ち寄せる。

 ユダが何者だって構わない。だから、記憶を取り戻さなくてもいいなんて、利己的になってしまう。


「でもさ。前に言ってたよな。大事なものは、過去ばかりにあるわけじゃないって。でも今は、未来よりも過去の方が大事なのか?」


 白波が足元に何度も打ち寄せる。そのうち、一人分の足跡だけを残して攫ってしまいそうな気がして、ペトロは尋ねた。


「ペトロは、未来と過去、どっちが大事?」

「えっ。オレ? オレは……」


 質問を返されてしまったペトロは、自分にとってはどっちが大事かを考えてみた。


「……過去には消したい記憶もあるけど、家族との幸せな思い出が詰まってる。これからも、嬉しいことも、悲しいこともあると思う。でも。何が起きるかわからないけど、未来は自分の選択次第で変わるし、いろんな道が待ってると思う。だから、過去も未来もどっちも大事かな」

「私も同じ。どっちも大事だよ。でも、未来の方が大事にしたいかな」

「なんで?」


 記憶を戻すことに前向きになって、新しく生まれる未来を求めるようになってしまったのかと、ペトロは寂しいことを考えてしまった。自分がいなくても大丈夫な、もう一つの未来を。


「前の私は、記憶がない不安から一日一日が大事だった。だけど、ペトロと出会ってからは、希望を抱いて明日より先を見るようになったんだ。だから、私に希望をくれたペトロがいる未来が、大事」

「本当に?」

「これからもペトロは、私を作ってくれる人だから。記憶を取り戻しても、それは変わることはないよ。気持ちが消えることもないし、これからもきみの側にいる」


 ユダは、真っ直ぐで揺るがない思いを宿した眼差しを向けていた。大事なことは、絶対に冗談なんかにしない。嘘なんかにしない。眼差しでそう言っていた。

 ユダが大事にしたい未来にも、ちゃんと自分がいた。心を読めるわけでもないのにほしい言葉を言ってくれて、思い過ごしの寂しさは消えた。


「じゃあ。オレも宣言しとく」

「宣言?」

「ユダの過去がどんだけ酷かったとしても、絶対に離れない」


 ペトロは真面目に宣言したつもりが、なぜかユダは微苦笑する。


「ちょっと、何それ。本当の私は、素行の悪い人前提なの?」

「そんな意味で言ってないし」

「でも。そういう風に聞こえた」

「だったとしても。オレは今のユダを信じるから」

「本当に?」

「本当に! でも。悪いことしてたなら、ちゃんと教えろよな」

「まだ何も思い出してないのに、疑ってるの? 酷いよ、ペトロ」

「疑ってるんじゃなくて、もしもの話!」


 変装しているとは言え、公共の面前で数日振りのイチャイチャが始まった、その時だった。


「記憶がない人が言ってること、あんまり信用しない方がいいと思うなぁ」

「……!?」


 二人の背後に突然、死徒の気配が現れた。振り向くと、三つ編みと短髪のアシンメトリーヘアーの惨苦のトマストマス・デア・ライデンが、芝生に膝を抱えて座っていた。


「人間は、嘘つくのが三度の飯くらい大好きだし。悪いことしてない人間なんて、一人もいないよ」


 前触れのない敵の出現に緊張を走らせ二人が立ち上がると、トマスはビックリして尻餅を付いた。


一寸(ちょっと)待ってよ! まだ、おれの心の準備が出来て無いってばぁ!」

「それはこっちもだけど?」

「いつも不意打ちで現れるお前らが言うな」

「待って! 一旦、落ち着こうよ。此処(ここ)で戦うつもりじゃ無いから!」


 二人が今にも襲い掛かって来そうな雰囲気なので、慌てるトマスは必死に両腕を左右にブンブン振る。


「オレたちと戦うつもりで来たんだろ。なら、ここでもいいじゃん」

「そんな拘りがあるようには、見えないしね」

「だから、そんなにやる気にならないでよ! 兎に角(とにかく)此処(ここ)じゃやらないから!」


 トマスは、背後のビルの屋上に一瞬で逃げた。


「待て!」


 トマスは、繁華街を横目に北上して行った。ユダとペトロは、すぐさま逃げるトマスのあとを追い掛ける。




 追跡して行くと、ティーアガルテンの側の開けたT字路に差し掛かった。そこは既に死徒のテリトリーが展開されていて、人も車もなく、周りの風景が全て死徒の影に覆われていた。

 そのT字路の信号機の前に、マタイの姿を捉えた。


「あいつは!」

怨嗟のマタイ(マタイ・デア・グロル)!」


 マタイの方も二人を捉え紫色の双眸を向けているが、以前のような怖じ気立つような気配はまだない。

 ユダとペトロは、ビルの上から地上へ飛び降りる。標的がやって来るのを待ち構えていたマタイは、掌を翳した。


因蒙の棺ザーク・レミニスツェンツ!》


 マタイは棺を出現させた。そして、ペトロが地上に降り立つ寸前、横からユダの姿が忽然と消えた。


「ユダ!?」

(消えた!?)


 ペトロは焦って、消えたユダと棺を探す。だが、辺りを見回しても棺らしき黒い物体はどこにもない。


「ペトロ!」


 そこへ、ヤコブとシモン、そしてアンデレが到着した。


「気配を追い掛けて来れば、もう一人いやがったか!」

「マタイ! ユダをどうした! 棺はどこだ!?」


 ペトロはマタイに問い質す。ヤコブたちは、ユダが既に棺に囚われてしまったことを把握した。


「俺の棺は不可視だ。お前達には見えん」

「なんでトマスじゃなくて、お前が囚えたんだ!」

「其れは、俺が奴に用が有るからだ」

「ユダだけが目的なの?」

「俺らには興味ねぇのかよ。格下に見てんじゃねぇぞ」

「挑発はやめようよ! あの人ちょっと怖いってー!」


 以前マタイが放った悍しいオーラを思い出したアンデレはビビッて、挑発するヤコブを止める。


「ああ。俺からして見れば(ただ)の人間のお前達は、全く興味無い」

「なんだ。ユダに一目惚れでもしたのか?」

「気持ちの悪い事を。だが、一途ではある」

「だってよ、ペトロ。お前の相方、取られそうだぜ?」

「ユダにトラウマはない。棺に閉じ込めたところで、何もできないぞ」

(いや)。奴から引き摺り出す物は必ず有る」

「なんでそう言い切れるんだ」

「有ると知っているからだ」

「その自信は、『蝶』って言ってたことと関係あるのか」

()れは、其の内分かる」


 マタイはこれからの楽しみを想像して不敵な笑みを浮かべると、足元に広がる自身の影の中に消えた。




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