26話 何者─可能性─
ユダは今度は、おもむろにスマホを操作した。そして、あるものをペトロに見せる。
「これ。見て」
「この記事……」
それは、ペトロも読んだマイナーなニュースサイトの「サンクトペテルブルク中央駅爆弾テロ事件」の記事だ。
「知ってるの?」
「ユダに何があったのかちょっと気になって、調べたんだ……。ごめん」
「なんで謝るの?」
「だって。知りたくなさそうだったから」
「気にしなくていいよ。ペトロは、過去に拘らない私の代わりに、私のことを知ろうとしてくれたんでしょ?」
ユダが不快になることをしたと思っていたペトロだったが、ユダは自分のための配慮に感謝して微笑んだ。けれど、その薄っすらとした微笑みに、いつもの包み込むような感じはない。
「それじゃあ。何が書いてあるかは、知ってるよね」
「うん。ユダはきっと、この事件に巻き込まれたんだよな」
ペトロは、同意の言葉が返ってくると思った。
ユダも、自分はこの事件に巻き込まれたんだと考えた。だが、疑問を抱いていた。
「……そうなのかな」
「え?」
「だって。棺の中では、トラウマが再現されるんだよね。でも私の場合は、爆弾テロ事件の標的になった駅も、中心となった待合所も、現れていない」
ペトロはハッとする。
死徒は必ず相互干渉でトラウマの完全再現をし、堕としに掛かる。だから、ユダがこの爆弾テロの被害者ならば、失われた記憶が脳内から引き摺り出され、当時の風景も感覚も全て再現されるはずだ。
だがユダが見たものは、事件と関係しているとは考え難いものだ。
ペトロは動揺し、言葉が出なくなる。
「私は間違いなく、サンクトペテルブルクの病院にいた。この爆弾テロに巻き込まれたのは、間違いないと思う。でもそれは、私のトラウマじゃない。私の記憶には、トラウマはないんだ」
───お前は、誰だ───
───お前は、偽者だ───
脳内に録音された幻聴が、ユダの耳に甦る。信じてきた「自分」という存在が、水面に映る自分の輪郭が雫が落ちて歪むように曖昧になっていく。
「この記事。息子を探してる夫婦のことも、書かれてるでしょ。偶然か不運か、搬送先の病院を探しても見つかってない。この夫婦は今でも、息子が生存していることを信じて探し続けてる」
ユダはウェブサイトを閉じると、またスマホを操作する。そして開いたのは、SNSのとあるアカウント。
「夫婦のアカウントだよ。毎日投稿して、情報提供を求めてる」
ユダはトップのプロフィールから、下にスクロールしていく。
ペトロは予感して怖くなる。それを見てはいけないと、直感が働く。
「……見て。この写真」
夫婦が上げている写真を見せられた。それを見たペトロは、驚愕する。
「……!」
それは、夫婦が探している息子の写真だ。家族に囲まれて幸せそうに笑っているその外見は、二十代前半で、前髪を分けたチョコレート色の髪と、ブラウンの瞳。メガネを掛け、両耳にピアスをしていた。
「これ……」
「『ハーロルト』って言うんだって……。すごく、似てると思わない? 私と」
ユダは尋ねた。似ていると同意してほしいのではない。「ただのそっくりさんだろ」とか言って、受け流してくれないかと思っていた。
けれどペトロにも、冗談を言って見なかったことにすることはできなかった。年齢や外見だけでなく骨格も似過ぎていて、見れば見るほど、一卵性双生児じゃないかと疑えるほど同じ顔だ。
根拠のない胸裏と拮抗して違うとも言えず、絶句してしまった。
「きっかけは何であれ、私は、自分のことを知りたくなった。過去を知りたくなった。これから積み重ねる記憶も大事だけど、過去があって今の自分があるから、どんなふうに生きてきたのか知りたかった……。だけど。自分が知らない自分を知るって、案外怖いんだね。記憶がない方が怖いものだから、ホッとするのかと思ってた」
ユダは、ペトロの手を握った。写真に釘付けだったペトロは、顔を上げてユダを見た。
「記憶はないけど、自分を信じてた。私は『私』なんだと。『私』以外の何者でもないと、ずっと信じてた……」
ユダは、ペトロと目を合わせた。いつもの微笑を浮かべて、事も無げに振る舞ってペトロに心配させまいとした。
「私は本当は、何者なんだろう。本当は、誰かの偽者なのかな?」
けれど。ペトロが見た表情は、作り笑いも上手くできなくて、入り乱れる言い知れない不安と恐怖が滲み出た顔だった。
「……っ!」
ペトロは、堪えきれず抱き締めた。
ユダが抱く不安と恐怖が流れ込んで来て、自分まで同じ心情になる。知らないことに目を向けるのが怖い。暗闇を振り返るのが怖いと。
「ペトロ……。私はこれからも、『私』でいられるのかな……」
耳元から聞こえた声はいつもと違い、頼りなさげで、支えないと倒れてしまいそうだった。
「大丈夫。ユダはユダだよ。だから大丈夫」
ペトロは、抱き締める腕に思いを込めた。その言葉は、ペトロが自身に言い聞かせているようでもあった。
次第に、自分が感じている不安と恐怖が、ユダから流れて来るものなのか、自分から生じているものなのかわからなくなる。
ユダが自分は自分だと信じたいように、ペトロもユダはユダだと信じている。彼の明日は、これからも自分が重ね続けていくんだと。きっと、今日の不安も恐れも、彼の明日を作る一枚に過ぎないと。
いつしか日は沈み、夜の帳が降りていた。
空にいた三日月は、雲に覆われて見えなくなっていた。




