17話 幸せの側に迫る陰
二人はペルガモン博物館と繋がる中東博物館も回り、イスラム美術館も回った。カリフ宮殿のファサードや、赤い装飾の壁で囲まれたアレッポの間、イスラム教の祈祷の際に使われたミフラーブなどを見て、満足して博物館を後にした。
歩き回って小腹も空いたのでカフェに入る頃には、ペトロはぐったりしていた。
「疲れたぁ〜」
「二時間くらいかけて、ほぼ全部回ったからね」
「せっかくだから全部回りたいって言ったの、すっごい後悔した。地下まであるなんて思わなかったし……」
「ひとまず甘いもの食べて、エネルギー回復させようか」
二人は、アボカドベーグルサンドを頬張る。デザートには、ユダはチョコレートマフィン、ペトロはベリーのケーキを頼んだ。
「このあとのプランは? 今日は博物館の他は、ペトロが考えてくれてるんだよね」
ユダの誕生日ということで、博物館以外のプランはペトロが考えた。正確には、「付き合って始めての誕生日デートだし、せっかくだからペトロにデートプランを考えてほしいな」とユダに笑顔でお願いされ、慣れないデートプランを一生懸命に練った。
「このあとは、ショッピングモールで買い物したりぶらぶらして、夕食かな」
「夕食のお店は決めてあるの?」
「うん。予約もした」
「予約までしてくれたんだ。何系?」
「フレンチ。だけど、そこまで畏まった雰囲気じゃないかな」
ペトロは、スマホでお店の雰囲気を見せた。外観はカジュアルそうだが、店内は暖色系の照明で、テーブルには白いクロスが掛けられ、バーカウンターもあって高級感を感じられる。利用客の口コミも高評価だ。
「勝手に決めちゃったけど、よかった?」
「うん。ペトロが予約してくれたお店なら、どこでもいいよ」
ハンバーガー屋だったとしても、ペトロが選んだ店なら何でも喜びそうだ。
「ちなみに。プレゼントは何か用意してくれてるの?」
「もらう方がそれ訊く?」
「だって、普通の誕生日じゃなくて特別な誕生日だと思うと嬉しくて。一週間前から楽しみで楽しみで」
「遊園地が楽しみな子供かよ」
「プレゼントは何だろう?」
表情から「わくわく」という擬音が聞こえてきそうだ。
「それはお楽しみ。帰ってから渡す」
「帰ってから……。その流れだと、ペトロ自身?」
「なわけないだろ。変な期待するな」
その後。小腹を満たした二人は、ポツダム広場のすぐ近くのショッピングモールに行って、買い物をしたりしてゆっくり回り、日が暮れてきたころに予約したフレンチレストランでディナーを堪能した。
帰宅したあとは、少し早いがペトロから誕生日プレゼントが贈呈された。贈られたのは、ブロンズがワンポイントの三角形のシルバーピアスだ。
このプレゼント贈呈で誕生日が終わるはずもなく。喜びと幸せで胸がいっぱいなユダは、シャワーを浴びることなくペトロに今日のお礼を存分にお返しした。
日付が変わり、午前0時過ぎ。目が覚めたユダは、真剣な面持ちでソファーでスマホを見ていた。
読んでいるのは、サンクトペテルブルク中央駅で起きた爆弾テロ事件の記事だ。この事件を知ってから、何度も記事を読み返している。
(入院していた私がいた場所、目覚めた時期、怪我の具合、サンクトペテルブルクで重症患者が出る事故が他にないことを考えると、恐らくこの事件に私は巻き込まれた)
ペトロと同様のことを考えていて、突然巻き込まれた衝撃で記憶喪失になったのかもしれないと推測していた。
しかし。一つ違和感があった。
「でも。どうして……」
(巻き込まれたショックで記憶喪失になったんだとして。どうして、繰り返し記事を読んでも、全くフラッシュバックを起こさないんだろう。情緒も乱れないし、当時のことを一瞬も思い出せない)
そう。失った記憶の欠片の一つも甦らないのだ。それは、あまりにも不可解だった。それでは、ユダはその事件に巻き込まれていないということになってしまう。
頭を抱え悩むユダ。ふと脳裏に、嫉妬のマティアのゴエティア・アミーとの戦いで聞こえた幻聴が過る。
───お前は、何者だ───
(私は私だ。自分という自覚がしっかりある)
───お前は、誰だ───
(そのはずだ。私は、他の誰でもない。それなのに……。どうしてこんなに、過去の自分が気になるんだ)
───お前は、偽者だ───
(私は私のはずだ。でも、何も覚えていない。自分を証明する記憶が、何もない)
「……私は、本当は……」
(何者なんだ?)
過去に囚われず過ごしてきたユダだが、今になって言い知れない不安が息をし始めた。誰も知らない、自分すら知らない本当の自分が存在するのだろうかと、恐れすら湧いてきそうだった。
プレゼントされたピアスを触る。この繋がりだけは本当にあるものだと思うことで、気休めでも不安は和らいだ。