38話 溺れる
棺に囚われたヨハネが気が付くと、また高校のガラス張りの渡り廊下にいた。そしてすぐに、前回とは違うことを肌で感じた。
(少し涼しい……。この前は、気温なんて感じなかった)
太陽が雲に隠れ、日差しが届いていない。長袖シャツを着ているが、通り抜ける風が少し冷たかった。
緑が黄色に変わり始めている木々。渡り廊下の、石と鉄の微かな匂い。校舎から聞こえて来る、生徒たちの声。まるで、別離をした当時に戻ったかのように錯覚する。
「ヨハネ」
呼ばれて振り向くと、無残な姿のレオが再び現れた。
「レオ……」
元恋人なのに、本当は見たくもない気持ちが素直に顔に出て、ヨハネは厭わしい表情をする。この前は感じなかった死臭がするような気がして、少し気持ちが悪くなる。
そのただれた顔はやはり黒く、表情はわからなかった。しかし、最後の姿を鮮明に覚えている脳は瞳に投影し、ヨハネに醜貌を見せていた。
「迎えに来た。一緒にいよう、ヨハネ」
レオは前回と同じ台詞を言うが、ヨハネは首を振って一歩後退する。
「行けない」
「どうしてだ。俺たちは約束しただろ。だから迎えに来た」
「ごめん。無理なんだ」
「無理じゃないだろ。俺たちは、思い合ってる恋人同士だ。そうだろ」
「そうだ。僕たちは、恋人同士だった。でも。今はもう違う」
ヨハネの瞳に映るレオは、切なげに眉尻を下げる。
「なんで、そんなこと言うんだ。俺たちの心は、固く結ばれてるはずだろ」
「もう結ばれてないんだよ、レオ。僕のせいで切れたんだ」
「切れた?」
「そう。あの日僕たちは、ここでケンカして別れた。そのまま復縁することも、話すこともなかった。僕の子供染みた嫉妬のせいで、僕たちは終わったんだ」
ヨハネの頭上から、バタバタと音がしている。外はいつしか、雨が降り始めていた。
「終わった……。違う。終わってない」
レオは、片足で少しずつ近付いて来る。ヨハネは逃げ出したい思いを堪え、逸したい視線を過去に向け続けた。
「僕たちはもう他人なんだよ!」
「違う。他人なんかじゃない」
「だから一緒に行けないんだ。僕は、レオのことを忘れなきゃいけないから!」
まだ手が届かない距離で、レオはピタッと止まる。
「どうしてだ」
「だって、僕が悪いんだ。全部僕の勘違いで、子供染みた嫉妬で感情を暴走させて、レオのことを謗って、傷付けて……。だから僕は、いつまでもレオに縋ってちゃダメなんだ。僕が固執するのはおかしいんだ。だから、次へ進まなきゃならない。もう立ち止まっていたくないんだ!」
「だから、一緒に行けないのか」
「ごめん、レオ。だからもう、消えてくれ!」
ヨハネは、ここで区切りを付けさせてほしいと、心の底からの切なる思いを伝えた。しかしレオは、許してはくれない。
「……ダメだ」
身体から分離したレオの黒い右腕が、ヨハネの腕を掴んだ。「……っ!?」ヨハネは、ビクッと身体を震わせる。
「お前は、俺と一緒に行くんだ」
「無理だよ、レオ。一緒に行けないんだ!」
「無理じゃない。俺たちは、ずっと一緒にいることを約束しただろ。その約束を果たしてない」
「確かに、約束した。でもわかってよ。その約束も破綻したんだよ。僕たちは、もう交わらないんだ。ここから運命が変わろうとも、過去は変わらないんだ!」
ヨハネも、何度もあの日に戻れたらと願った。けれど、決して戻らなかった。突き放した思いも、ずっと繋いでいられるはずだった手も、全てあの分岐で切り離された。これからも時間が流れようとも、戻ってくるのを待っている意味はない。
「……わからない」
すると、レオの身体が小刻みに震え出した。渡り廊下の屋根に当たる雨粒の音が、震えとリンクする。
「わからない……。わからない……。別れた? 終わった? 他人? そんなの知るか!」
感情を昂ぶらせたレオは、眼球が飛び出そうになるくらい激憤する。その剣幕に恐れて、ヨハネはまたビクッと震えた。
「お前が望んだんだろ! 俺とずっと一緒にいることを! 破るのか! 俺との約束を破るのか!」
「や……約束は、破ったんじゃない。果たせなくなったんだ!」
怒るレオにヨハネは怯み、後退りをしそうになる。
「適当なことを言うな! お前は約束を覚えてた! 俺の方へ来ようとしてただろ!」
「そうしようとしたこともあったけど……」
「でも、お前はそうしなかった! 気が変わって、約束を反故にした! 所詮、俺との約束は紙くず程度だったんだろ!」
レオは、ヨハネに向かってゆっくり進んで来る。怒りの形相が醜貌と相俟って悪魔のようで、ヨハネは恐れからとうとう後退りする。
「あれは違う! 約束を破ったんじゃ……」
「そういうことだったのか。お前は本当は、俺とは本気じゃなかったんだな。我儘言って俺を困らせてたのは弄んでただけで、腹の底じゃ楽しんでたんだろ!」
「違うよ! 僕はそんな……。約束だって反故にしたわけじゃ……!」
暑くもないのに流れる汗が冷たい。涼しさに汗の冷たさが相俟って、身体も声も震える。ヨハネだけが、真冬に連れて行かれているようだ。
「だから、俺と一緒に行くことを拒んでるのか。俺はお前の人生にとって、意味のない寄り道だから」
「待って、レオ!」
「待たないわよ」
「!?」それ以上逃げることは許さないと、背後からマティアに両肩を掴まれた。
「どうして、彼の望み通りになってあげないの? 貴方も望んでたんでしょ?」
「それは……」
「今は、絶好の好機よ。彼との永遠の時間を過ごせる事が、約束されるわ」
「僕は、そんなことは望んでない」
「望んで、ない?」
目玉が零れ落ちそうなほどに目を剥くレオは、ギロッと眼光を向ける。ヨハネは恐怖に襲われながらも、レオに理解を求め続ける。
「言っただろ。別れたのは僕のせいだから、縋ってられないんだ」
「次へ進む為に? だから一緒に行けないの?」
「そうだ」
「はあ?」
低音を発したマティアはヨハネの顔を覗き込み、黄色い眼光を刺した。女性とは思えない痛いと感じるほどの握力で掴み、ヨハネを詰責し始める。
「何、都合の良い事言ってるの。其れは、貴方の為の都合でしょ。彼の事なんか一切考えてない、勝手で、我儘で、其の先には自己完結しかない愚考じゃない。散々弄んでおいて、其れはあんまりよ」
「違う。僕は……!」
「アタシ、馬鹿で単細胞で能天気な人間が物凄く嫌いって言ったわよね。其れと他に、新しい歓楽を求める強欲さが大っ嫌いなの」
「僕はそんな……!」
雨が、ガラスの隙間から次々と廊下へ流れ込んでくる。そして下に溜まり、黒いヘドロと化していく。
「喧嘩別れとか死に別れとか、何方でも良いの。新しい歓楽を得る為に、下らない理由を正当化させようとしてる事が赦せないのよ。其の選択の先には彼は居ないのに、貴方は彼が居ない事を忘れて享楽に溺れるのよ」
「違う! そんなことは……」
「何が違うの? 事実、貴方は新しい人を見付けたんでしょ? だから彼を忘れたいと思ってる。縋っちゃいけないとか理由付けて、一人だけ人生を楽しもうとしてる」
「そんなことない。僕は、レオを忘れるつもりはない!」
「アハハハハッ!」
マティアは甲高い声で哄笑する。そして、ねっとりした口調でヨハネの顔の横で言い出す。
「笑わせないで頂戴! 皆そう。『ずっと忘れない』『生涯胸に刻み続ける』。そう言った事で満足して、日常に戻った途端に直ぐに誓った事を忘れる。一度そうやって言っておけば、アタシ達が貴方達を信じて此の世とさよなら出来ると思ってるんでしょ。其れは、其方の勝手な思い込みよ。未練が有れば縛り付けられるのよ。人間は本当に、自意識過剰で自己中心的。だから、地面の蟻の存在なんて忘れて、自由奔放に生きられるんでしょうね」
「違う。僕はレオを忘れない。今までだって、一日も忘れたことはない!」
「煩いわね。同じ事ばかり言わないで。そんな口、塞いであげる」
「ごぼっ!?」
マティアがそう言った瞬間、ヨハネの口の中はヘドロで一杯になり、まともにしゃべれなくなる。
「貴方は、自分が悪い事が分かってるんでしょ? 彼との約束も覚えてて、望みも抱いてるんでしょ? 其れなら、選択は一つじゃない。貴方が此の世で生きる為の正当性は、要らないの。貴方が選んで良いのは、彼の事だけ。他を選ぶ事は赦されない。幸せも、歓楽も、貴方には必要無い。求める事は罪なの」
「ぼっ……ぼとべる、のは……つみ"……」
「自分が一方的に悪いって認めてるみたいだけど、縋っちゃいなさいよ。貴方は、後ろめたくて謝りたいから縋ってるんじゃないの? 其れなら、縋るべきよ。其れが、過ちの償いにもなるんだもの」
「づっ……づぐ……らい……」
ヘドロに変わった雨が、足元に徐々に溜まっていく。青春の日々に溜め込まれた醜い嫉妬が、罪の在り処を教えるようにヨハネを捕まえる。
マティアは後ろからヨハネを抱き、頬を撫でて微笑む。
「貴方が縋ってくれたら、彼も喜んで消え去るわ。其の時は、貴方も一緒に連れて行ってくれるわよ。良かったわね」




