38話 三つの誓い
故郷の墓地だった景色は、張りぼてが崩れるように鈍色の空から少しずつ崩壊していく。
堕ちるまでのカウントダウンが始まった。
茨の蔓に巻き付かれ自由を放棄したヤコブは、懺悔を始める。
(あの日に戻れたら……なんて、今さら思わない。奪った俺には、そんな望みを抱く資格はない。本当は、いくら懺悔しようが無駄なのもわかってる。これは、最期のささやかな物乞いだ……。
俺は、兄貴が大好きだった。プロデビューしたらみんなに自慢してやろうって決めてたくらい、夢も応援してた。でも結局は、かわいがってくれた俺のことを一番に考えてほしかっただけなんだ。本当に夢を応援してたなら、約束を破られたくらいで我儘なんて言わなかった。自尊心を傷付けられるのが嫌だったから、出発の邪魔をした……。
本当に俺は愚かだ。今まで、本当の自分を知らなかったんだ。それが不幸を振り撒いた原因で、俺の過ち。そして、その過ちを自覚せずに罪を重ね、罪を自覚するどころか否定した、未熟で愚かな俺……。こんな俺を誰が赦す? 一体誰が認めてくれる? いるはずがない。誰も、こんな俺の存在を……)
自分の罪を肯定し続け、暗澹の底へと繋がる穴を着実に降りていく。
その時。シモンの言葉がふと甦った。
───ボクは、ヤコブのこと絶対に拒否しないからね。心の中でどんなに自分を否定してても、ボクは絶対に見放さない。
(でもな、シモン。俺が俺を赦せないんだ。兄貴の夢と命を奪った自分を、きっと一生赦せない。罪悪感で苦しみ続けたとしても、懺悔の日々が俺の人生だっていうなら、俺はそれを選ぶしかないんだ。他に選択肢はない。選べない。選んじゃいけないんだよ)
シモンが贈った言葉は、ヤコブの心の奥までは届かない。再戦を約束した時点で、使徒の資格を失う覚悟をしていたその固い決意の壁に、阻まれた。
(一緒にいられなくなるけど、ごめんな。でもこんな俺じゃ、お前の相棒に相応しくないんだよ。本当の気持ちを正直に言わなくてごめん。本心を隠して別れる俺を、どうか赦して……)
───ヤコブはボクの居場所だから、信じるのを絶対に諦めないよ。
ところが。その言葉が、決意の壁に僅かな亀裂を作った。
「居場所……」
(シモンは、俺が居場所だって言ってた……。いや、ダメだ。俺なんかが、お前の居場所だなんて……)
自分を見上げる瞳に憂いとともに浮かんでいた、信頼の光を思い出す。「絶対に拒否しない」。「絶対に見放さない」。「絶対に諦めない」。その三つの「絶対」が重なって、決意の壁を壊そうとする。
(俺はなんで、シモンと一緒にいることを選んだんだっけ……。好きになったから? バンデになったから? ……いや。違う。まだ未熟な身体には抱え切れない重い荷物を、支えてやりたいと思ったから。それから……。俺が、シモンが安心できる居場所になってやりたかったからだ。そして、俺も……)
ヤコブの決意の壁が、三つの「絶対」によって壊された。そして、届かなかったシモンの至情が温かな光を放ちながら、ヤコブの心の中へと浸透していく。拡散された悔恨のウイルスが、少しずつ消えていく。
(俺は覚悟を決めた。全てを無くす覚悟を。それなのにお前は、俺を繋ぎ止めようとしてくれるのか……)
ヤコブの胸の底から、言い難い感情が込み上げてくる。
自分を赦す者は、誰一人いないと思っていた。けれど、誰にも赦されなかったとしても、このままの自分を受け止めてくれる存在がいる。
そんな存在から目を逸らし、拒否していたのだと気付いたヤコブは、やはり自分は愚か者だと思い知る。
周りは闇となった。拘束されたヤコブの前には、彼の名前が刻まれた墓石が立てられ、深い穴が掘ってあり、黒いバラが供えられている。
「さあ。懺悔が終わったのなら、お前の墓に入るが良い」
堕ちるまであと一歩となり、バルトロマイは勝利を確信する。だが、思惑通りにはいかなかった。
「……〈悔謝〉!」
ヤコブは、具現化させたハーツヴンデ〈悔謝〉の刃で茨の蔓をバラバラに断ち、斧で自分の墓石を破壊した。
「何っ!?」
一体何が起きたのかと、バルトロマイは不可解な事態に混乱し眉間に深い皺を作る。
「悪ぃな、バルトロマイ。約束破るわ」
「どう言う事だ」
「ここには、使徒の資格をなくしてもいいって覚悟で、罪を認めて懺悔するために来た。だけど俺はまだ、使徒でいなきゃならないんだよ」
「呆れたものだ。お前のような罪ある頑愚が、まだ救う事を求めるか」
「自分でもそう思うわ。けどな。こんな俺にも、たった一人だけ救えるやつがいるんだ。そいつが『絶対』って俺を信じるから、まだ続けてみるわ」
身勝手に約束を反故したヤコブに腹を据えかねるバルトロマイは勃然として色をなし、鎖鎌〈蛇蝎厭霧〉を手にした。
「赦さぬ。事を食む其の選択を、我が赦さぬ!」
バルトロマイは鎖鎌を投げ、力尽くでヤコブを堕としに掛かって来た。ヤコブは飛んで来た鎖鎌を〈悔謝〉で弾くが、鎌はひとりでに軌道修正してヤコブを狙う。
「お前のような人間が何食わぬ顔で日常に戻るなど、切歯扼腕!」
バルトロマイの念力で何度も襲い来る鎖鎌で傷を負いながらも、ヤコブも何度も金属音を立てて弾き返す。
「俺も、まだ赦されたとは思ってねぇよ。ここで聞いた兄貴たちの言葉が本物だろうが偽物だろうが、あの日に着けた枷は、間違いなくまだ俺の両手首にある」
「所詮お前は、俗世の欲の塊! 其の枷の重さなど、とうに軽くなっているだろう!」
「軽い枷になってたら、自分で鎖ぶっちぎって、罪も忘れて自由を謳歌してるっての!」
斧と鎖鎌の攻防が続いていた、その時。ヤコブが野球のバッターのごとく弾いた鎖鎌が空間の天井に思い切りぶつかると、小さな亀裂が生まれた。
「何っ!?」
実はヤコブは、〈悔謝〉で鎖鎌を弾いていると見せ掛けて、棺の内部からの破壊を試みていたのだ。
しかし、亀裂が入ったのは内部からの衝撃だけのせいではない。シモンが外から、〈恐怯〉で光の矢を放ち続けている証拠だった。
「馬鹿な!?」
棺の亀裂にバルトロマイが気を取られた一瞬に、ヤコブは鎖鎌を踏み付け、難敵に斬撃を放つ。
「晦冥たる白兎赤烏、照らす剛勇!」
「!」しかし瞬間移動され、直撃させることはできなかった。
「んじゃ。またいつかやろうぜ」
脱出する隙きを作ったヤコブは、今度は亀裂を目掛けて攻撃を放ち、棺を破壊した。
「ヤコブ!」
戻って来たヤコブの目に最初に入ったのは、驚いて泣きそうな笑顔のシモンの顔だった。
「よお、シモン……っと」
精神的ダメージは大して受けていないと思っていたが、思ったより食らっていて、解放された安堵から尻餅を突いた。
バルトロマイも現実世界に戻るが、ビフロンスが無様な姿で使徒に刃を向けられている状況に驚愕し、目を疑う。
「ビフロンス!?」
「お前のゴエティアはご覧の通りだ」
「まだ仲間をいたぶるつもり? だったらこっちは、とどめを刺すけど」
「契約してるんだよな。いなくなったら困るんだろ?」
「使徒が脅迫か……」
バルトロマイは忌々しさで表情を歪ませ、厳つい顔をさらに厳つくさせる。
だが、憤怒のフィリポのように直情型ではない彼は、冷静な判断を下す。
「帰るぞ。ビフロンス」
無様に地面に磔にされたビフロンスを回収すると、バルトロマイは使徒に厭悪の眼光で一瞥し、大きな無念とともに影の中に消えた。
「ふうっ……。まだやるって言われなくてよかったー」
「そしたら僕は遁走してました」
「オレも、こっそり逃げたかも」
「えー。もしかして、私一人に戦わせるつもりだったの?」
シモンも戦いを終えて安堵し、両手でヤコブの手を握った。
「ヤコブが無事に戻って来てくれて、よかった……」
嫌な胸騒ぎを感じてからは、気が気ではなかった。ヤコブが無事に戻って来ると信じる反面、もう一緒にいられなくなる恐怖との戦いでもあった。だから酷く安心し、涙が出そうだった。
ヤコブもまた、使徒として帰還しシモンの顔を見られたことにホッとして、その小さな肩に頭を乗せた。
「戻って来ちゃった」
「なに。その言い方。当たり前でしょ」
「……そうかな」
「そうだよ」
「そっか……。シモンが言うなら、そうだな」
(俺がシモンの居場所なら、俺の居場所は、ここだ)
ヤコブは、繋いでいたシモンの手をぎゅっと握り返した。
自分の居場所が、変わらずここにある。二人のそのささやかな望みは、明日も続く。




