26話 往復切符(とりひき)
シモンはビフロンスの後方、コンツェルトハウスとドイツ大聖堂のあいだに展開された、黒い沼の棺の傍らに膝を突く。触ると沼は鉄のように冷たくて硬く、叩いてもびくともしない。
(ボクもこんなふうに、外と遮断された空間に閉じ込められてたんだ。ヤコブも今、この中で一人で戦ってる。ボクがここにいることを伝えなきゃ!)
シモンは右腕を掴み、棺に向かって叫ぶ。
「ヤコブ! ボクはここにいるよ! ヤコブの側にいるよ!」
「シモンくん!」
ユダの声で振り返ると、残党の傀儡亡霊が迫っていた。シモンは再び〈恐怯〉を具現化させ、亡霊たちを浄化しながらヤコブに叫び続ける。
「ヤコブはプライド高くて弱いとこ見せてくれないけど、辛いことを一人で抱えないで! かっこ悪いとか思わないから! ボクの知らないヤコブがいたとしても、ボクは側を離れたりしないから!」
「シモン、こっちは任せろ!」
ペトロは、祝福の光雨で援護する。
シモンは仲間たちの支えに感謝し、無理だとわかりながら〈恐怯〉の光の矢で棺の破壊を試み始めた。
「ボクは、どんなヤコブも否定しない! だからヤコブも、自分を嫌いにならないで!」
しかし、やはり放った矢は弾かれる。それでもシモンは諦めずに、思いを乗せて何度も矢を射った。
棺の中のヤコブは、黒い沼に飲み込まれかけていた。
ヤコブを肯定する者は、この空間には誰一人として存在しない。現れる者は皆彼を否定し、拒絶し、排除を望む。虫すらもそう望んでいるとまで、思い込んでしまう。
「お前は使徒に非ず。命を奪った者に、何を救えよう」
この空間にある肯定は、バルトロマイの言葉のみ。ヤコブはその言葉の全てを水のように飲み込み、自身に浸透させていく。
「お前には何も救えぬ」
虚ろな目をし、堕ちてもいいと自分を赦しかけた。
そんな時だった。
────ボクの声を聞いて! ヤコブ!
「……!」
シモンの声が、微かに聞こえた気がした。
(……シモン?)
虚ろだった目が、天使の梯子を見つけたように小さな光を灯し、顔が上げられる。
ヤコブは埋まっていた右手を沼から抜き、左腕に触れた。
(そうだ……。この先は、俺が行くべき場所じゃない。まだ、その時じゃないんだ……)
「……ごめん。兄貴……。俺は、もっと兄貴から罰を受けなきゃいけない。だけど、もう少し待ってくれ」
ヤコブは、独り言のように言いながら立ち上がった。だがその顔には、まだ生きるための全ては戻っていない。
「逃れるつもりか。頑愚め。逃げられる訳が無かろう!」
バルトロマイは鎖鎌〈蛇蝎厭霧〉を自身の身体から作り出し、ヤコブ目掛けて投げた。ヤコブは〈悔謝〉を具現化させ、罪から逃がさんとする刃の鎖を絡ませた。
「逃げはしない。逃げられないことはわかってる。だけど、猶予をくれ」
「猶予だと?」
「約束する。俺は逃げずに、必ずまたここへ戻って来る。その時に全て受け止める。使徒を続けられなくなるとしても、覚悟を決める」
その言葉通り、ヤコブは覚悟を胸に抱く表情をしていた。死徒がそんな言葉を真に受け、逃れるのを許すはずがない。しかし、その面持ちから見定めたバルトロマイは、鎖鎌を〈悔謝〉から解いた。
「交渉をされたのは初めてだ。巫山戯た交渉だが、良いだろう。使徒で居られる残り僅かな時間を、噛み締めるが良い。だが。怖れを成して逃げるのは赦さん。我は、お前を堕とすまで追い掛けるぞ」
「ああ。だから、俺を見張っててくれ」
ヤコブは、〈悔謝〉を真っ暗な空間に向かって振るった。
「晦冥たる白兎赤烏、照らす剛勇!」
シモンが諦めずに矢を放ち続けていた時、棺の表面に亀裂が入り、ガラスのように飛散した。そして棺の消滅とともに、ヤコブが帰還した。
「ヤコブ!」
「……よお」
精神的に疲弊したヤコブは、ぎこちない笑みでひとまず無事に戻ったことをシモンに伝えた。
棺を解放したバルトロマイも影の中から現れ、ビフロンスに命じる。
「ビフロンス。一時撤退する」
「おや。主殿、宜しいのですか?」
「構わん。口約を交わした」
「口約とは珍しいですね。畏まりました。其れが、主殿の御意志ならば」
ビフロンスは命令に忠実に従い、回収された。
バルトロマイは去り際にヤコブを一瞥し、影の中に消えていった。影に覆われた街も、喧騒を取り戻す。
「無事か、ヤコブ!?」
ペトロたちが案じて駆け寄って来た。
「ああ。ひとまずな。お前らも、お疲れ」
「こっちもこっちで、始終嫌な気分だったよ」
「それはいいとして。ヤコブくん。口約って、どういうこと? 棺の中でやつと何があったの」
「もしかして。不利な約束を交わされたとか?」
ユダとペトロは、トラウマの幻覚世界という圧倒的不利な状況下で、危険な契約でも交わされたのかと危惧して訊いた。
「俺から交渉したんだよ」
「交渉?」
「大したことじゃねぇよ。再戦を約束するから、今日は見逃してくれって頼んだだけだ」
何でもないただの約束だと言うヤコブ。だがその表情は、次が自身の最後の戦いになることを予知しているかのような、僅かな恐れが覗く覚悟の表情だった。
「帰ろうぜ。俺はバイト中だったから、着替えついでに体調不良で早退するって言って来るわ」
「ボクも付いてくよ」
アルバイト先のレストランに戻るヤコブに、シモンは付き添って行った。ヤコブの足取りはふらつくこともなく、意外としっかりしている。
「……ヤコブのやつ、案外大丈夫そうか?」
「いや。トラウマを体験させられたんだから、精神的にきてるはずだ」
「それじゃあ、無理して……」
棺の中で極限状態に陥ったあとでも、仲間の前で気丈に振る舞うとは、ヤコブらしくはある。
「それにしても。再戦を約束する代わりに解放してくれるなんて、死徒のくせに理性的だね」
「だけど。そのぶん、再戦が怖い気がする」
ペトロは、懸念の表情を浮かべた。
棺の中で何が起こり、ヤコブの気持ちにどんな作用をもたらしたのか。それは当人にしか知り得ないことだが、なぜヤコブが再戦の約束なんかをしたのかが気に掛かった。