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イア;メメント モリ─宿世相対─  作者: 円野 燈
第3章 Nähern─強さの裏側に─
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26話 往復切符(とりひき)



 シモンはビフロンスの後方、コンツェルトハウスとドイツ大聖堂のあいだに展開された、黒い沼の棺の傍らに膝を突く。触ると沼は鉄のように冷たくて硬く、叩いてもびくともしない。


(ボクもこんなふうに、外と遮断された空間に閉じ込められてたんだ。ヤコブも今、この中で一人で戦ってる。ボクがここにいることを伝えなきゃ!)


 シモンは右腕を掴み、棺に向かって叫ぶ。


「ヤコブ! ボクはここにいるよ! ヤコブの側にいるよ!」

「シモンくん!」


 ユダの声で振り返ると、残党の傀儡亡霊が迫っていた。シモンは再び〈恐怯(フルヒト)〉を具現化させ、亡霊たちを浄化しながらヤコブに叫び続ける。


「ヤコブはプライド高くて弱いとこ見せてくれないけど、辛いことを一人で抱えないで! かっこ悪いとか思わないから! ボクの知らないヤコブがいたとしても、ボクは側を離れたりしないから!」

「シモン、こっちは任せろ!」


 ペトロは、祝福の光雨リヒトリーゲン・ジーゲンで援護する。

 シモンは仲間たちの支えに感謝し、無理だとわかりながら〈恐怯(フルヒト)〉の光の矢で棺の破壊を試み始めた。


「ボクは、どんなヤコブも否定しない! だからヤコブも、自分を嫌いにならないで!」


 しかし、やはり放った矢は弾かれる。それでもシモンは諦めずに、思いを乗せて何度も矢を射った。




 棺の中のヤコブは、黒い沼に飲み込まれかけていた。

 ヤコブを肯定する者は、この空間には誰一人として存在しない。現れる者は皆彼を否定し、拒絶し、排除を望む。虫すらもそう望んでいるとまで、思い込んでしまう。


「お前は使徒に非ず。命を奪った者に、何を救えよう」


 この空間にある肯定は、バルトロマイの言葉のみ。ヤコブはその言葉の全てを水のように飲み込み、自身に浸透させていく。


「お前には何も救えぬ」


 虚ろな目をし、堕ちてもいいと自分を赦しかけた。

 そんな時だった。


 ────ボクの声を聞いて! ヤコブ!


「……!」


 シモンの声が、微かに聞こえた気がした。


(……シモン?)


 虚ろだった目が、天使の梯子を見つけたように小さな光を灯し、顔が上げられる。

 ヤコブは埋まっていた右手を沼から抜き、左腕に触れた。


(そうだ……。この先は、俺が行くべき場所じゃない。まだ、その時じゃないんだ……)

「……ごめん。兄貴……。俺は、もっと兄貴から罰を受けなきゃいけない。だけど、もう少し待ってくれ」


 ヤコブは、独り言のように言いながら立ち上がった。だがその顔には、まだ生きるための全ては戻っていない。


「逃れるつもりか。頑愚め。逃げられる訳が無かろう!」


 バルトロマイは鎖鎌〈蛇蝎厭霧ハス・シュトライヒュング〉を自身の身体から作り出し、ヤコブ目掛けて投げた。ヤコブは〈悔謝(ラウエ)〉を具現化させ、罪から逃がさんとする刃の鎖を絡ませた。


「逃げはしない。逃げられないことはわかってる。だけど、猶予をくれ」

「猶予だと?」

「約束する。俺は逃げずに、必ずまた()()へ戻って来る。その時に全て受け止める。使徒を続けられなくなるとしても、覚悟を決める」


 その言葉通り、ヤコブは覚悟を胸に抱く表情をしていた。死徒がそんな言葉を真に受け、逃れるのを許すはずがない。しかし、その面持ちから見定めたバルトロマイは、鎖鎌を〈悔謝(ラウエ)〉から解いた。


「交渉をされたのは初めてだ。巫山戯(ふざけ)た交渉だが、良いだろう。使徒で居られる残り僅かな時間を、噛み締めるが良い。だが。怖れを成して逃げるのは赦さん。我は、お前を堕とすまで追い掛けるぞ」

「ああ。だから、俺を見張っててくれ」


 ヤコブは、〈悔謝(ラウエ)〉を真っ暗な空間に向かって振るった。


晦冥たる白兎赤烏(ムーティヒ・)照らす剛勇(ブリヒトニヒト)!」




 シモンが諦めずに矢を放ち続けていた時、棺の表面に亀裂が入り、ガラスのように飛散した。そして棺の消滅とともに、ヤコブが帰還した。


「ヤコブ!」

「……よお」


 精神的に疲弊したヤコブは、ぎこちない笑みでひとまず無事に戻ったことをシモンに伝えた。

 棺を解放したバルトロマイも影の中から現れ、ビフロンスに命じる。


「ビフロンス。一時撤退する」

「おや。主殿、宜しいのですか?」

「構わん。口約を交わした」

「口約とは珍しいですね。畏まりました。()れが、主殿の御意志ならば」


 ビフロンスは命令に忠実に従い、回収された。

 バルトロマイは去り際にヤコブを一瞥し、影の中に消えていった。影に覆われた街も、喧騒を取り戻す。


「無事か、ヤコブ!?」


 ペトロたちが案じて駆け寄って来た。


「ああ。ひとまずな。お前らも、お疲れ」

「こっちもこっちで、始終嫌な気分だったよ」

「それはいいとして。ヤコブくん。口約って、どういうこと? 棺の中でやつと何があったの」

「もしかして。不利な約束を交わされたとか?」


 ユダとペトロは、トラウマの幻覚世界という圧倒的不利な状況下で、危険な契約でも交わされたのかと危惧して訊いた。


「俺から交渉したんだよ」

「交渉?」

「大したことじゃねぇよ。再戦を約束するから、今日は見逃してくれって頼んだだけだ」


 何でもないただの約束だと言うヤコブ。だがその表情は、次が自身の最後の戦いになることを予知しているかのような、僅かな恐れが覗く覚悟の表情だった。


「帰ろうぜ。俺はバイト中だったから、着替えついでに体調不良で早退するって言って来るわ」

「ボクも付いてくよ」


 アルバイト先のレストランに戻るヤコブに、シモンは付き添って行った。ヤコブの足取りはふらつくこともなく、意外としっかりしている。


「……ヤコブのやつ、案外大丈夫そうか?」

「いや。トラウマを体験させられたんだから、精神的にきてるはずだ」

「それじゃあ、無理して……」


 棺の中で極限状態に陥ったあとでも、仲間の前で気丈に振る舞うとは、ヤコブらしくはある。


「それにしても。再戦を約束する代わりに解放してくれるなんて、死徒のくせに理性的だね」

「だけど。そのぶん、再戦が怖い気がする」


 ペトロは、懸念の表情を浮かべた。

 棺の中で何が起こり、ヤコブの気持ちにどんな作用をもたらしたのか。それは当人にしか知り得ないことだが、なぜヤコブが再戦の約束なんかをしたのかが気に掛かった。




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