月とカモメ
アパートの部屋のベランダに出ると「彼」がいた。
彼、と言っても本当に彼が雄であるかどうかはわからない。
私にはカモメの雌雄を見分ける知識なんて無い。
でもなんとなく私は彼を彼と呼ぶ事にした。
実際、彼は寡黙な海の男をイメージさせるクールな眼差しで、水平線をいつも見つめている。
初めて彼を見たのは、キッチンでパスタを茹でている時だった。
トマトソースを温めている私がふと左を向くと、暗いリビングの向こうの窓ガラス越しに彼の後ろ姿が見えたのだ。
彼はベランダの柵の上に立っていた。
私がパスタを食べている間も彼はずっとそこにいた。
その日は風の強い日だったから、彼は柵の上でバランスを取るために何度か羽ばたいた。
私はその翼の大きさに見入り、羽ばたく音の柔らかさに聞き入った。
パスタを平らげた後、私はソースのついた皿をテーブルの上に置きっぱなしにして、そっとベランダに近づいた。
彼は横を向いて片方の目でこちらを見た。
そうしてガラス越しにしばし見つめあった後、彼は急に翼を広げて飛び去った。
私は窓を開けてベランダに出てみたけれど、彼の行き先は分からなかった。
それから彼は時折ベランダに現れるようになった。
一度小魚を上げようとしたことがあったけれど、彼は食べようとしなかった。
彼はきっと誇り高いカモメで、人間からの気まぐれな施しなど受けないのだろう。
遊覧船の上の観光客が投げるえびせんにだって食いつかないに違いない。
彼と私は時々並んでベランダから海を見た。
アパートは時折うみねこ(と当然カモメ)の声が聞こえるような場所にあり、飽きるまでいくらでも海を眺めることができた。
彼はいつも柵の端にとまり、私はもう一方の端に寄りかかった。
それが私と彼の適切な距離だった。
私は時々彼に話しかけたけれど、当然彼からの返事はなかった。
私たちは言葉を交わすことも、夕食を共にすることも、盃を交わすこともせず、ただただ海を眺めた。
晴れの日も、曇りの日も、雨が降っている時さえあった。
それでも私たちは時間さえ合えばベランダで落ち合った。
そうした日々が二ヶ月ほど続いていた。
仕事で遅くなったある夜、郵便受けにポストカードが入っているのを見つけた。
ハワイにいる姉からだった。
カラフルなオウムと砂浜のイラストに、向こうでの仕事の様子と近況を伝える短い文章が添えられていた。
私はしばらく絵の砂浜を見つめた。
アパートの薄暗い蛍光灯の下でもその砂浜は眩しく白く、私は眉根に皺を寄せて目を細めた。
今時ポストカードなんて姉らしいと思った。
それと同時に、電話じゃなくて良かった、とも思った。
最後に姉の声を聞いたのはいつだったか、すぐには思い出せなかった。
私たちは歳の離れた姉妹で、私は小さい頃から姉が少し苦手だった。
姉はいつも明るくてとても行動的な人だった。
学校の成績も優秀で、常に友人たちの輪の中心にいるような人だった。
大人しく内向的な子供だった私には姉の姿が眩しいと同時に、正直疎ましくもあった。
誰に何を言われた訳でもないけれど、私は常に姉とは違うと思い続けていた。
良くも悪くも。
それはやがて私の生き方そのものになってしまったようで、私は姉と違う生き方を自分の意思で選んでいるのだ、と周囲に示さなくてはならないと考えるようになっていた。
姉とは違う服を着て、姉とは違う学校に行き、姉とは違う職種を選んだ。
そうして今は住む国さえも違ってしまった。
今になってようやく、あの頃の私は何と戦っていたんだろうと思うようになったけれど、今更何が変わるわけでもない。
鍵を開けて照明のついていない自分の部屋に入る。
カーテンの開きっぱなしになっていた窓から月明かりが差し込み、音のない部屋の中は青白い陰影で満たされていた。
その隅の方で小さな影が動き、ベランダに彼が来ていることに気がついた。
冷蔵庫から缶ビールを出し、ベランダに出た。
満月だった。
柵に寄りかかり、ビールを一口飲む。
ビールを飲む時はいつも、その苦味の中にみんなが言うような喉越しだとかキレだとかを探してみるけれど、ピンと来たためしがない。
ビールの味が嫌いなわけではないけれど、特別美味しいとも思わない。
そのくせ冷蔵庫にはいつもビールが入れてある。
手持ち無沙汰を解消するという理由もあるけれど、私は自分がビールを飲むという行為を誰かに見てもらいたいのかもしれない。
目に見えない誰かへのアピールをする事に私はこれまでの人生の多くを費やしてきてしまっていた。
海は月の光を反射して絶えずきらきらと光った。
ひとつひとつの光は控えめでささやかな輝きなのに、こうしてベランダから見る海原は騒々しいくらいにきらめいている。
横目で柵の上の彼を見る。
月光を受けた体は浮かび上がるような白さだった。
そこに影のようなグレーの翼をなめらかに折り畳んでいる。
彼はいつもと変わらない静かな眼差しで水平線を見つめている。
ふと、彼はいつもどこから来るのだろうと考えた。
彼は時々このベンランダに現れるけれど、どこか別のところに巣があるはずだ。
カモメの巣が具体的にどんな形でどんな場所に作られるのか、私は知らない。
もしかしたら決まった巣は持たないのかもしれない。
あるいは普通のカモメは巣を作るけれど、彼はそういった決まった家を持たない主義かもしれない。
彼は変わり者の孤独なカモメで、いつもは打ち捨てられた海辺の小屋や崖の上の高い灯台の上で夜を明かす。
でもそんな彼にも時には眠れない夜がある。
月明かりに海が眩しいくらいに輝く夜、彼は海辺の街を飛ぶ。
決して潮の匂いの届かない場所までは行かない。
彼はカモメだ。
朝になったら海へ帰らなくてはならない。
だから彼は海の見える範囲で、心休まる静かな場所を探す。
満月の見下ろす薄明かりの晩を過ごすのに適した場所はいくつかある。
彼はなんといっても孤独なカモメだから、長年の経験と知恵でそうした場所をすぐに探り当てることができる。
そうして今日はまたこのアパートのベランダにやってきた。
前々からこの場所には何度か訪れている。
住んでいるのは孤独で寡黙な人間が一人だけ。
彼女は自分に話しかけもしないし無遠慮に写真を撮ったりもしない。
ただ静かに自分の生活を営んで、でもそこには何かしらの隙間のようなものがある。
ごくありふれた、誰もが持っていておかしくない、でも彼女にとってきっと無視のできない隙間が。
その隙間に彼はそっと舞い降りる。
ふと気が付くと彼が私のことを見ていた。
私は自分がカモメでないことを彼に申し訳なく思った。
私がカモメだったら彼と一緒に夜の街や昼間の眩しい海の上を飛ぶこともできるのに。
孤独な夜に彼が安心して眠れる巣を作ってやることもできるかもしれないのに。
でもきっと彼は私と一緒に飛ぶこともないし、私の巣で一緒に眠ることもないのだろう。
彼は孤独なカモメだし、孤独を愛するカモメだから。
だから私たちの出会いは今のこの形でしかあり得ない。
お互いに干渉せず、ただベランダで海を見る。
私は彼と海を眺めた日のことについて何か具体的な記憶を思い出そうとしたけれど、何も思い浮かばなかった。
漠然と思い描けるのは彼の白い羽毛と海の青、その時々で水色だったり灰色だったり濃い藍色やオレンジだったりした空の色だ。
きっと空っぽの時間だったんだ、と私は思った。
缶の底に残ったビールをぐっと飲み干すと、微かな甘さを含んだ苦味が喉を通って、流れ、消えていった。
その夜、夢を見た。
夢の中で私は砂浜を歩いていた。
カモメの鳴く声がする。
ハワイにもカモメはいるのだろうか、と私はぼんやり考える。
景色も見えないくらいに日差しは眩しいけれど不思議と暑くはない。
しばらく海岸線を歩いた。
いつの間にか、あるいは最初からそうだったのか、私は裸足になって足首までを波に浸して歩いていた。
風が吹く。
カモメの鳴く声がする。
眩しい日差しの向こうに一人の人影を見つける。
その人は海を見つめながら私と同じように足を波に晒している。
唾の広い大きな白い帽子に同じく真っ白のワンピースを着ていた。
姉だ。
遠くて顔は見えないけれどはっきりと分かった。
彼女はこちらに気づいて手を振った。
私は迷ったけれどそちらに向かって歩いていくことにした。
姉は私に向かって何かを言っていた。
何を言っているのか聞きたくて私は歩を速める。
いくら歩いても姉のところまでは辿り着けない。
姉はこちらに手を振って何かを言っている。
電話がかかってきたのは夜明け前だった。
寝ぼけた頭で電話に出た私に、姉の恋人だという人は姉が事故で亡くなったということを告げた。
彼は意気消沈していて、彼自身何が起きたのか実際には飲み込めていないような様子だった。
それでも彼は私を気遣い、言葉の端々に後悔を滲ませていた。
私は静かにお礼を言って電話を切った。
私はまたベランダに出た。
カモメの彼はそこにいた。
一度どこかへ行って帰ってきたのか、それともずっとここにいたのかはわからない。
少なくとも彼は眠ってはいなかった。
いつものように柵の上に立って海を見ているだけだった。
夜明け前の冷たい風がパジャマの隙間をすり抜けて私の体を冷やした。
遠くの空に夜明けの色が近づいているのが見える。
私は柵にもたれかかり、ただ海を眺めた。
海はまだ暗く静かだった。
まだうまく回らない頭で、ついさっきもらった電話の内容を反芻していた。
今は姉が死んだ事実よりも、それを伝えたあの電話の男性の声が私の中に反響していた。
静かな悲しみと急に暗闇に放り出されたような心細さが、電話口のあの声から私の体に染み渡ってくるような気がする。
彼がこちらを見ていた。
私は一瞬、彼が飛び去ってしまうことを恐れた。
でも彼はこちらの恐れを見透かすように真っ直ぐ私だけを見ていた。
姉さんが死んだの、と語りかける私の声は自分が思うよりもずっと小さな掠れた声だった。
私、ずっと羨ましかった。
自分の生きたいように生きられるあの人が。
私に無いものを全部持ってるあの人が。
だから私、あの人から逃げたの。
できるだけ惨めに見えないように取り繕って。
でも姉さんは全部知ってた。
全部知ってて、それでも私を見失わないようにしてくれていた。
私はあの人を見ないふりしてたのに、あの人は全部わかってたんだ……。
空が白み始めていた。
ずっと夜が続いていてくれればいいのにと思ったけれど、朝は着実に近づいてくる。
夜と朝が入れ替わる直前に、彼は大きく鳴き声を上げた。
彼の声を聞いたのは初めてだった。
彼は大きく翼を広げ羽ばたいた。
登り始めた太陽の光が彼の翼に反射して、私の視界を白く染めた。
瞬間、世界の時は止まって、私は砂浜に打ち寄せる波の音を聞いた。
私は姉がハワイの砂浜を歩く様子を思い描いていた。
想像の中で姉は夢と同じ白い帽子と白いワンピースを着ている。
眩しい波打ち際を彼女はゆっくりと歩いていく。
私は彼女を追いかけるけれど、彼女の元へは辿り着けないことがわかっていた。
姉は私には届かない声で何かを言う。
私は声を張り上げる。
大丈夫だから、わかっているから、と。
そうする以外に私にできることはない。
真っ白な世界の中で姉は頷いてまた歩き出す。
私は何度でも呼びかける。
私たちの上を飛んでいく一羽のカモメが声を届けてくれはしないかと祈りながら。
喪服やらパスポートやらを元の場所にしまって、ようやく空になったトランクを片付けた頃、ベランダで動く影があった。
私はインスタントコーヒーを淹れてからベランダに出る。
晴れた空だった。
遠くからうみねこの声がする。
久しぶりに見る彼は今日も静かな目で海を眺めている。
もう少ししたら引っ越そうと思ってるの。
今の仕事もやめようと思ってる。
お金は少しの間なら一人で生きていけるくらいはあるから。
だから、お別れだね。
傍らの彼は身動きひとつしない。
彼は孤独なカモメだ。
彼の目に映る世界は海と空と雑多な街とそこに眠る孤独だけ。
私たちは孤独を持ち寄って海を眺める。
だけどずっと一緒にいるわけにはいかない。
朝になったら私たちはお互いの孤独をまた自分自身で抱えて飛び立たなければならない。
白とグレーの影が羽ばたいて彼は飛び去った。
眩しい空に彼は溶けていく。
真っ白に澄んだ光に涙が滲んだ。
お読みいただきありがとうございました。
実はこの話にはモチーフとした小説があります。
村上春樹先生の『女のいない男たち』という短編集の表題作となっている書き下ろしの短編です。
主人公は夜中にかかってくる電話で突然の喪失を知りますが、そこに至るまでにも緩やかに喪失の予感は漂っています。
そうした喪失は自分の力では変えることのできないものですが、それをどう受け止め前を向くのかは本人次第だと思います。
本人次第であるからこそ人は孤独であり、孤独であるからこそ自由なのかもしれません。
今回は少々暗い展開にはなりましたが、他の作品も読んでいただけると嬉しいです。
ありがとうございました。




