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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

イタチの短編小説

怪談 腐液腐肉

作者: 板近 代

 女が、青年の世話をしていた。


「くさくないかって? 大丈夫です。大丈夫ですよ」


 床に敷いた和布団に眠る青年はもう長いこと起き上がることができておらず、室内にはすえたにおいが籠っている。


「大丈夫です。大丈夫ですよ。大丈夫です。だって、ええ。ええ。そうですね。私は嬉しいくらいですよ」


 かいがいしく世話を焼く女の年頃は、二十代後半くらいか。彼女は青年のために幾日も起き続けているが、表情や声、そして振る舞いには一切疲れた様子を出すことがない。


「ほら、もし人間が野生のままだったら、身体を洗わずに猫のように舐めて綺麗にしているはずでしょう。だからこれはあなた本来のにおい。それを私が嫌がるだなんて、あるわけないじゃないですか」


 青年の頭を優しく撫で続ける女の手はベトベトとしていたが、気にする素振りは一切見せず。笑顔を絶やさぬ健気な姿はまるで、春に咲く野花のようである。


「ああそうだ! においという言葉が嫌なのならば、かおりとでも言い換えてみてはどうでしょう? あなた本来のかおり、好きですよ私は」


 ガチャリ。


「あら、誰かいらしたみたいですね」


 玄関が開いた音の後に続いたのは、二人の男が土足で上がり込んできた音。


「先輩! 待ってください! 先輩っ!」

「うるせぇ、大丈夫だ。ようネェチャン、俺たちは警察なんだがちょっといいかな?」


 男たちは刑事であった。


「あなたのお知合いですか? そうですか、知らない方ですか」


 女は振り返ることもなく青年に問いかけ、その意志を把握した。


「高級戸建て。玄関の鍵開けたまま死体とお喋りたぁ、イカレてやがんな」

「先輩、今時そういう発言はまずいですって」

「ああ? まずければどうなるんだよ」

「世間が――」

「それは世間がイカレてやがんのよ。おい、殺人犯のネェチャン、両手あげてこっち向……うわ、すげぇな。これ死後二週間は経ってるぞ」


 女の向こう側にある、横たわった青年の顔を覗き込んだ先輩刑事がぼやく。


「おっとネェチャン。悪いんだけど、手は上にあげてくれねぇかな」


 背を向けたままの女の手元は、隠れて見えない。


「手なんて、あげられないですよ。だってお客様が来てくれたのですから」

「招かれざる客で申し訳ねぇけどな」

「だから、お風呂入れて綺麗にしてあげないと。この人、俺の身体はくさいくさいって気にしてるんですから。私に嗅がれるならまだしも、知らない人に嗅がれるのは嫌でしょう」

「動くな!」


 後輩刑事が、銃を抜いた。


「おい落ち着け。大丈夫だ」

「しかし先輩……おい! 動くなと言ってるだろう!」

「いやいや、動くなってのは無理だろうよ」

「そうですよ。あなただって、くさいと言われたら嫌でしょうよ」


 青年の上半身をしっかりと抱き抱えて起こした女が――振り向いて――軽蔑に似た視線を向けた。その顔はやつれていたが白く美しく、この世にはそぐわぬもののようである。


「動くなと――」

「だぁから無理だって。武器も持ってねぇようだし、別にいいだろう。おいネェチャン、そんな抱き方じゃ――」

「あっ……」


 腐った肉がずるりと滑ってはずれ、青年の白い背骨が発掘中の化石のように露出した。


「ほれ見ろ、言わんこっちゃない」

「ごめんなさい、ごめんなさい。さあ、もう一度頑張ってください」


 女が懺悔の念に支配されたかのような顔で、再び青年を抱き起す。


「おい、死体から手をはなせ――」

「死体? そんなものどこにあるのですか――――」

「手をはなせと言っている!」

「はぁ、しょうがねぇなぁ」

「え……先輩っ!」


 後輩刑事は間に合わなかった。

 銃を手にしていたせいで、止めることができなかったのだ。

 

 女の頭を撃った、先輩刑事を。


「どうだ。これでちょっとは落ち着いて見てられるだろう?」

「あ……あ……あんたぁ! なんてことするんですか!」

「なんてこともねぇよ。こういうやつは、それだけは失わないように必死に生きてる。文字通り必死にな」

「いや、おかしいでしょう! あんた、人を撃ったんですよ!」

「人、なのかねぇ」


 先輩刑事は煙草を取り出して、静かに咥えた。長いことポケットに入れていたせいで箱が押しつぶされて、少し曲がっている煙草を。


「警察なんですよ俺たちは! 警察が、こんな簡単に人を撃っていいわけないじゃないですか!」

「冗談きついぜ。先に銃抜いたのおまえだろ、今にも撃ちそうだったじゃねぇの」


 煙の色がゆらゆらと昇って消えた。天井に、触れる前に。


「…………いや、その」

「見ろよ、こういうやつらが本当に手に負えねぇんだぞ」


 青年の腐液まみれの布団に染みて混ざっていく女の血液は、吐瀉物と涙の混ぜ物のよう。


「先輩、俺……ちょっと外の空気吸ってきます」

「どうした?」

「すみません、吐きそうで」

「もしかしておまえ、こういうのはじめてか? おい待てっ――はぁ、新人に現実教えんのは俺の仕事じゃねぇだろうよ」


 春なのに、六月のようなかおりがする。


「さて、ネェチャン。話を聞こうか」


 青年の腐肉に埋もれていた女の顔が、くるんと振り向いた。

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