ランプのせい
これは、あやしい……。
鈴村かなたは、かびの匂いのする桐の箱からとりだしたそれをみて、思わず嘆息する。
両手で持ちあげてみて、いろんな角度から観察してみたのち、桐の箱の横書きのかすれた毛筆をみる。「風乱之法魔」。
もし自分が10人いて、議論したとしても、その感想は「あやしい」で満場一致だろう。
初春に、遊び人と称されていた父方の祖父が亡くなり、葬儀は近場の近親者だけで執りおこなわれた。よって遠方住まいで当時多忙だったかなたは、父親の許可のもと供花を頼んだだけだったこともあり、今般の申し出にはすぐに応じることにした。
実家の敷地内にあった祖父の蔵に、大量の、俗にいう「いらないもの」があるので、夏休みが暇なら処分を手伝ってほしいという連絡である。
ついでに、祖父が生前変わり者と称されて、地元の県庁勤めで堅実な祖母とヒリヒリの攻防戦をくりひろげながら集めたという「いらないもの」をのぞいてみたい気持ちは、子どもの頃からもっていた。
電車で二時間弱の車窓をぼんやり眺めて過ごし、汗をふきながら実家に到着したけれど、社会人三年目の朗報なき帰宅の両親との対面は、おたがいになんとなく居心地がわるく、「ただいま」「おかえり」のするりとしたやりとりだけで、かなたはすぐに蔵に向かった。
そして、クモの巣やらほこりやらと格闘しながら小一時間あちこちをひっくりかえして、発見したのが「風乱之法魔」だった。
くすんだ黄土色の細長いやかん――それが第一印象で、しばらくもてあそび、毛筆をみて、かなたはそれがようやくランプであることに気づいた。
アラビアンナイト的な、ふたがなければ、半ば上品にカレールーをライスにかけるための器具のようなランプだった。
なんとなく気になったので、かなたはランプをもちだし、こそこそと実家の二階の、かつての自分の部屋にもどった。
その間、祖父のことを少し考えた。祖父母の家は、かなたの実家から自転車で10分のところにあったが、自由人の祖父はめったにそこにはおらず、かなたは幼いときから数えるほどしか遭遇していない。
思い出のなかでは、祖父はいつもやさしくニコニコしていたように思うが、会話をした憶えはあまりなかった。
部屋のドアを閉め、窓から夕暮れの空をちら見したのち、かなたはカーテンをきっちり閉める。そしてベッドに腰かけ、ふたたびランプをみてみた。
これがほんとうに魔法のランプなのだとしたら、どうするべきか――答えはひとつである。
こすってみる、これしかない。
かなたは、左手のひらにランプをのせて、先端のほうを右手でひとさすりしてみた。
なにも起きなかったが、そこはかとない背徳感が募ってくる。
中学生の頃に友だちからまわってきた成人雑誌を部屋にもちこんだときのような警戒感で、かなたはなんとなく周囲を気にする。
すると、それが18禁をはじめて目の当たりにしたときのような気分の昂揚をもたらした。
かなたは二度、三度とランプの、やかんでいえばそそぎぐちの部分をさすってみる。
ふふ、自然と口から笑いがこぼれた。
同時に自分はなんでこんなまぬけなことをしているんだという悲壮感も湧いてきたが、それもまた自嘲につながり、かなたはランプをすりすりさすりながら、ふふふ、ふふふふと笑みをもらしつづけた。
すると突然――ものすごい勢いでランプの先端から蒸気のようなものが噴きだした。
かなたは「うわぁ!」と悲鳴をあげて両目を見開いたが、あたり一面ひろがって渦を巻く白煙に圧倒されるばかりで、身動きひとつとれない。
そして、さらに驚いたことに、白煙のなかから「げほ、ごほ」とむせこみながら、まんまる肥えた生きものが転がりでてきた。
かなたが呆気にとられていると、白煙は徐々に霧散していき、涙目になって嘔吐いているそいつは、ほどよいピクニックの丘のような腹をおさえながら、ゆっくりたちあがる。
「ぐはぁ、演出失敗……ていうか、こういうので驚かせようっていうところが、もう古いんだよ」
ねぇ? と話しかけてきたそれは、青いボディの大御所魔人か、おなじく真っ青のふところの深いネコ型ロボットといった親しみ満載で、かなたは呆然として、現実が受け入れられない。
冷静にみると、見た目と恰好だけでいえば、くしゃみをすればでてくる大魔王のほうが近い。
「ああ、なんだ、面白みのないところに呼びだされちゃったなぁ……うら若き女子の部屋とかがよかった」
「えっと……どちらさまでしょうか?」
あえて、ランプの精ですよね、と訊ねないのが、かなたの慎重なところである。
「ん?」
そいつは、かなたのほうをみて、目を点にする。
しばらく、みつめあってしまい、それはそれでたいそう気まずい。
「名まえか……じゃあ自己紹介――」
そいつはおもむろに、首をぐるりとまわし、おおげさに手をひろげ、片足を大きく踏みだして見得を切った。瞬間的に「よーっ」の謎のかけ声とツケが聞こえ、そいつの顔には隈取さえみえる。
「ぼく、怒雷門。で、どう?」
「ええ、そっちかよ。て、いうか、若干本家にかすってるし。なんで、かぶいた? できることが似てるんだとしても、そういうのはやめなよ」
かなたは両手をつきだす。
「え、だめ? それじゃあ……」
そいつは、短い腕を組んで考えこむと、なんともいえない不穏な流し目でかなたをみる。
「自慰兄ぃ、で、どう?」
「うわぁ――」
かなたは両手をあげる。
「大御所かよ。思慮がない。ていうか、ひびきだけならいっしょだし。大きなものを敵にまわすのか」
「なんだよ、怒りすぎだよ」
そいつは、クククとほくそ笑む。
「部屋に閉じこもって、ゆるんだフェイスでイケない気持ちになっていたのは、きみのほうじゃないか」
「ぎょええ!」
かなたはさらにのけぞる。
「のぞき見禁止、道徳的問題です。もういいよ、窓からでてくれ。ぼくから離れろ。そして、遠くへいってしまえ」
「まぁまぁ、落ち着いて」
すると、そいつは急に人なつっこい顔つきになる。
「過ぎたことは忘れよう。過ちのひとつやふたつ。とにかく、おいらの提案を聞きなさい」
両手をふりまわしていたかなたは、勢いをうしない、むっとする。
「ランプの精といえば、そう、おなじみのこれ――求めよ、さらば開かれん。さぁ、言ってごらん、願いごとをひとつ叶えよう!」
パンパーンと、バンザイをするランプの精の背後から大量のクラッカーが炸裂して部屋が散らかった。
静止しているかなたをみて、ランプの精がゆっくり手をおろす。
「どうしたんだい?」
「えっと、いろいろ疑問だらけだけど、とりあえず……願いごとはひとつなんだっけ?」
「ん? きみぐらいなら、それでいいじゃないの。尺の都合もある」
得意げに笑みをうかべるランプの精をみて、かなたは思いをめぐらす。
状況からみれば、まずまずありふれた展開だろう。
節々が気にかかるが、なあに、秒を争うカーチェイスで全員がしっかりシートベルトを締めている程度の違和感だ。そりゃそうだよねぇ、ぐらいのもの。
かなたのシンキングタイムに、ランプの精は両手を腰において、身体を左右にゆらしながら鼻歌をうたっている。
まさかの魚泥棒のどら猫を追いかける陽気なおばさんの歌だ。
さて、どうするべきか――かなたはあれこれ迷ったが、本来みっつのはずがひとつしかないのだから、相手をみて数を減らされたことに対する意趣返しが必要ではないかと思いたった。
そして、わりと良いアイデアな気がして、ふふふと不敵に笑う。
「よぉし、決まった! ぼくの願いは……」
かなたは右手のひとさし指をたてる。
「願いをあと1万回叶えて!」
ババーンとやってやった感を醸しだしたけれど、かなたの思惑むなしく、ランプの精は動きをとめて、少し目を細めただけだった。
「……それでいいの?」
「え、ええ、反則じゃなければ……」
「ふぅん、じゃあ、それでいいや」
ランプの精はつかつか部屋を横切り、押し入れを開ける。
そして、中身をぽいぽい放りだしながら、ふりむく。
「きみとは長いつきあいになりそうだから、ここに住まわせてもらうよ」
「ええ……それはちょっと」
かなたは面食らったけれど、まぁいいかと思い直す。
ランプの精とはいえ、願いを叶えてくれるらしい存在との同居だし、1万回を指定したのは自分なのだし。
やがて、かなたはウキウキしてきた。
夢も鼻の穴もふくらむ。
かなたは手始めに、ささいな願いを試してみた。おいしい晩ご飯、翌日を晴れに、両親から小言をいわれないなど。
ランプの精は、はいはーい、と叶えてくれたものの、よくよく考えると失敗だった。
どれもランプの精のおかげでそうなったか、わからないことばっかりだったのだ。
ついでに、冷静になって自分のみみっちぃところがいやになった。
結果、だんだんと思い切りがよくなった。
とりあえず、富豪になって会社勤めをやめた。
そこから、実家を拠点に祖父のような遊び人になって、47都道府県の旅にでて豪遊してみた。
どうでもいいようなものを集めてしまう気持ちも理解できた。
ランプの精のおかげでいきなり能力者になる、発見をする、達成する、入手するというのは禁じ手にした。
そうしないとあまりにつまらないからである。
欲望は果てしなく、人生をくりかえすことを憶えた。
要するに歳をとったら、また10代にもどってべつの人生を歩むのだ。
かなたは初恋を叶えて有頂天になったり、カーチェイスのような怒濤の大恋愛をしてみたり、たまには月夜の湖畔でそっと泣くような悲恋をしてみたり、両親に孫をみせてみたりもした。
各種スポーツや個人競技等で結果を出したり出さなかったりした。
常夏の国でごろごろ寝て過ごしてみたりもした。
便利な発明をしたり、昆虫や花や動物や鳥や海洋生物や細菌などの研究をして新種をみつけたり、数学や絵画や音楽や文学に入れこんで時間を忘れてみたりした。
全力で利他行動に取り組み、思いのほか誹られたりもした。
ときどき、禁じ手に走るズルもした。
ランプの精は、そんなかなたに意見をすることもなく、あんこの入った食べものが好きになったようで、ふところの深いネコ型ロボットさながらに、座蒲団をまくらに横になりながら食べてばかりいた。
すると、ふつうの人生観にも飽きてきた。
そもそも不可能を可能にすることもできるのだ。
ある程度の危険もありだろう。
死にそうになったら、ふりだしにもどることもできる。
そうして世界を漫遊して、あらゆる高山登頂をしたり、北極南極大冒険をしたり、大海溝潜りもした。宇宙探検にも着手して、月や火星の秘密も知ってしまった。いやはや。
やがて、時空を超えることをおぼえた。
そもそもなんでもありなのだ。
歴史上の偉人に出逢い、感心したり失望したりした。だれがどうとかはあえて言わない。
人類史をあゆんでみて、意外な事実を垣間見たり、世界史のあらゆる局面にたちあって、予想外の経験をした。これは、もう言葉にできない。
そして、はるか未来をのぞきにいって、愕然とした。ちょっと、だれも信じないだろう。
もう何周したか自分でもわからない――かなたはランプの魔力を満喫して、大勢の人に感謝されたり、大勢の人を悲嘆に暮れさせたり、思いつくものを手にしたり、思いつくかぎりのことを経験したりした。
そして、ふと気づいたら、夏の終わりの夕暮れの、自分の部屋にいた。
かなたはベッドの横に立っていた。
ランプの精を呼びだしたときと同じはずだが、なぜかまったく同じ感じがしなかった。
もう、したいことも、欲しいものもなかった。
ふとみると、ランプの精はうす暗い部屋のかたすみで、座蒲団をまくらに横になって、たい焼きをむしゃむしゃ食べている。
ああ、あの傑作ネコ型ロボットは、猫なのに好物がたい焼きではないのだなぁ……。
かなたはそんなことを思い、卑屈にふふと笑みをもらした。
窓の外で徐々に夕陽が沈み、つぶれた太陽からもたされる閃光が少しずつ小さくなって、部屋の四隅からどんどん暗くなってくる。
カナカナカナ――ひぐらしの声が遠くから聞こえた。カナカナカナカナ……。
かなたはひざを折って、正座し、うなだれる。
どうしたらいいかわからない。
ランプのせいで手に入れたものは、こんなふうな、ほの暗く、途方に暮れた、夏の終わりの長い黄昏だけだった。
「ねぇ、ランプの精……」
かなたは声をしぼりだす。
「ん?」
ランプの精は、口からたい焼きのしっぽをのぞかせながら、かなたをみる。
「あとひとつ叶えてくれたら、もうおしまいでいい……」
「へぇ……まだ4036個しか終えてないよ?」
「うん、もういいや――来たところに帰っていいよ……」
「そっか……じゃあ、最後の願いは?」
「とりあえず、ぐっすり眠りたい……」
ランプの精は、しっぽをパクっと呑みこむと立ちあがって、影が差したかなたの横顔に近寄る。
そして、やさしくニコニコしながらささやいたが、その声はもう、意識が遠のいていたかなたには聞こえなかった。
「おやすみ、いい夢を――」