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角のない英雄  作者: 尾崎 六二
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元軍人の二人

人を虐めている表現があります。

医療の知識に関しては全くの無知ですので、誤りがある可能性が大いにあります。

その辺りは、ああ素人が書いてるのか、ぐらいに思って流すか、別の方の作品へどうぞ。

上記の事が許容できる方は宜しくお願いします。


「澤村さん、結婚してないの」

「してないよ」

「あら、男前なのに」

「それだけじゃ、できないよ」

「否定しないのね」


そう言って美佐子さんはほろりと笑う。澤村も曖昧に笑って返した。

美佐子さんというのは、膝の手術後のため、リハビリを必要とする御年七十八歳のお婆さんである。決まった時間に毎日リハビリに来て、担当の理学療法士である澤村に毎日、「澤村さん、結婚してないの」と聞く。それに対して澤村も毎日同じように「してないよ」と答える。美佐子さんは少しボケているのだ。


「じゃあ、今日も頑張りましょうね」

「はい」


澤村はニコリとして話しかける。澤村のこの笑みは、人を安心させるような、信頼させるような、証明は出来ないがそう思わせる効力があった。

因みに彼はつい二か月前にこの病院に入社した所謂新人だが、そのニコニコする愛想のよさと、持ち前のコミュニケーション能力で、周りの同僚たちとも、患者たちともうまく付き合っている。元来の人当たりの良さ故に、嬉しくない頼みごとをされることも多いが、それも大概はけろりとこなしてしまう。精神力と体力、どちらも申し分ない男だった。当たり障りないと言えばそれまでだが、逆にそういうところが女性の好意を引くこともしばしばあった。

といったように、澤村はこと人付き合いに関しては得意だった。


そんな澤村にとって、医療の仕事は天職なのかもしれない。患者が元気を取り戻したり、ありがとう、と言ってもらえる度に、これほどやりがいのある仕事もそうそう無いな、と彼自身感じているし、周りも彼の働き振りを高く評価している。新人らしい些細なミスが目立つが、前向きに反省し、疲れていそうな時でも、患者の前ではそれをおくびにも出さず、やはり笑顔を絶やさない。しかし行き詰まれば他人に相談し、抱え込むこともない。若いのに大人びていると、頼もしく思われてすらいるのだ。


しかし、彼はそれ以外の事においてはやや杜撰であった。

患者相手の仕事は丁寧かつ慎重だが、書類仕事は苦手らしい。


「……」


澤村は右手に持った書類で顔を覆い、天を仰いだ。

その書類、右端に蛍光色の付箋で、『確認してもらう!』と書いてあった。自分の字で、手書きで。

その付箋通り、作成した書類を先輩の理学療法士である西という女性に確認してもらわなければならない。ああ、と小さく呟き、やっちまったよ、と心の中で吐き捨て、一先ず上体を元に戻した。しかし今日提出のこれを何とかせねばならぬ、と目の前に座る同僚に声をかけた。


「あの、西さんって今日出勤でしたっけ」

「え?うん。さっき見たけど、当分戻って来ないよ」

「どこでですか」

「ああ……精神科で」

「分かりました。ありがとうございます」


澤村はそう言って、書類を持って立ち上がった。じゃあ戻って来てから確認してもらおう、なんて悠長なことを言っていたら、西が戻って来た頃には絶対忘れている。西は忙しいかもしれないが、大して時間のかかることではないので、行った方がよい。精神科までは移動を憂うほどの遠さではないので、さっさと行くことにする。

そうと決まれば思い立ったが吉日、というより即時、といった具合で意気揚々と精神科まで出向こうとする澤村を、同僚は訝しげな眼で見て、声をかけた。


「……今行くの?」

「はい。後にすると忘れそうなので」

「それ急ぎ?」

「え、はい……」

「そ。なら行きな」







平日の病院は比較的空いていた。平日、というより、雨が降っているから、足が遠のいているのだろう。普段より静かで人が少ない。そのため、院内でも奥ばった場所に位置する精神科にもすばやくたどり着いた。澤村は初めてここへやって来たが、言うほど遠くないのでは、と感じる程だった。

とりあえず西の所在を聞こうと、ナースステーションを覗き込む。しかし、誰もいない。

ううん、そこまで自分で探さなきゃか、と一人ごちる。勝手にここのナースステーション入っちゃまずいよな、と考えている時だった。


「……?」


やたら騒がしい。


無論、ここは開放病棟なので、多少の話し声や物音は分かる。

しかし、『多少』とは言い難い音量と激しい物音だった。談笑というよりはバカ笑い、しかも大人数である。それと、水の音。それも、ぽたぽたというより、ジャージャー流すような、床に水が叩きつけられる音だ。澤村は突然手が震え始めた時の様な違和感を覚えた。

耳を澄ますと、病室の方から聞こえてくる。不穏だった。


何だって、精神科から、人を虐めているような声が聞こえるんだ。


居酒屋で下の話をしているサラリーマンがいるようだ。もしくは学生の集団いじめが行われている。一言で形容するなら、下品。遠くから聞いているだけなのに、もの凄く気持ちが悪い雰囲気だった。それ故、というか澤村の元来の性格上、その正体を知りたくなってしまった。

澤村は勘で、何やら良くないことが起こっているのを嗅ぎ分け、声の方へと音を消して歩いた。

相手に悟られぬように歩くのは得意だった。

誰かを大人数で虐めている、というのは完全に澤村の勘である。しかし違和感を感じてしまったものを放っても置けず、何も無いならそれでいい、と声のする方へ忍び寄った。


「は……」


しかし、ある病室の一つにたどり着くと、間抜けにも声を上げてしまった。その瞬間、白い眼差しが向けられた。


澤村の勘は正しかった。

開け放された病室には、看護師二名、医師三名、理学療法士一名と、ずぶ濡れの患者一名がいた。

その異様な光景を見て、声を上げない方がおかしい。

水の音は、『これ』だったのか。


「何、誰から聞いたの」


そこにいた眉間に皺を寄せた外科の医師が澤村に問う。澤村は一つ息を吐いて、その医師と目を合わせた。


「これ、何ですか」


本人が思っていたより低い声だった。その場にいる全員を撃ち殺すような声だった。ともすれば尋問のような声で、明らかに加害者の立場にある人間を圧した。


「『英雄狩り』だよ。それ以外何に見えるの」

「はい?」


澤村は顔を顰めた。

言っている意味が分からないのだ。それに何より、澤村は意味づけした弱いもの虐めが嫌いなのだ。

『英雄狩り』という言葉の意味は分からない。しかし、十七世紀頃の魔女狩りという風習の様な、取って付けたような正義感にも似た様な行為のことを指しているのだろうと、何となく分かるのだ。

冤罪と虐めの発端は、人それぞれの正義感から起こることがしばしばあるのだ。


澤村は加害者たちを押しのけて、被害者のもとへと行く。

一先ず持っていた書類を濡れないような場所に置き、ずぶ濡れになって蹲っている患者の隣にしゃがみ込んだ。澤村君、と後ろから声が聞こえた。西の声だった。

患者は澤村が隣に来ると、ビク、と肩を跳ねさせ、少し避けるような素振りを見せた。澤村は、そりゃあそうだろうな、と思って、少し口角を上げて、笑顔を浮かべた。


「大丈夫ですか?水をかけられる以外、何かされましたか?」

「…ら……い……」

「ん?」


患者は濡れた前髪の間から、睫の長い目を覗かせた。澤村の顔を見てその目を本当に少し見開き、紫色に変色した唇を僅かに動かした。

澤村は一先ず反応を返してくれることに安心し、少し耳を傾けた。聞き返すことに少し申し訳なく思いつつ、言葉を待っていると、今度は顔ごと澤村の方を見て、小さな声を上げた。


「さ、わむ、ら……しょう、い……」

「え……?」


さわむらしょうい。そう言わなかったか、と澤村は顔を上げた。一気に心臓が陸に打ち上げられたように跳ねた。

恐る恐るといった具合でその患者の顔を見る。顔色が悪く、濡れねずみになっている瘦せこけた体は、最後に見たときと変わりすぎて分からなかった。何なら、蹲っているからか、背が高めの女性かとも思っていたくらいだった。しかし、自分のことを確認する声と、その口元にある黒子が特徴的な顔を覚えていた。知り合い、という言葉では済まされないほどには仲がいい男だったのに、全く気付けなかった。


だって、あの頃はあんなにガタイがよかったのに。


「も、しかして……三神中尉?」


患者は小さく頷いた。澤村は驚きのあまり二の句が告げられなかった。

三神中尉、君がなぜ、と言葉を紡ごうとしたとき、思考が外部の言葉に遮られた。


「澤村君、知り合いなの……?」


怯えるような、疑うような声だった。その問いを皮切りに、加害者の数名が後ずさるような音が聞こえる。当たり前の反応なのかもしれない。

澤村は、医師や看護師たちに虐めもとい虐待の様なことをされていたのは、かつての友人であったことを知った。それならば、名も知らぬ医師がこの虐待行為を『英雄狩り』と言って誇らしげな顔をした理由が分かる。

この患者、否、澤村の友人の三神は、かつて『英雄』と呼ばれた男だったからだ。


澤村は、隠していても仕方ないと、鼻からため息をついて、三神の肩に手を置いた。それからゆっくりと振り向いて、三神を虐待していた人間たちを一人一人見つめた。みんな澤村の上司だし、先輩であった。しかし、そんなことで怯んで弱いもの虐めに加担するほど落ちぶれてはいないのだ。しかも、澤村にとって上司先輩など全く怖い対象ではない。


「知り合いというか、友人です」


澤村は言い切った。頭の隅では、ああ明日から俺の机なくなってるわ、とは思っていた。仕方のないことだった。この国で、三神の味方をすると、否定されることの方が多いのだ。

この発言で、澤村の立場が悪くなってしまうのが分かったのか、三神が澤村の後ろで息を吞んでいた。


「お、お前、軍人だったのか」


震える声で聞かれる。『英雄狩り』を誇らしげに言った外科医だった。

あんた、血も肉も骨も、何なら死体だって見たことあるだろうに、軍人はそんなに怖いんだな、と少し面白がるくらいの気持ちで、澤村は口を開いた。口角だけ他人に指で引っ張られたように上がっていた。その不気味な微笑が、花が開くときのような綻びにも見えた。


「はい。一年前までは」







澤村は掃除用具庫からバケツと水はき、さらには文化ちりとりを持ってきて、三神の病室に撒かれた水を回収し始めた。水はきで文化ちりとりに水を集め、文化ちりとりからバケツに水を移す。幸い床に広がっていた水は大した量ではないので、十リットルの容量を持つバケツ一つで事足りた。


「す……すまない……」

「いいや、気にしないで。こんな事どうって事ないから。あ、寒くない?毛布持ってこようか?」

「え、と……」


服を着替えた三神は椅子に座って、澤村のてきぱきした動きを見ていた。三神は肩にタオルをかけたまま、部屋の掃除をしようとしたが、澤村が「いいよ、座ってて。俺がやるから。あ、ベッドまで濡れてるのか……ごめん、ちょっと床の水から何とかするね。滑ったら大変だし。この椅子でいい?談話室の方が暖かいかも……」と捲し立てるので、三神は「ん……」と曖昧な返答をして、澤村がどこからか持ってきた椅子に大人しく座った。

今も、三神の一言に、すぐさま返答して気遣いまでしてくる澤村に、三神はどう返そうか、何から返そうか、冷や汗をかいて口ごもった。澤村が三神の言葉を待つように黙っているのが、より三神を焦らせた。


「大丈夫、ゆっくりでいいよ。とりあえず、寒くない?」

「ああ……寒くは、ない」

「そう。ごめんね、本当は先生とか看護師さん呼んだ方がいいんだろうけど、誰が信用出来て、誰が信用できないか、俺には分からないから」


三神はそう言って、粗方水がはけた床を雑巾で軽く拭き、よし、と言って部屋を見渡した。とりあえず歩き回ってみて、滑るよなところが無いのを確認し、息を吐く。さて、びしょ濡れになった布団はどうしようか、と考えあぐねていると、一人の看護師が、病室の外から控えめに声をかけてきた。


「三神さん……大丈夫ですか」

「……」

「あ……お掃除していただいたんですか。すみません」

「ああ、いえ。たまたま遭遇したからつい……」


三神は反応していなかった、というか反応できていなかったが、その看護師のことを少し落ち着いた目で見ていた。澤村もこの看護師は多少信頼できるかもしれない、と思って、話そうとした時、看護師は悠長な動きでベッドに目を向けた。


「お布団、また濡れちゃってますね。新しいの、今持ってきますね」


そう言って、看護師は布団を簡単に折りたたんで、持っていき、マットレスは濡れていなかったようで、そのまま置いて行った。眼鏡をかけている、小柄な女性だったが、難なく布団を持って行った。彼女が去って行った方を少し眺めて、果たして彼女は信頼できるのか、と難しそうな顔をした。


「樋山さんは、いつも、気にかけてくれる……」

「そうなの?」

「だから、あの人まで嫌がらせされてる……らしい」


三神は誰に言うでもないような声で言った。独り言だったのかもしれなかった。


樋山は早々に戻って来て、布団やシーツを手早くかけなおし、ため息のような、一息つくような息を吐きだした。それから三神の方を向いて、笑顔になった。無理して笑っているのが分かるような笑みだった。


「また、助けられなくてごめんなさい」


そう言って樋山は三神をベッドに誘導した。三神も大人しく座り直し、疲れた顔で、ありがとう、と呟いていた。樋山もまた疲れた顔で、中腰で三神と目線を合わせて話していた。

澤村は一先ずほっとした。樋山という看護師は三神の味方でいてくれるらしい。そう思うと、急に心臓がばくばくと言い始めた。

澤村自身も、随分と緊張状態にいたらしい。ふ、と息をついて、壁に寄り掛かった。


「あ」


そこで、棚の上に置いてある書類と目が合った。完全に忘れていた。

しかし、書類の提出の有無などもうどうでもいい。そんなもの、出したところで自分のこの身が好転する筈ないし、何なら明日から無職というのもあり得る。そう思うと、書類を作った苦労さえ憂いてしまう。


澤村は腕を組んだ。

それにしても、かつての戦友が、自分の勤める病院の精神科に入院しているなんて、知りもしなかった。しかもかつての逞しく、頼もしかった筋肉は削げ落ち、長めではあったものの切り揃えられていた髪も伸びきって、ゾッとするほど老け込んでいた。澤村と三神は両者とも二十三になる歳のはずだった。

澤村は何も言わずに、水が入ったバケツと書類を持って病室を後にした。外の排水溝に水を流して、バケツを元の場所に戻し、書類をシュレッダー機にかける。


やはり、元軍属という経歴は、洗っても落ちることはないのだな、と思い知った。









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