透明な鯨
「世界が終わる音なんだよ、これは」
小夜はマンションのベランダでバランタインファイネストを飲みながらそう言った。夕暮れだった。近くの雑木林からざわざわと鳴る鳥の声や虫の騒ぎとは別に、どこかから大きな音がたちのぼり、空を震わせていた。甲高くて、生物的なうねりをもった、地響き。いや、地面は震えてはいない。透明なシロナガスクジラが空を泳ぎ、ところかまわず求愛を叫んでいるような感じだった。僕がそう言うと、小夜は笑った。
「世界の終わりに星がやることは、求愛なんだね」
でも、死期が近い人って、セックスしたいと思うものかな。琥珀色の液体を流し込む、細い女性。からん、と氷が鳴る。ぐるん、と目玉が動く。僕を見つめる、真っ黒な目玉。
ぐうぅぅ。大気が揺らぐ。空が割れる。さきほどまで新品のコンタクトレンズみたいに澄んでいた透明な青空が、上質なウィスキーみたいに滑らかな琥珀に染まる。安っぽい星粒の単調な明かりが、まだ明るい空に点を描いている。高い、高い空。丸くて、つややかで、不純物のない空。世界の終わりを告げる音が、中空を漂う。膜を引きちぎる。
小夜は地図帳に目を落とした。いたるところに書き込まれたバツ印。赤ペンで刻まれた悲しい印。製紙工場、警察署、バイパス、小学校、丘、駅、団子屋、ゲームセンター。
「私の頭の中もね、この音と同じ。同じ耳鳴りが、ずっと続いているんだ。だから、長くないのかもね、私もさ」
左のこめかみをさすりながら、彼女は僕の目を見る。小夜は会話が詰まると、いつも僕の目を覗き込む。この目に映る自分自身をさがしもとめているように。だが、そこには何もありはしないのだ。僕は小夜が誰なのかを知らないし、小夜も僕が誰なのかを知らない。
「君は死ぬわけじゃない。死んだわけでもない。ただ、自分を無くしただけさ。財布を落としたのと同じ。見つかれば、あっという間に元通りさ」
「普通の人は、自分を落としたりはしない。財布は誰かが届けてくれる。誰かが盗んで、使ってくれる。でも、私は? どこにもいない。誰も覚えていない。どうして? 残された情報は、どれも私を真実に辿りつかせてくれない」
いくつかの携帯電話、何枚かの保険証、一冊の地図帳、三冊の日記。ばさばさと、テーブルに広げるのを、僕は黙って見つめる。
彼女が所持していた荷物。その中身は、非常にちぐはぐとしていた。大きなリュックの中、提示された情報。
十人以上の女性が、そこにはいた。どれが小夜なのか、未だにはっきりとはしていない。便宜上、最初に見つけた名前を彼女は名乗っているが、実際は何も分かってはいないのだ。
真夜中のバスターミナル。大雨の下。ベンチに座って、虚ろな目をしていた女を、僕は拾った。拾う気なんてなかった。見るからに危ない女だと本能が警戒していた。
僕は駅前のシティホテルに向かうところだった。雨で遅れた電車のせいで、チェックインがこんな時間になってしまった。駅前通りに、人影はない。車もない。
傘をさし、見ないふりをして、足早に行き過ぎた。
が、どうしても、気になってしまった。女は、よろよろと歩いてきた。こちらの方へ。怪我をしているわけではなさそうだった。歩き方がよく分からない、というような感じだった。
生まれたての猫を育てたことがあるけれど、彼女はそれに似ていた。
すがりつこうとしている、彼女には、何もないのではないか?
僕は彼女をベンチに座らせた。話を聞いた。が、何にも言わなかった。言えるはずがないのだ。彼女は本当にからっぽで、何も覚えていなかった。少しすると、言葉や人間らしさを思い出した。自分が誰なのか、だけは抜け落ちていた。
二人でホテルに泊まり、翌日僕は仕事をすませた。切符を二人分買い、僕のマンションへと帰った。
小夜のリュックには、複数の個人情報が残されていた。僕らはその分析からはじめた。全員、都道府県がバラバラだった。共通点もなかった。
地図帳には、ここからほど近い街にたくさんのマーキングがしてあった。けれど、小夜はその記号が何なのか、覚えていなかった。
日記帳は、いたって平凡な内容だった。平凡すぎて、どこに住む誰のものかも分からなかった。何を食べたとか、誰ちゃんが誰を好きになった、とか、何の役にも立たない。
次の夜、僕はリュックから生臭いにおいがすることに気が付いた。蒸し暑い深夜だった。小夜はぐっすりと眠っていた。僕はベランダに出て、リュックを調べた。隠し底があった。カッターナイフで切り開いた。そこには、真空パックされた、何かが詰まっていた。取り出すと、それは黒い汁にまみれている肉塊だった。袋を破ると、血のにおいがした。中身を引きずり出す。現れたのは、女性の左手だった。
振り返ると、小夜がカーテンの隙間からこちらを見つめていた。虚ろな目で。
「何か、思い出した?」
と、僕は聞いた。
「ううん、何にも」
と、小夜は言った。
「そうか。じゃあ、一緒に、寝ようか」
こくり、小夜は頷いた。僕を抱きしめて、小夜は眠った。彼女は長い間、静かに泣いていた。泣くことなんてないさ、と僕は言った。君がやったわけじゃない。君は、違う人間なのだから。髪を撫でて、抱き寄せる。
君はからっぽだ。僕の人生みたいにさ。だから、何が起きたって泣く必要はない。僕らは、何にだってなれるし、何色にだって染まれる。からっぽだからだ。僕らが今、一緒にいられることは、リスタートの合図みたいなものだ。さあ、ゆっくり眠ろう。また、明日。
「そうだね、お休み」
小夜は猫のお腹みたいに柔らかい声で言って、するりと眠りに落ちた。
翌日、嫌な予感は的中した。
地図帳に記された印。現地に赴くと、その周辺から、人間のパーツが出てきた。 製紙工場、警察署、バイパス、小学校、丘、駅、団子屋、ゲームセンター、その他、その他。
警察署と駅のパーツは、既に発見され、ニュースになっていた。それ以外に見つけた分は、僕らが回収し、持ち帰った。植え込みや、用水路、配電盤の中。印は大まかな位置にしかつけられていないから、発見出来なかったものも多々ある。腐敗がひどくなっているから、近いうちに続々と露見するだろう。何故、このようなことを小夜の本体はやってしまったのか?
一人の女性が細切れにされ、田舎町にばらまかれる。動機がよく分からなかった。一人が殺されているのなら、残りの女性たちは? それもまた、バラバラになって死んでいるのだろうか?
と、僕は小夜に聞いた。彼女は、真顔で首をふった。
「バラバラになったのは、彼女だけ。私に生意気だったから」
「覚えているのか?」
慌てて肩を掴む。が、小夜はすぐに虚ろな目をして、また、首をふった。
「分からない。勝手に喋った。誰かが」
それ以降、何を聞いても小夜は分からないを繰り返した。
マンションの片隅。真新しい冷蔵庫に、並べられた腐肉。切り分けられた人間。テレビをつけると、夕方のニュースはどこも肉片の話をしている。小夜はバランタインファイネストを飲み、僕はそれを見ながら終末音を聴いている。空が震えている。街中が悲鳴に包まれている。透明な鯨が、次第に巨大になっていく。飛翔し、悠然と空を切り、求愛している。誰か、気付いてくれ、僕は、私は、ここにいるのだ、誰か、知ってくれ、僕は、私は、生きているのだ。ごうぅぅぅ。見えない海水が振動し、夕暮れの橙色を滲ませる。下らない街並みが萎縮していく。この目に映る何もかもは、金魚鉢の中に作られたジオラマのようだ。
「君は、誰なのだろうね」
チーズをかじりながら、僕は呟く。程よく冷えた風が、皮膚に浮かぶ汗を連れ去る。ベランダから見下ろす歩道。小さな人間たちが、奇妙な音を恐ろしがって騒いでいる。一体、この大きな唸りは、どこからやってくるのか、あれこれと想像をしている。作り物の人形みたいだ。台本通りに動き、走る玩具。
「簡単な話だよ。世界が終わる音なんてさ。いたるところで鳴っているんだ。何も今夜、ここが特別なんじゃない。僕の中で、君の中で、いつだって鳴いているんだ。死ねば終わり。死なんて、空気中にたくさん溶けている。アスファルトからたちのぼる陽炎、プールに煌めく陽射し、放課後の教室、どこにだって、死は混ざっている。僕らが、耳を閉ざしていただけだ。いつだって鳴っているんだ、この音は。僕らは鯨の腹の中にいる。鯨が鳴いて、鯨が死ねば、みんなおしまいさ」
求愛の歌。空を割る音。その怒濤に混じって、サイレンが鳴り響く。小夜は、虚ろな目で僕を見る。
「君は、たくさん殺してきた。理由は、何だろうね。君には分からないだろう。僕にも分からない。僕にも、何もないんだ。分かる? 何にもなかったんだ。分かるか? 何にもないってことが。僕も遠い昔、人を殺したことがある。特に恨みがあったわけじゃない。すれちがう時に挨拶をしたことのあるおばさんだった。僕は友達と二人でその日、道を歩いていた。おばさんは友達に挨拶をした。僕には気付いていなかった。友達と親しく話をしていた。だから、僕は次の日、おばさんを切り刻んだ。覚えてほしくてさ。仲良くしたかったんだ。なのに、おばさんは僕に恐怖して、自分を捨てたんだ。泡を吹いて、記憶を飛ばして。僕はおばさんの恐怖が、欲しかったのに。怯えるその人の記憶の中にだけ、人間らしさが、絆があると思ったんだ。なのに、おばさんは僕を忘れた。廃人になった。純粋なからっぽ。ちぎれかけた手足を見て、ズタズタになった自分の腹を見て、彼女は頭がおかしくなったんだ。もう、星には不要な生き物だ。僕はおばさんを殺した。そうしないと、何かが途切れてしまう気がして。君には何にもない。僕よりも。だから、何にもないことの辛ささえ、君にはない」
小夜は、震えている僕に、ささやかな笑顔を見せる。
「君は、たくさん殺してきた。理由は、君にも分からない。僕にも分からない。結局、誰も、何にも、手に入りはしなかった。僕は疲れた。誰からも干渉されずに、静かに生きていきたいんだ。だから、僕がやるべきことは一つだ。賢い君なら、分かるね?」
「分からないよ」
真っ白い手で前髪をかきあげて、小夜は言う。
「私には、何も分からないよ。君が死にたがっていることは分かるけれど。でもね。何にもなかったら、人は死ななければならないの?」
意地悪くこちらを睨む女。轟音が、近付いてくる。透明な鯨が、空を覆い尽くす。窓ガラスがびりびりと震える。
「だったら、何故、君は私を拾ったの。何故、私を捨てないの。何故、そんな下らない話をするの?」
赤黒く錆びた包丁の先を、琥珀色の液体に漬け込んで、小夜は氷をかき混ぜていく。からからから。
「私の中に何があるのかを、見たいんでしょう。君がたどり着けなかった世界を、私の中身が知っているから。そう、感じたから」
刃先を僕に向けて、殺意を突き付けてくる。
「君の中に何があるのかを、知りたいんでしょう。生きても生きても、つまらないから。誰かが愛してくれるわけじゃないし、愛し方も知らないから。ううん、本当はね。君が知らないのは、愛され方よ」
ああ、そうか。僕は瞬時に、理解する。「この子は、からっぽなのではない、この子の中身は、一人じゃない」のだと。
「だから、君は私を選んだのよ」
ゆるやかに、音がやむ。やんでいく。鯨が小さくなり、ベランダを行き過ぎ、遠ざかり、大気が穏やかに変わる。
星が、終わらない。緊張感が失せる。小夜は虚ろな目で、しかし微笑んでいて。わずかに汗ばんだ額に、前髪がくっついていて。
死期が遠ざかるのならば、すべきことは一つしかなかった。小夜は僕の手を引いて、寝室へと歩き出した。生臭い肉のにおいがする寝室。
これが誰で、僕が誰でも、良いじゃないか。透明な人間は、誰にだってなれるし、どこにだって行ける。あの鯨のように。 求愛は、生きる為にすべきで、生きていくものがすべきなのだ。生きたうしろに、死は転がるのだ。
「明日になったら、切符を買おう」
裸の小夜を抱きしめながら、僕は言った。
「どこに行くの?」
「生臭くないところ」
僕らは笑った。
玄関のチャイムが、ピンポーンと鳴った。それは鳴りやまなかった。終末を告げる音を聞きながら、僕らは互いを求め続けた。