10.令嬢? 公爵夫人だぞ――SIDEレオ
彼女はなんと言った? この屋敷から逃げる、だと……?!
聞かれたと慌てる様子から、聞き間違いではないと判断した。ならば、ローザリンデに仕えると誓った言葉を違える気か。まさか、妻も一緒に?
嫌な予想が頭をよぎり、首を横に振った。そんなことは絶対に許さない。問いただそうとしたその時、ノックの音が響いた。
「旦那様」
騎士の呼びかけを無視できず、苛立ちながらドアへ向かった。ローザリンデが私室として使う部屋に、無闇に男を入れるわけにいかない。ましてや彼女は眠っているのだ。そんな無防備な姿を、誰彼構わず披露する趣味はなかった。
「なんだ?」
「地下牢に入れた執事殿が、旦那様にお話がある、と」
「わかった」
ちらりと部屋を振り返る。眠るローザリンデの傍らで、表情を曇らせて看病する専属侍女。アンネは足を痛めていた。部屋は二階だが、事実上三階分の高さがある。窓から逃げられる心配はない。
「ローザリンデの警護を頼む。侍女も足を痛めているから、部屋から出さないように」
「かしこまりました」
騎士が一礼して扉の前に立つ。女性ばかりの部屋を警護するのだから、当然だった。もう一人交代用の騎士を手配し、地下牢へ閉じ込めた執事の元へ向かった。知る限り、物心ついた頃から屋敷にいる忠誠心ある男だ。他家から引き抜きがかかるほど有能な執事が、何を話すのか。
そもそも侍女の証言だけで閉じ込めたのだから、不満を口にするかも知れない。だが、あの時の侍女の表情や怯えは本物だった。ローザリンデが階段から落ちた現場に居合わせた彼女が、危険を訴えるなら無視は出来ない。
地下牢の一室で、執事は礼儀正しく頭を下げた。それは執務室へ書類を持って来た時のようで、彼が裏切った可能性を否定する光景に見える。間にある鉄格子だけが、違和感を訴えた。
「コンラート、話せ。何があった」
「あの令嬢は旦那様に相応しくありません。私が大切にお育てした旦那様にあのような失礼を! 許せませんでした」
語り出した執事の言葉に、驚きと怒りが混じって頭が煮えたぎる。何を聞いているのか、だんだん理解できなくなった。今、令嬢と呼んだのか? 我が妻で、リヒテンシュタイン公爵夫人となったローザリンデを?
俺が妻に拒まれたのは、前世を含む俺の至らなさだ。信用されなくて当然で、これから償うつもりでいる。それを……自分が育てた主人を馬鹿にされたから、その主人が選んだ妻を蔑ろにする? 使用人が、何を言っているのか。
彼女は名門アウエンミュラーの血を引く直系の令嬢だった。令嬢と呼称したなら、それに相応しい扱いをすべきだ。ましてや主家の女主人だぞ。握り締めた拳が震える。爪が手のひらに食い込んだ。
黙って聞いているように見えるのだろう。コンラートの暴言は止まらない。死ねばいいと発言した瞬間、牢の鉄格子を勢い良く叩いた。びくりと動きを止めたコンラートをじろりと睨む。
「コンラートを処分しろ。罪は公爵夫人への侮辱と殺害未遂、それから公爵である俺への不服従だ」
命乞いか、何かを叫ぶコンラートの声が届く。だが言葉は一切聞こえなかった。あれは獣だ。いきなり牙を剥いて襲う敵を、人間扱いする気はなかった。これだけの罪状だ、来世まで償え。