六章 冬の洞に姫君をお迎えすること
それから数日後の未明、クルキルは一人、夕暮れの昏い道を足早に歩いていた。クルキルは道すがらに情報を集めるため、一行から先行きしていた。
クルキルは今、北洋街道を外れてトスカル州の脇街道を進んでいる。辺りはアカド氏やフォージャー氏といった古代の名族に縁の社や塚が多い。旧神の石碑を頼りに森の中を進むと、急に開けた場所に出た。
この頃、ソルダート伯とカノン伯の睨み合いが続く中、ソルダート伯は新たにメセニアに城を築き始めていた。クルキルは遊女相手に紅を売る行商人に化けて城下に入ると、築城現場をぐるりと回って人足や職人に混じって女郎屋に入った。
框を上がって捥りの番台の奥に回ると、長い白髪のエルフが一人、気怠げに座って白湯で薄めた古酒を飲んでいる。
「お久しゅうございます。レッド様」
唇を動かさずに話しかけた。
エルフが無表情な顔を上げた。
「レッド様とあろう者が、このような所で脂粉に塗れておられるとは」
このだらしなく濁り酒を嘗めているエルフこそ、天下名誉の奸と噂も高いゴードン・レッドである。
「儂ももう齢でな。きつい役目はもう勘弁じゃ。ここは楽なものよ、こうして座って曲者を見張っておれば良いからの」
クルキルはレッドの前に腰を下ろし、背負い櫃を横に置いた。
「汝、カノン伯爵に雇われ、メセニアを探りに参ったか」
「やつがれを討ちまするか」
穏やかな笑顔でクルキルが答えた。
乱波の話法は独特である。店の遊女も客たちも二人が何を話しているのか、何故か耳が滑って聞き取れない。ただ、居続けの客と行商人が気易く世間話しているようにしか見えなかった。
「ソルダートの殿にそこまでする義理はない。汝が何もせずば、見逃してやろう」
塗りの剥げた茶碗をクルキルの前に置くと、瓶子を取って琥珀色の液体を注いだ。
「有難く存じ申す」
それから二人は、二年前に都で別れた後、どのように生きてきたか、酒を酌み交わして語り合った。
「ふむ、汝はあのラミレスに雇われておったか」
今はラミレスの指図で、セレネイアに反目して取り潰されたさる高家に縁の者をキタンに送り届ける途中と、クルキルは任務の詳細を誤魔化して伝えた。
「ラミレス殿を御存知で」
「ライン大公が都に放った間者であろ」
このエルフは、一介の乱波でありながら、森の民であるエの一族の氏長者でもある異色の人物だった。諸国を巡って乱波働きする落ち葉のような身の上ながら、諸国の噂や一族の動きを把握しているという恐るべき能力の持ち主である。
「だが、従順に役割をこなす振りをしながら、いずれ独り立ちを企み、此度の争乱を引き起こした」
「なんと、ライン大公の手勢が姫を匿い離宮に立て籠もったは、ラミレスの差し金と申されるか」
レッドはしれしれと笑い、
「汝も彼の者の野心を薄々は察しておったはず。しこうして、その切っ掛けを作ったは汝らの存在よ」
どう答えてよいのかわからず、クルキルは椀の酒を嘗めた。
「汝らは、ラミレスにとって便利極まりない道具。恐らく汝らの働き振りを見て使えると知り、ラミレスは己れの野望を膨らませた。大きな賭けに出る気になったのであろう」
クルキルは無言でエルフの目を見つめた。
「だが、賽の目はかなり悪いようであるな」
レッドがにたりと笑って碗を傾けた。
「ことを急ぎすぎて思うように味方は集まらず、離宮に雪隠詰めになるとは」
「そのようでござるな」
「汝もラミレスの下で働いておる限り、これよりは更に苦難の歩みとなろう。どうじゃ、彼奴と縁を切るなら、ここでの仕事を世話してやってもよい」
「まだ一働き残ってござる。前恩賞も頂いてござれば」
「乱波ずれのくせに義理堅いことよ」
レッドは薄く笑って手近な木切れを取ると、小指の先を噛み切ってその血でさらさらと螺旋模様を描いた。
「何度か共に働いた汝が敢えて茨の道を行くならば、もう止めはせぬ。これはせめてもの餞。何かあれば、これを持って街道筋カケイの社を訪れるがよい。我が下知と言えば多少の無理は聞いてくれる」
「かたじけのう存じます」
クルキルは両手を押し抱いて受け取ると、それを懐に収めた。
「我らの先祖は流浪の民なれど、螺旋の旗を立てて黒き森を抜け、ニイルの水を押し渡ってこの地に至った。かつてこの旗下に集った我ら部族連に連なる者、必ずやこの螺旋の助けがある」
そう言って酒の残りを呷った。
ゆるゆると進むアニーナ姫一行が、ハシーバシュに入ったのは、霜月の二十四日のことだった。
この地は長く、帝国でも有数の家格であるメナシス公爵家の所領だった。メナシス家は一時は四州の領主を兼ね、大いに威を振るっていたが、度重なる争乱で各地の代官や土豪に支配権を奪われ、今は見る影もない。
ハシーバシュ州は一応、シャラン城に居を構えるギケイ・メナシスが辛うじて成敗を行っていたが、州東部の代官エルツ氏の勢い侮り難く、また、国人の中には隣のカルカニア州のシレイル伯に誼を通じる者もいて、収拾のつかない状況が生まれていた。
一行は、往還を東へ進んでいた。目標はそこから二里程北東に寄ったナメリヤ城の城下である。
三百年程前からこの辺りに蟠踞する在郷騎士たちが築いた、情けないほどに小さな城だが油断はならない。
かつて、シレイル伯爵家の当主タイレルの父マクレル・シレイルは、城に連なる台地の端で討たれた。その見すぼらしい小城の武者たちが放った征矢によって、呆気なく死んだのである。
近年まで続いたカルカニアの混乱は、このマクレルの戦死が切っ掛けである。
カルカニアの人間にとって忌まわしいナメリヤ城は、今も反シレイルの拠点になっている。メナシス公家の被官アルム・ハイトという者が城番となり、しきりに兵を集めているという噂であった。
何故、一行がそんな物騒な所を目指しているかというと、単純に、宿泊できる場所がないからである。路上に盗賊山賊が跳梁している中、姫を連れての野宿は論外、報謝宿や教会の軒を借りるのも危うい。城下の宿に泊まるのが最も安全なのである。もうすぐ日が落ちそうな中、一行が足早に進んでいるのもこうした事情からだった。
海辺の街道から道を逸れて野の小道を歩いているうちに、とうとう日が傾いた。誰彼刻である。この時代、妖魔が遊ぶ時刻とされている。
一面は荒蕪地だ。水気の乏しい台地で水田はない。この辺りが広く開墾されるのは、これから五百年程後になってからである。
しかし、見渡すとあちこちに集落らしい灯が瞬いている。
「このような土地にも人の営みがあるのですね」
シーゲルの背に揺られながら、姫が感動したように呟いた。
一行は、海辺からナメリヤ城までの道を一気に駆けた。
城に近づく頃には、道の両側もすっかり昏くなった。
「あれは村ではないのか」
シーゲルが指さした。
「寄ってみようか」
スウがちらつく灯を見ながら言った。
「うむ、ここにいて夜盗に当たっても詰まらぬ。あそこに参ってみよう」
宿が見つかるかもしれぬとシグルスが和した。
夜風が微かに吹き始めている。その風に背中を押されるように、一行は灯に向かって歩き出した。
ナメリヤという土地は、起伏の大きな場所にある。地盤が軟らかく、風の浸食でできた谷間が幾つもある。その谷の一つに目を凝らすと、意外にも大勢の人が群がっていた。松明が行き交い、粗末な小屋が並んでいた。
「村でござるか」
アツマが灯に目を細めて言った。
「いや、あれは夜市だな。お嬢様、御注意を」
すぐシーゲルが訂正し、背負子に坐る姫に小さく声をかけた。
近づくと、確かに人々が声を潜め、路上に並べられた物の品定めをしている。
一行も店々を覗いて回った。使い込まれた塗碗、蓋のない葛籠、薄汚れた小袖や反物などが並んでいる。野菜や米といった食べ物の類はほとんどなかった。
夜市は盗っ人市だ。来歴不詳の物ばかり扱われる。盗品、戦場での略奪品、時には何処からか拐してきた女子供も売買される。
「そこを行く御牢人、買い召せ、召されよ」
当て所もなく歩いていると、声をかけられた。茶色の髪を鶏冠のように棟刈りしたドワーフだった。彼の前には、威毛の千切れた具足や籠手が置かれている。
「買わんかね、今なら安くしておくぞな」
「今なら、とは」
ジャッケルの問いに、
「お前さん方、この先の」
ドワーフが暗がりに顎をしゃくった。
「ナメリヤの城に雇われたのであろう。物具を持たぬ青葉者は、安う扱われるぞ」
青葉者とは青歯者とも書く。数年前から、最下級の雑兵を指す言葉として流行っていた。
「これから人が集まってくる。五更過ぎには買い手数多で、物具は倍の値がつく」
「では買おう」
ジャッケルは塗りの剥げた柄の小薙刀を取った。
「お目が高い。それは五十文だ。買い得だぞ。州境いの小競り合いで、シレイル方のヒュウマ某から奪った品でござる」
ヒュウマ氏はシレイル領でも名族である。このような駄物を所持するはずもないが、下らぬ由緒付けするところが夜市の商人らしい。
「わかった」
苦笑しながらジャッケルは五十文払い、錆の浮いた刃先を藁で包んだ。
シグルスも、刃渡り八寸程の峰の厚い鎧通しを同じ価で贖うと、嬉しそうに笈に放り込んだ。
一行は再び市を歩く。店々の角ごとに篝が燃やされ、時折、火守の子童が薪を投げ込んでいく。余程吟味された薪を使っているのか、全く爆ぜない。
炎は火の粉も吹き上げない。風が寄せるたびにゆらゆらと茜色の舌先を宙に踊らせている。
「どうも奇妙だな」
ジャッケルがニドに顔を寄せて呟いた。
「あい、妖の臭いがいたします」
「なんだと」
「お前様、お静かに。妾にお任せください」
澄ました顔でニドが答えた。
そのうちに、どこからか小さな影が一行に近寄ってきた。見れば、まだ足許も覚束ぬ切髪の幼女だ。それが、先頭のシグルスの袖口を握り、しきりに引く。
「童よ、いかがした」
親にはぐれたのかとシグルスが尋ねるが、幼女は頭を大きく振って、なおも袖を引いた。
「来よと申しておるのではござらぬか」
アツマが言うと、今度は何度も大きく頷いた。
「どうする」
胡乱な顔でシーゲルが訊いた。
「変な臭いはしないよ。行ってみようよ」
スウが皆を促した。ニドを見ると、幼女を見つめて優しく微笑んでいる。
「わかった、案内してくれ」
幼女は夜目が利くらしい。迷うことなく暗がりの中に一行を引いていった。
そこに高さ一尺程の石の祠がある。漸くそこで幼女は袖を離し、祠の口を覗き込んだとみるや、ぽんと飛び込んだ。自分の身体よりずっと小さな石の穴へ入ってしまったのだ。
「やはり幻術か」
いくら油断していたとはいえ、ジャッケルもそこまで見れば、己れが化かされていることくらいわかる。
「何者だ」
アツマが前に出ると、太刀の柄に手をかけ、抜き打ちの構えを取った。
「入られよ」
祠の中から聞き覚えのあるぼそぼそ声が響いた。
ニドがすたすたと祠に近寄ると、
「おい」
とジャッケルが止める暇もなく、するりと穴の中へ入ってしまった。
「入っても大丈夫だよ」
スウが後に続いて穴に消えた。
残った者たちが困惑顔で見合わせていると、
「お前様も早う」
中からニドの声がする。
一同、意を決して次々に穴の口へ身を乗り込ませた。
意外なほどするりと入れた。中は外と変わらない。草叢に筵が敷かれていて、ニドとスウと一緒に、クルキルが坐っていた。先の幼女が、クルキルの膝に仔猫のように纏わりついている。
ジャッケルは背後を振り返った。石の祠の脇に菰が一枚掛け渡されている。何のことはない。幼女も一行も、そこを潜って祠の裏に出たに過ぎない。
「こちらへ」
クルキルが坐ったまま、提下の酒を勧めた。一同が恐る恐る薄縁に車座に坐った。姫もシグルスとアツマに手を取られて、シーゲルの隣に腰を降ろした。
盃に注がれた酒は温められていたが、周囲に火の気はない。
(狐が人を馬鹿すのと同じ理か)
と思って躊躇っていると、
「本物の酒じゃ。小便などではない」
クルキルが盃を傾け、ごくりと一口飲んだ。それを見て一同は恐る恐る盃に口をつけた。
「その娘はどうしたのです」
姫が訝しげにゴブリンの膝元で甘える幼女に顔を向けた。
「そこな夜市で贖い申しました」
近くの村から子売りに来た貧しい親がいたと言う。
「非情な親元にいるより、それがしの手許に置いたほうが、なんぼか幸せと思うたまで」
「よう懐いておる。しかし不憫な」
シーゲルが呻いた。クルキルは、この娘に乱波の技を仕込み、末は歩き巫女か辻女にでもする積りなのだろう。
「幼い頃から手に職をつけてやるのが、この子のためでもあろう」
「偸盗や目眩ましの技を、まるで機織か染め技でも教えるようにいう。業の深いことよ」
クルキルが目に皺を寄せて、シーゲルを睨んだ。
「何を考え違いしておるか知らぬが、儂の弟子にする積りはない。この先の、縁のある聖堂に預けるだけだ。由緒正しい本格の社である故、いずれは真っ当な巫女になるか、近くの商家に嫁入りでもするあろう」
「では、この子を奴婢にするわけではないのですね」
姫が確かめるように尋ねた。
「このような幼子をキタンまで連れて行くなど烏滸の沙汰でござる。それに」
クルキルは眠りはじめた幼女の頭を優しく撫でた。
「我らのような化生を作るなど御免蒙る」
「目眩ましといえば」
シグルスが盃に酒を足しながら言った。
「あのような真似はもう止めてくれい」
石祠の件のことである。
「許せ。夜市には化生が混じっておった故、ああして声をかけるしかなかった。誰にも気取られたくなかったからの」
「化生だと」
ジャッケルがぴくりと眉を上げた。
「どんな奴でござるか」
クルキルが微かに眉を顰めた。どう答えていいものか迷ってるふうであったが、
「どんな奴といっても、わぬしらは一度会うているはず」
「はて」
「ほれ、夜市で待ち具足を売っている、益体もないドワーフ」
あっと気づいて手にした小薙刀を見た。藁に包んだただの枯れ木である。シグルスもはっとして笈を開いて鎧通しを引き出すと、それも焚火に使う木の枝だった。
「銭五十文、騙り取られましたね」
ニドが言った。
「ニド、気づいていたのか」
「あい」
「なら何故あのときに」
言ってくれなかったかと詰るジャッケルに、ニドは涼しい顔で、
「あの場で騒ぎを起こせば姫様の身に何かあるかもしれず。申し訳ありませぬ」
僅かに済まなさそうな顔をして微笑んだ。
「ええい、このシグルスとあろう者が、こんな田舎の幻術者に誑かされるとは」
シグルスが忌々し気に手にした枝を折った。
一同の間で小さく笑い声が起こった。
「それで、何故にここで待っていたのだ。まさか目眩ましの術を誇るためではあるまい」
シーゲルが火打石で紙巻に火を点けながら訊いた。
「うむ」
クルキルは暫し俯いていたが、小さく嘆息して口を開いた。
「五日前、ナルコの離宮が陥ちた」
「なんと」
「誰に聞いた」
「城下の小荷駄屋におった地元の乱波からだ。まず間違いあるまい」
「それで、どうなったのでござる」
シグルスの問いに、
「離宮の端々に至るまで兵火がかかり、御殿も焼亡」
「それで、ライン大公殿は如何なさいました」
白い顔が一層蒼ざめたアニーナ姫が尋ねた。
「大公は奥御殿前で御生害。離宮の者は撫で切りでござる」
フレイ帝の発した鏖殺令に沿って、皇軍は老人子供のみならず、馬や犬猫の類も許さず、一千余の首を杭に刺して離宮の周りに晒した。
「ラミレス殿は」
顔色も変えずにシーゲルが問うた。
「恐らくは、大公と仲良く辻に首を並べておろう」
「そんな」
姫が顔を覆って肩を震わせた。
「まあ落ち着かれなされ」
ここの名物でござるとクルキルが笈から取り出した笹包みを開いて置いた。麦粉に飴と白味噌を練り合わせた焼き菓子だ。香ばしい匂いが漂った。
「まだ続きがござる」
クルキルが菓子を一口齧った。
姫の首級がないことを知ったフレイ帝は、思わぬ不手際に激怒して、諸将を呼びつけて難詰した。アニーナの首を挙げずば都に帰らぬと言って、直ちに各地の諸侯に姫の追討令を発し、それから憂さ晴らしと称してまたしても愛妾と深酒に入ったという。
「姫が離宮を落ちられたことを悟られたか」
「既にハシーバシュとカルカニアの境目関所の番所にはシレイル伯の軍兵が充満している。このまま関所に近づくのは危うい」
「ハシーバシュに入ったときは、そう厳重ではなかったが」
シーゲルの言葉をクルキルが鼻で笑って盃に酒を注ぎ足した。
「この地は長く領主と国人の諍いが続いておる。関所も関銭稼ぎを除けば笊よ」
だが、カルカニアは違う。当主タイレルの強力な支配が州の隅々まで及んでいる。
「では、どうするのだ」
一同は鳩首して唸り声を上げた。
「あの」
姫の声に一同が振り向いた。
「もうよろしいです。私を皇帝に引き渡し、皆さんは好きなようになさってください」
立ち上がった姫が、思い詰めた顔で言う。
「これ以上、私のために誰かが死ぬことには耐えられません」
皆が姫の顔を見上げ、呆けたように凝っと見つめた。
「ここまで本当に良くしてもらいました。道中、とても楽しうございましたよ」
目頭が熱くなり、姫の眼から泪が零れ落ちる。
「あの、姫様」
感極まった姫に、シグルスがおずおずと声をかけた。
「私を差し出せば、皆さんにはきっと沢山の褒美が」
「いえ、申し訳ありませぬが、まずは坐られませ。少し黙っていていただけまいか」
「え」
「今、姫を無事キタンまでお届けする算段を考えておるのです」
「私の言葉を聞いていなかったのですか」
「聞いておりましたとも。ですから、少しお静かに」
「ですから、もういいのです」
「我らを雇いしは、ギャン・モラヌス・ラミレス殿。姫ではござらぬ」
アツマがぼそりと言った。
「既に前恩賞を頂いてござる。姫の御意向とは関わりないこと」
「儂らとて、冥府まで断りに出向くことは出来ぬからのう」
シーゲルの言葉に皆が小さく笑った。
呆然とする姫を余所に、一同は軍議に戻った。
「抜け道はないのか」
「脇街道にまで見張りの目は届いておろう。無理だな」
「されば海路は」
「港も当然監視されておるわな。それに冬の北洋だ。船に乗れても無事に辿り着けるとは思えぬ」
「姫は天下無双と謳われた美貌、隠し通すのは難しい」
「ねえ、ならば姫様に男子の格好をさせればどうかな」
菓子を頬張りながらスウが言った。
その言葉に一同が姫を見た。
突然の注目に、姫は当惑して眼を泳がせた。だが、すぐに、
「無理でござるな」
「うむ、無理だ。他の手を考えなければ」
皆が関心の失せた顔で姫から視線を反らせた。
「どうして駄目なのよ」
スウが不機嫌そうに零した。
「畏れながら姫の胸は晒をいくらきつう締めてもその膨らみを隠しきれぬ。腰のくびれは袴の腰板が尻の上に乗る。そもそも、姫の顔を見よ。お髪を切った程度では男には化けられぬわ」
シグルスがいちいち説明し、姫が赤面した。
「じゃあどうするのよ」
スウがむっとして紙巻の煙を吹いた。
「手はある」
クルキルが最後の焼き菓子をぽいと口に放り込むと、
「このまま北洋街道を北へ三里ほど行くと、カケイの下社家がある。そこで支度を整える」
「支度とは」
「山を駆けるのだ」
「無茶だ。もうすぐ山は雪に覆われる。冬の山を駆けられると思うか」
「山中に冬籠りして、雪解けとともに山を駆けてキタンまで参る。春になれば姫捜索の網も弛んでいるであろう」
「それほど都合よくいくのか」
疑わし気にジャッケルが訊いた。
「他に良い手があれば聞こう」
「ニドはどう思う」
ジャッケルがニドに振り向いた。
「お前様の良いように」
ニドが落ち着いた表情で静かに微笑んだ。
次の朝、山の熊笹を被って仮眠を取った一行は、まだ日も高くないうちにナメリヤの城下に入った。クルキルが買ったという幼女は、シーゲルに背負われた姫の膝で大人しくしている。
「なんとも可愛い子ですこと。名は何と言いますか」
姫が幼女と手遊びしながら、クルキルに尋ねた。
「聞いておりませぬ」
「なら名前を付けてあげなければ」
「お止めなさるのが御料簡。情が沸きまするぞ」
まるで拾ってきた仔猫に接するようにクルキルが言った。
冬の日差しの中、馬借が辻の中程で喉を震わせ馬子唄を歌っている。この町の宿屋の八割が遊女を抱え、多くが美形で有名なエルフの女。町は殷賑を極めていた。
一行はそのまま大路を抜け、町外れの大きな茅葺屋根の建物に入った。
堀の橋を渡り、矢禦ぎの土塁裏に回ると、向こうに賄いの水場があり、手伝いの女たちが忙しそうに動いていた。
「お頼み申す」
クルキルが声を掛けると、
「どなた様で」
巫女の姿をした狐面をしたビーストマンの娘が、式台から顔を強張らせて現れた。
「御詣りならば表にお越しくださいませ」
一行は参拝旅の恰好をしたままだ。裏口に現れるなど、怪しげな者と思われても仕方がない。
「御当主様に御目通りを願いたく罷り越しました。これなるはエの森の家に縁の者でござる」
「名を伺いましょう」
「今はガウロイのクルキルと名乗ってござる」
そう言って、懐から木片を差し出した。赤黒い線で何やら模様が描かれている。
木片を受け取った巫女は、解せぬ顔で奥に引っ込んだ。
一同は、脇玄関の一段下がった板敷に座った。
「暦売りとは儲かるものらしいでござるな」
シグルスが庭の造作を眺めながら感心したように呟いた。
この家は、五百年前のマカロニア朝の昔から、「カケイ暦」を北洋道十州に限って頒布を許されている。
かつて、執権バルク・メナシスはこの暦を帝畿にも広げようと企んだことがあった。その意図は不明だが、カケイ聖堂の力を背景に騎士の棟梁となったタービニスに倣い、初代皇帝の暦を我が物とするためであったという。
「久しや」
白い小袖に空色袴の男が足早に出てきた。
この男こそ、下社家の主、ダイダス・ゲイルである。神官の割に気さくな男らしい。式台に胡坐をかいて、一行にも座ることを勧めた。
「一別以来でござる」
クルキルが丁寧に頭を下げた。
ほとんど間を置かず、先程の巫女が手伝いの女たちを連れて、盥を持ってきた。
「まず、皆々様、足を濯いで上がられよ」
「お姐いがた」
クルキルが姫の膝から幼女を取り上げ、わざと田舎臭い言葉で呼びかけた。
「何やいな」
「この子を見てやって貰えまいか」
「あかん、あかん。こちも忙しいのや」
女たちの頭らしい小太りの女が手を振った。
「これでも皆で食ろうてくれい」
紙包みを押しつけた。中に麦焦しと油餅が入っている。
「賄賂を使うか。気の利いた奴よの」
袋の中をあらためた女たちの機嫌が急に良くなり、
「よう見るとめんこい子だの」
「お花畑に行くか。綺麗な花が一杯咲いとるぞ」
幼女の手を引きながら去っていった。
その様を苦笑しながら眺めていたダイダスは、立ち上がると、
「では、こちらへ」
先頭に立って一同を奥の座敷に案内した。
「おぬしも忙しいことだ。今度はどこまで行く旅かな」
「北へ、キタンへ参り申す。義理が出来まして、この御方をお連れ申し上げる」
クルキルが慇懃に姫を紹介した。
「名は申せませぬが、さる有徳人の御息女にて」
姫が鷹揚に頭を下げた。
「この物騒な世に苦労なことを」
ダイダスは巫女が運んできた茶を受け取り、盆のまま差し出した。亜人は不浄の者なので、例え知人であっても神官は物を直に手渡すことをしない。
「それで、キタンの土産にカケイ暦を持参しようと思い、こうして立ち寄ってござる」
「暦ならば、都のカケイ大聖堂でも配っているが」
「いえ、やはりゲイル様から出た暦が有難がられますゆえ」
ゲイル家の暦は古くなっても使い道がある。悪日に懐にして歩くと魔に遭わぬ。それと同じ伝で、茶室の土壁の下張りに使えば気が和らぐと、茶人に中には珍重する者もいるという。
「他にも何か、私にして欲しいことがあるのではないか」
ダイダスが懐から件の札を出して、床に置いた。
「道中の詮議厳しい折、ここからは修験者の形をして旅せんと、装束一式と手形をお願いしたい」
ダイダスは凝っと見つめ、
「その程度でよいのかな」
「それと、先程の童女でござるが、旅に連れていくには幼すぎる。この家で養うていただきたく」
クルキルが深く頭を下げた。
「ふむ」
ダイダスは暫く考えていたが、にっと笑い、
「引き受けよう。なかなか子柄の良い子ではあった」
「忝う存する」
「それより」
ダイダスが窺うような目でクルキルを見た。
「何でござる」
姫に目を向け、それから一同を見回すと、
「そこな御息女、立ち居振る舞い尋常ならず。連れの方々も並の者ではあるまい。高家に所縁の御方と見た。相当の訳ありであろう」
不敵な笑いを浮かべた。
「だとしたら如何いたされる」
クルキルの姿がすっと小さくなり、気配が薄くなった。ジャッケルにはそれが、獲物に飛び掛かる寸前の獣の脱力に見えた。
「まあ良い、言いたくなければ言うに及ばず」
ダイダスは薄笑いを浮かべた。
「この札を持った者の頼みだ。理由を聞くなど野暮の極みであった。許せ」
ダイダスは手の中のただの薄汚れた木片を鑑札と呼んだ。
「手形はすぐに用意できるが、装束は時間がかかる。今日は当家に泊まられよ。離れに部屋を用意させる故、ここでお待ちあれ」
そう言って、姫に深々と礼をすると、ダイダスは部屋を出て行った。
「信用できるのか」
ダイダスの気配が消えたのを確かめて、シグルスが訊いた。
「あの男は組織の人間だ。裏切るなどあり得ぬ」
クルキルがぼそぼそ声で答えた。
「何の組織だ」
シーゲルが胡散臭げな顔をした。
「螺旋だ」
「螺旋の組織でござるか、はて、どのような」
アツマが首を傾げた。億劫そうにクルキルが首を鳴らした。
かつて、大陸の東、亜人たちが種族ごとに割拠する土地に、転生者と名乗る者が現れて、ある芋をもたらした。冷害に強く痩せた土地でも多産なことから亜人たちはその芋によって子を養った。やがて、その芋が風土病により全滅し、亜人もまた数百万が飢えて倒れた。飢餓と戦乱の荒野と化した故郷を捨て、多くの亜人が飢えと略奪と殺戮に追い立てられるように当て所ない放浪の旅に出た。永遠に招かれざる客になったのだ。
螺旋はもともと戦士の家系だった。エルフもドワーフもオークもゴブリンにも、戦士の家がある。彼らは種族の枠を超えて螺旋の印の下で手を組み、故郷を失って彷徨う同胞の守護をかって出た。人間の土地、人間の水の中を丸腰で歩き、片隅に根付こうとする亜人たちは、螺旋の戦士にしばしば救いを求めた。謂われない収奪に対する防衛と謂われない暴虐に対する報復のために。
新参者に肥沃な土地、清浄な水が回ってくるわけがない。陽の当たらぬ土地を耕し、濁った水で身体を洗わなければならない。おまけに、伝統的な差別が彼らを待っていた。勤勉で忍耐強い流民に、先住者の迫害が襲いかかった。
螺旋の衆はますます強く大きくなり、さらに深く地に潜らねばならなかった。
「螺旋の組織は古く、深く、広い。人至る所に螺旋あり。螺旋の者は何処にでもいる。ひとたび組織から命令があれば、何があろうとそれに従うのが掟だ」
「我らには何の関わりもない。どうして我らを助けるのか」
「螺旋は皇太后セレネイアと敵対し、反セレネイア派の諸侯や教会に銭を送って何かをやらかそうと企んでおる。我らを助ける理由は十分にあるのだ」
これ以上説明することはないという態度で、クルキルは冷めた茶を一息に飲んだ。
翌朝、まだ昏い七つ、山行者の装束に着替えた一行は、ダイダスから手形と数帳の暦を受け、幾ばくかの初穂料を納めると、まだ眠っている少女を置いて屋敷を出た。
最初の角まで来て後ろを振り返ると、取り継いでくれた巫女が門前に立ち、深々と頭を下げている。
一行は笠を傾け、足早に脇道に入った。
「この先のリイトの里から間道に入る。そこから山駆けだ」
先頭を歩くクルキルが言った。その声は流石に震えていた。
山駆けとは抜け道歩きである。領主が立てた関所を通らず、数百年かけて行者たちが作った道を一気に歩き通す。
平たく言えば関所破りだ。修験の者だけが公儀に黙認された特権である。
一行は予定より三日遅れてカルカニアを抜けた。
カルカニアとヤルニアの州境、イサク川に掛け渡された巨大な木製の箱樋の下に来たとき、樋の足場に綺麗な水が迸っている。
一行はここで小休止を取った。
「少し頂いて参ろう」
クルキルが腰に下げた竹筒を清水で満たし、
「どうぞ、姫様」
姫が無言で萎れた顔を上げた。
カケイの下社家を出てから、日に二刻ばかり仮眠を取る他はひたすら歩き通しである。一同は疲れ切っていた。特に、山など入ったこともない姫は疲労の極みに達していた。予定より大幅に遅れたのは、姫の足に合わせていたからである。
それでも、見兼ねたシーゲルが背負おうとすると、その度に姫は拒み続けた。
「深窓の御令嬢だと思って心配しておったが、見掛けによらず御気丈なことだ」
汲んだ清水を確かめて飲み口に栓をしながら、ジャッケルが呟いた。
「お前様、妾も褒めてくださりませ」
ニドが隣に座ってきた。
「抜かしおる。まるで仔鹿が跳ねるように歩いておるではないか」
「まあ、ならばまた腹を痛めましょう。お前様、背負うてくださりませね」
悪戯っぽく睨むニドの顔をまじまじと見つめた。
「お前様、いかがしました」
「いや、またナギの湯治場に二人で参りたいと思ったまでだ」
ニドはきょとんとした顔をしたが、すぐに眼を細めて、
「うふふ」
擦り寄るように、ジャッケルに体を傾けてきた。
「止めよ、重たい」
「うふふ」
「ここまで来れば、目的の地はすぐそこだ」
冬籠りの場だとクルキルが座り込んだ一同に言った。
「どちらか目当ての宿が」
シグルスの問いに、
「この先のクマリの口番所を抜け、本国番所を脇に外れた場所に湯が沸き、入湯の世話をする妻帯の行者がいる」
これも螺旋の者だとクルキルは説明した。
「もうすぐ着くのですね」
姫が自分を励ますように口を開いた。
一行は再び歩き出した。
尾根を幾つも越え、藪を掻き分け、この先に人家などあるのかと首を捻る頃、ようやく淡い灯りが見えた。既に夜である。
「湯が沸くか」
一同は蘇生する思いだった。
「念のため、儂が先に家主に会う」
皆を草叢に隠し、クルキル一人が板葺きの湯治場に入っていった。
やがて、合図の柏手が三度短く鳴った。
一行が家の中に入ると、入り口に竹の大籠と障子の桟のようなものが積み重ねてある。
(紙漉きをしている家だな)
ジャッケルは見当をつけた。
土地に居付きの行者は、宿や山歩きの収入以外に副業を持つ者が多い。法衣の染め、鋳物師、石屋、曲物、野鍛冶。砂金掘りや刀鍛冶もいる。サンガンの銘の入った野太刀などは騎士垂涎の的で、ナニュンニの辺りでは専門の刀屋も繁盛している。これらは全て世襲で、株の売り買いも禁じられている。
「当主は今、来る」
粗末ながら式台があり、一行は床几を与えられた。やがて燭台が進められ、折り目も新しい麻の袈裟に花車な合口拵の小刀を差したエルフの当主が坐った。
「お懐かしや、クルキル殿」
エルフが灯の前で深々と頭を下げた。家に式台を持つからには、この行者も山中では然るべき格式を持つ者に違いない。クルキルのような俄か行者に対してこれは何事と思っていると、
「なにこれは、代々レッド様の家に仕えた者の裔でござる」
そのゴード・レッド様の御同輩と知られたクルキル殿には当然と自己紹介した。
武人言葉の中に強い北国訛りがあった。
「クルキルって意外と凄かったんだね」
「しっ」
小声で呟くスウの膝を、ニドが平手で叩いた。
「ヨウガイ殿、待ちに待ったセレネイアのラシアス家に一矢報いる機会が到来した。この御方は」
姫を手で示し、
「アニーナ姫でござる」
すばり言った。
「冬の間、この地に匿い申し上げ、雪解けとともにキタンへお連れする」
クルキルは口中で呪を唱えるが如く、低い声を震わせた。
ヨウガイはアニーナ姫に向かって暫し平伏すると、頭を上げ、
「心得ました」
再び頭を下げた。
「良いのですか、私には皇帝から追討令が下っているのですよ」
姫が問うた。
「何条、躊躇いなどございましょう。かつて、新神を奉ずる教会の僧侶どもに唆されたナジム・ラシアス、配下のマーシェス・ハントをして北洋の山々より行者を放逐し、修験の道は乱れに乱れ申した。その際の遺恨、一門討死の苦しみを我らは代々忘れ申さぬ」
ナジム・ラシアスとは、皇太后セレネイアから遡って六代前の当主に当たる。
「今、国中が姫を誅殺せんと探し回っておる。それでも、その方の侠気に頼るしかない。良いのだな」
クルキルが念を押した。
「クルキル殿は長う都暮らしして諄くなられたようで」
して、御人数はこれだけでござるかとヨウガイは訊いた。
「うむ、ここにいる者で全てだ」
「大人数でござるな」
「クマリの宿に入れば、行者とて目立つ」
雪解けまで長逗留になる。一つ所に固まっていれば、本国番所の目を引くだろう。
「この湯垢離場にも人の目がござる。さて、何処に隠し申そう」
ヨウガイは楽し気に腕を組んだ。
久し振りに風呂に入って神経が弛緩したのだろう。ジャッケルはその夜、夢を見た。
ジャッケルは、懐かしい兵部寮の大手前に立っていた。目の前に聖タテニアの社殿がある。境内の小さな見世の列の間を、ジャッケルはふらふらと歩いていく。とある一軒の茶店の前で、甲斐々々しく水を撒いている紺絣の娘が見えた。
「ルギナではないか」
ルギナと呼ばれた娘が頬を赤らめてにっこりと笑った。
かつてジャッケルが河原を出るとき、一緒に行くと涙ながらに縋りついてきた娘。
「あら、ジャッケル殿、いつキタンから帰られました」
「今さっきだ。おぬし、キタンに行ってはおらなんだか」
「はい、ジャッケル殿と再び逢えるよう、毎朝タテニア様にお参りしてました。御無事でようございました」
ジャッケルの腰にしがみついてきた。ジャッケルは妙な既視感を感じた。
「う、うむ、かたじけない。これは土産だ」
ジャッケルはもじもじと豆饅頭の笹包みを取り出した。
「まあ嬉しや、これでお茶にいたしましょう」
ルギナが背伸びしてジャッケルの顔を仔犬のように舐め始めた。
「お、おい、やめよ、くすぐったい」
照れ笑いをした刹那、
「お前様」
低い声に振り向くと、そこに仏頂面のニドが立っている。紅い瞳がよく研いだ刃物のようにぎらりと光った。
「わっ」
ジャッケルは夢の中の自分の悲鳴で目を覚ました。
布団の中だ。室内は暗く、同じ部屋で寝ている男たちの寝息が聞こえるのみだ。
(なんという夢を)
まだ動悸が止まらない。
(今の夢は何を示唆していたのか)
ジャッケルは妙な気分になっていた。夢の中でルギナに舐められた感触がまだ頬に残っている。
まだ起き刻ではない。ようやく拍動も収まってきた。
(馬鹿らしい。もうひと眠り)
寝返りを打った彼は、反対側の枕元に恐るべき現実がいるのを知って、口から心の臓が飛び出るほど驚いた。
目の前に、スウが添い寝をしている。スウはすやすや寝息を立てながら、ジャッケルに抱き着いて顔面を舐めようとしている。
(何故ここにスウが)
スウはニドとアニーナ姫とともに、別室で寝ているはずだった。夜中に厠にでも立って、寝惚けてこっちの部屋に入ってきたのだろう。
(なんという傍迷惑な)
スウの吐息が肌を甘く撫でていく。
大声を上げて跳ね起きたい衝動をジャッケルは辛うじて押さえた。
今、皆を起こしてしまえば、この状況を言い訳できない。迂闊に動いてはまずい。
スウに顔を舐め回されながら、ジャッケルは細心の注意を払い、スウの束縛から逃れようと体を動かした。スウの呼吸を計り、少しずつ体をずらしていく。一瞬一瞬が永遠に感じられた。やっとのことでスウの両の腕から逃れると、スウはジャッケルの布団を抱き締め、嬉しそうに舌を這わせている。
(呑気なものだ)
寝床を奪われたジャッケルは、仕方なく部屋の隅で壁にもたれて目を閉じた。
明け六つの拍子木で、ジャッケルは目を開いた。結局、スウのせいで熟睡できなかった。やれやれと立ち上がると、相変わらずジャッケルの寝床で、スウが幸せそうな寝顔で寝汚く眠りこけている。皆を起こさぬよう戸を静かに開けて廊下を歩き、大きく伸びをした。冬の朝の冷気が快い。
「お早うございます」
家の下女が庭から声をかけてきた。
「朝餉の御支度は五つとなっております」
「これはどうも御丁重に」
ジャッケルはぺこぺこ頭を下げた。
「さて、と」
懐を探ったが何もない。紙巻も火打石も部屋に置いてきてしまった。
「仕方ない。飯の前にひと風呂浴びるか」
起きがけに風呂に入りたがるのは温泉好きというより貧乏根性の現れとされる。銭湯風呂がただになったようなものなので、何度も入らなければ損だと感じるのである。
風呂場へ歩いていくと、赤松の植わった築山を巡る玉砂利の小道には、早起きだけが取り柄の老人たちが、三々五々足取りも軽く歩き回っている。彼らはここで英気を養い、家に帰って口うるさい嫁や孫たちを相手に壮烈な生き残り戦を戦い抜くのだ。
「お前様」
呼び止められてジャッケルは立ち止った。
「ニドか。こんなに早くどうしたのだ」
「目を覚ますとスウがいないもので、朝風呂を使っているのかと見に参りました」
「スウなら儂らの部屋で寝ているぞ、寝惚けて室を間違えたのであろう」
「まあ、あの子は」
二人して濡縁に腰を降ろし、朝風呂に向かう老人たちの列を眺めた。
「後できつう叱っておきます」
「まあ、そう怒らずとも」
簀子に置いたニドの手を上から握った。
「お前様がそう言うなら」
ぽっと顔を赤らめてニドが微笑んだ。
「スウはフスイで猟師をしていたと聞いたが」
「あい。あの子は、フスイの山奥の洞を塒にして、山の獣を獲って麓の村に売って活計しておりました」
そこに、流れの杣人が大勢押し掛けてきたという。流れ者の杣人といっても、聖アムジョアン教会に属して入会御免状を下賜され、皇室に建材を納める厄介な連中である。村に下りて村人に乱暴を働き、酒に酔って村の娘に手を出す、強請って村の共有財産である農馬を安値で買い叩くなど好き放題。だが、八代皇帝ファランダールの頃に植えられたという楠の巨木に斧を入れたことで、村人たちの我慢も限度を超えた。といっても、正面切って杣人たちと事を構える度胸はない。彼らは山を棲処とするスウになけなしの金子を渡して神木の復仇を頼んだ。
かねてより猟場を荒らされ、面白く思っていなかったスウはその話に簡単に乗った。物心ついたときから殺生を生業にしてきた娘だ。一切の容赦がなかった。伐採所の近くに罠を仕掛け、仲間から離れて一人になった者を攫い、日を経ずしてたちまち数人が犠牲になった。スウは狡猾である。彼女は殺した杣人の死骸を見つからないように山中深くに隠した。
やっと、スウの仕業と知った杣人たちは山狩りを行ったが、スウは神出鬼没に彼らを翻弄し、更に犠牲者が増えた。
策に窮した杣人たちは、聖アムジョアン教会を通じて皇宮に恐れながらと訴え出た。その訴状を受け取ったのがラミレスである。
ラミレスは代官にスウの捕殺を命じる裏でニドを遣わし、スウの死を擬装して事を収めさせた。
「得意の幻術でか」
「あい」
得意そうにニドが微笑んだ。
「スウには親兄弟はいなかったのか」
「妾が初めて会うたときは、もう一人でございました」
「ふむ、それ以来、妹のように懐いておるわけだな」
「あい」
「膂力優れたるおなごとは思っていたが、まるで狒だな」
山に棲し人を喰らう妖怪のことだ。
「まあ、それは酷いおっしゃりよう」
ニドが楽しそうに眉を顰めた。
「鹿や猪を手掴みで捕らえ、石を投げて上手に鳥を落とす頼もしい妹でございます」
「怖や」
「大丈夫、あの子はお前様を気に入っていますもの」
「そうなのか」
「あの子は嫌いな男と臍を合わせたりしません」
姫を担いで離宮に逃げ込んだ夜のことを思い出し、ジャッケルはしどろもどろになった。
「いや、あれは、お前の毒を消すといわれて、よくわからぬうちに」
「うふ」
ニドがジャッケルの肩に頭を預けた。
「いいのです。あの折りは、お助けいただいて嬉しうございました」
「う、うむ」
どう答えていいのかわからなかったので、取り敢えずニドの銀髪を嗅いだ。茴香の匂いが鼻孔をくすぐる。そこでふいに気づいて、
「ということは、スウも房中術を使うのか」
「あい、些かは。妾が仕込みまいた」
「業の深いことだ」
「業の深いといえば、お前様の頼うだる御人」
「ラミレス殿か」
「あれこそ真の化生でございますよ。己れの野心の炎が激しすぎて、遂に自らを焼いてしまわれました」
「確かに。その野心に付き合っている儂らも業が深いわな」
ジャッケルは自嘲して軽く笑った。深く考えるのはよそう。今はただこのダークエルフの娘の体温を感じていたかった。
翌朝、麦粥と漬物だけの簡単な朝餉を済ませると、一同はヨウガイに連れられて外に出た。ただし、姫だけは寝床から出られないでいる。山駆けで苛まれた心身が休息を求めているのだろうとニドは言った。数日は動けそうにないという。
ヨウガイの坊では男たち数人が楮の枝から皮を剥く作業に熱中していたが、一行の姿を目にするや、一斉に平伏した。エルフだけでなくドワーフもいる。
紙漉き、杣人の形をしているが、これもヨウガイの息のかかった里行者の子孫だ。
「宿屋の者どもにも怪しう思われぬ手が一つござった。その用意をいたしてござる」
皆を分散して泊める手も考えたが、宿改め人別改めがあれば手もなく捕らえられてしまう。
「それより、一同一つ場所に起き伏すがよろしかろう」
かつてヤルニア州がまだイデア伯領であった頃、ヘイデンの黒根衆と呼ばれる行者乱波の者どもが、山中の岩屋に旧神バアルを祭り、年に何度か怨敵調伏の呪詛を行った。
「山を越え、谷を幾つか渡って南に一里半ほど。ここより宿場町に近く、クマリの峠は目と鼻の先でござる」
天狗礫が降る、神隠しに遭うと土地の者たちが恐れて近寄らない洞窟がある。
「洞内にはバアル神の像が一つ。ただし中は広うござる。大の男が五十人は寝泊りできますぞ」
「それはそれは」
ある日、夢想のことあり。都のさる行者殿、法力自在なるが、夢枕に真紅のバアル尊神、右手に大剣、左手に羂索を手繰らせ、顔は憤怒の相。
「我、祀り絶えて既に久し。汝、祈祷の壇を築き、我を慰めるべし」
所はヤルニア、クマリの宿外れの岩屋。一声かけて掻き消えたり。行者驚きて同類の者どもを引き連れ、これより三七二十一日に御縁日の五を掛けて百五日の祭りを開く。
「こう申して話を広めれば、人は近づかず。また、大勢が集うても言い訳が立つでござろう」
ヨウガイ坊の者どもは、この祈祷の下準備をしているという。
「あちこちの教会や聖堂で聞く話だが、聞く者が聞けば笑い転げるであろうの」
クルキルがぼそりと言った。
旧神バアル、姿は恐ろしいが、帝土の先住民が、西からやってきた民に圧迫され召し使われる、その苦しみに耐える形を表している。我慢と煩悩に動じぬ心、新教会の僧が説く大寂静こそがバアル神である。その尊き旧神が、我が身が祭られぬことを恨んで人の夢枕に立つなど笑止だろう。
「気になさるまい。この辺りの者どもは、穏やかで人が良うござるでな」
こと信仰のこととなると疑うことをしないという。一同は湯治場にもう一泊し、翌日、ニドとスウを姫の守に宿に残すと、装束を改めて岩屋に向かった。
湯治場の崖を降り、湯で濁って魚も棲まぬ川を蔦に掴まり三丁程行くと、大岩に沿って人一人がやっと通れる岩棚がある。川はそこで更に細くなり、一間程の幅で小さく蛇行し、やがて滝のような急流に変わった。
岩の隙間に大岩が挟まっている。
その岩の陰に洞窟があった。
「これは」
大きいと誰もが息を呑んだ。ヨウガイの言葉の通り、中は五十畳敷き。しかも穴は一つではなく、奥の一段高い場所にもう一つ開いている。
「雪降らなばこの窟奥に籠り、枯れ草を広げる。さすれば寒さを感じることもない」
ヨウガイは足許を杖で指した。川の水が運んできたのか、穴の底には踵が埋まるほど落葉が積もっている。
「なるほど、バアル神がおわす」
シーゲルが岩の窪みに目をやった。小さな石造りのバアル像が鎮座している。
「住み心地は良さそうでござるな」
落葉の褥に寝転がったシグルスが、
「わっ」
悲鳴を上げて跳ね起きた。
「何事だ」
「へ、蛇じゃ」
アツマが前に出て太刀の鯉口を切った。大岩の上に蛇が蜷局を巻いている。
「これは心配いらぬ。主でござってな」
ヨウガイが足許の小枝を拾って投げた。蛇はざらざら音を立てて蜷局を解くと、川下に去った。長さは一丈程もあるだろう。
「洞内の野鼠などを喰ろうてござる。怖るべきは小さい蝮でござる。頭上に張り出した岩の穴に籠り、時折落ちてきて人を噛む」
「怖やの」
頻りに身を竦めるシグルスに呆れ返ったのか、
「あと一月程もすれば蛇も巣穴に籠りましょうほどに」
と苦笑いした。
「むう、一月も蛇と添い寝でござるか。このような場所に姫様を御迎えするのは」
「スウならば喜んで手捕りして焼いて喰らうであろうの」
シーゲルが面白そうに言った。
「ならば早う戻ってスウを連れてこねば」
「ニドも小刀を使って上手に蝮を仕留めておったな」
レッセンの報謝宿での出来事をジャッケルは思い出した。
「元奉公衆のシグルス殿が蛇を怖がるとは意外」
面白そうにアツマがシグルスに目を向けた。
「それがしとて怖いものくらいござるわい。蛇だけに手も足も出ぬ」
あまりの下らなさに、皆が呆れたように冷たく笑った。
一同は一旦湯治場に戻り、ヨウガイ坊から灰汁抜きした蕨を貰い、竹籠に一杯の野草、樽入りの味噌漬けなどを準備した。岩屋で過ごすための支度である。
ジャッケルらが籠に蕨粉を詰めていると、姫がニドとスウを伴ってやって来た。
「皆様には御世話をかけました」
姫は浄衣に灰色の袖無しを重ね、鈴が転がるような声で皆に語りかけた。
「アマネア様、御身体の御具合はいかがでござる」
姫の偽名である。カケイの下社家の主、ダイダス・ゲイルの養女ということになっている。
「ええ、すっかり良うなりました」
姫がにこりと笑った。だがどこか力がない。まだ立って歩くのも辛いのだろう。スウに支えられて庭石に腰を降ろした。
「岩屋はどうでした」
「はい、隠れ住むには打って付けかと」
「蛇が出ますがな」
「まあ」
「主が棲んでおりまして、これが一丈半もござる」
「それは」
「心配ござらぬ。蛇などそれがしが退治して御覧に入れよう」
シグルスが胸を張り、周囲を鼻白ませた。
「いえ、蛇も私たちに押しかけられて気の毒にと思ったのです」
「お優しうござるな」
「私など皆に生かされて貰っているようなもの。この手で田を耕したことも、魚を漁したこともありません」
「キタンでは好きなように振舞えばよろしい」
「できるでしょうか」
「丁度桜の咲く頃にはキタンでござる。北の桜は美しうござるそうで」
「それは楽しみで」
突然声が途切れ、笑みが消えた。まるでどこからか闇が落ちてきたように、冷たい表情が一遍に姫の顔を覆う。手が小刻みに震えだした。
「下がります」
ジャッケルはぞっとした。先程までの朗らかな声とは似ても似つかない。まるで人が変わったように、暗く陰気な声だった。
「アマネア様、こっちへ」
スウが姫の身体を抱きかかえるようにして奥へ去っていった。
「まだ疲れが抜けておらぬ様子だな」
シーゲルがその後ろ姿を心配そうに眺めた。
「それだけではございませぬ」
姫を見送るニドが眉を顰め、声を潜めた。
「土牢に押し込められ、術をかけられた記憶がまだ腹中に蟠っている御様子」
「快癒したのではないのか」
ジャッケルがニドを見つめた。
「妾にできるのは、心労を押さえつけることだけです。それが」
この地に着いたことで緊張が解れ、押さえつけていた心の疵の痛みが頭をもたげてきたとニドは言った。
「姫様の華奢な身体で山を駆けられるよう、心に呪をかけたのも裏目に出たやもしれませぬ」
「つまり、姫様の心の疵は全快することはないのか」
「一度心に刻まれた疵を消すことは叶いませぬ。時間をかけ、疵そのものを受け入れるしか」
「記憶を消してしまうことは」
シグルスが訊いた。
「無理だ」
クルキルが後を継いだ。
「記憶を消すことはできる。だが、それは心に埋められぬ穴を開けるに等しい。後日、いかなる障りがあるかわからぬのだ」
「つまり、姫を治せるのは刻薬しかないということでござるか」
アツマが首筋を掻きながら尋ねた。
「うむ、そういうことだ」
「これでは岩屋にお連れするなど無理なのではないか」
「いえ、今、姫様の心の支えになれるのは皆様しかいません。数日もすれば、姫も疲労が抜け、元通り元気になりましょう。そうなれば、姫を岩屋にお連れします」
ニドが皆を見回すと、
「皆が腫れ物に触るように接すれば、それだけ姫の回復が遅れます。皆様、くれぐれも気さくに姫に接していただきますよう」
殊勝な態度で頭を下げた。
「明日から岩屋に入って姫をお迎えする支度をせねばならぬ。せめて今日の夕餉と明日の朝餉は姫と共に食すとしよう」
シーゲルの提案に皆が一様に頷いた。
「かたじけのうございまする」
ニドが明るく微笑んだ。
数日後、ジャッケルはシーゲルと共に湯治場に戻り、ヨウガイの坊から食糧を貰っていた。皆の口を賄うためには、こうして定期的に食糧を運ばねばならない。
食糧運搬は重労働である。道なき道を上り下りし、しかも人に尾けられてはならない。絶えず周囲に気を配り、途中で人に会えば声高に呪を唱え、修行得験の者を演じなければならない。
ジャッケルらが一度目の荷を運び終え、再度湯治場に入った昼下がり、二人の前に、ニドとスウを従えるようにして姫が現れた。三人とも行者装束に身を固めている。三人分の荷物が入っているのか、ニドとスウは三尺はありそうな塗り禿げた黒い箱を担いでいた。金剛杖の先の鈴が軽やかに鳴った。
「アマネア様、岩屋にお入りになられますので」
シーゲルの問いに、
「はい、皆様の顔を見ているほうが気も安まります」
明るく微笑んで優しいことを言う。心も身体もすっかり回復したように見えた。
ジャッケルがちらとニドに顔を向けると、視線に気づいたニドが、眼を細めて小さく頷いた。
「心得ました。案内つかまつりましょう」
ジャッケルとシーゲルが平伏した。
夕刻、姫は初めてバアルの岩屋の前に立った。ジャッケルは、姫が土牢の恐怖を思い出すのを秘かに恐れていたが、姫は怖れるふうもなく岩屋に入ると、
「まあ、中は案外と広いのですね」
歓声を上げ、楽しそうに中を見渡した。
「蝮が落ちて参ります故、岩の張り出しの下には近寄りませぬよう」
「わかりました」
そう言って、枯草の上に寝転んで笑い声を上げた。
「もうすっかり良いのか」
ジャッケルがニドの耳許に口を近づけて尋いた。
「あい、取り敢えずは」
姫に視線を据えたままニドが答えた。
「取り敢えずとはまた心細い」
「あのまま湯治場に残すより、皆といたほうが幾らかましでございましょう」
まだ心配そうなジャッケルをちらと見て、
「いざというときは、妾とスウが何とかいたします。それに」
吊り目がちな一重の眼がにこりと笑う。
「妾もお前様と離れているのはもう沢山」
半刻ほどして、男たちがわらわらと帰ってきた。
「箱を」
ニドが、運んできた箱の封印を切って蓋を開けた。鎖を編み込んだ紺の鎧下着、半弓と短い矢、それに毛皮が何枚も出てきた。
「ヨウガイ殿が皆にと下されました」
「弓など何に使うのか」
シグルスが迷惑そうに口を歪めた。当然である。修行中の行者が弓など持っていれば要らぬ疑いを受ける。
「狩りに使うのよ」
夕餉の粥をかき混ぜながらスウが答えた。
「たまにはお肉も食べたいでしょ」
「それはそうだが」
「大丈夫、岩屋の近くで血抜きとか皮剥ぎとかしないから、安心して」
血の臭いで獣が寄ってくるからとスウが胸を張った。
やがて野草と蕨を入れた粥が出来上がり、燭台の灯の下、鍋を囲んでの夕餉となった。
「ところで、ヤルニアの境目警備の番兵はここまで来ておりますか」
ニドが皆に訊いた。
「うむ、アルザック伯の兵どもが一度下の道まで来たが、我ら護摩を焚き、声高に陀羅尼を唱えたところ、怖れて立ち去ったわい」
シーゲルが楽しそうに笑った。
「そうですか。アルザックの家中は昔から上下ともに旧神の教えを篤く敬う家柄と聞いておりましたが、真実でございましたか」
ニドは感心したように椀を傾けた。
夕餉が終わると、洞内は自然と軍議の席になった。シグルスが一枚の地形図を広げた。皆、いつも洞内に籠っているわけではない。クルキルの引率で近隣の山野を巡り、地形を把握しようとしていた。実際に歩いてみたのだろう、絵図の至る所に朱筆と註釈が入っている。
「クマリの宿から北へ上ること半里と二丁。ここに遊馬の平なるところがある」
街道を行く軍兵の行列が休止し、ここで連れてきた馬を放って休ませる故にこう名付けられたという。
「ここには口留めの関所もあって、番卒が多く詰めてござる」
「数はいかほどでございます」
「少なくとも馬十余騎を入れて三百」
騎兵が少ないのは、道が狭く急峻な坂が多いからだろう。
「カルカニアとの州境の関所でもあるまいに、尋常な数でございませぬな」
「うむ、この辺りは目立った山賊も出ぬし、州境の後詰めの勢にしても多すぎる。やはり」
皇帝から追討令が出たアニーナ姫の通過を警戒しての兵であろうと、シグルスは声を低めた。
「当面、最も警戒すべきはこの遊馬に屯する軍勢でござる」
そのための逃げ道も探しているとクルキルがぼそりと呟いた。
「だがそれも雪が積もるまで」
冬山を縦断して逃げるなど自殺行為に等しい。
「雪解けなば、関所も手薄になろう。その隙を突いて山を駆け抜ければ、キタンで花見ができますぞ」
クルキルが姫に顔を向けて、安心させようとにたりと笑った。しかし、傍目には顔の皺が歪んだようにしかみえなかった。
夜半、尿意を覚えたジャッケルは、皆を起こさぬよう枯葉を払うと、ゆっくり立ち上がった。岩屋の入口に蹲る何かがこちらを振り向き、
「ジャッケルか」
声をかけてきた。今夜の張り番であるシグルスだ。入口の岩肌に張り付くようにして外を見張っている。
「手水でござるか」
毛皮を羽織った肩を揺すった。
「寒うござってな。どうも近くなっていかぬ」
小声で答えると、そのまま岩屋を出た。空は昏々《くらぐら》として風は肌を切り刻むように冷たい。
シグルスが毛皮の間から手を伸ばし、
「岩肌はよう滑る。気を付けられよ」
「かたじけない」
長い小用から戻ると、ジャッケルはシグルスの隣に坐った。
「中に戻られぬので」
シグルスの問いにジャッケルは、
「もうすぐ夜が明ける故、戻るのも面倒」
白み始めた東の空を眺めた。
「これからもっと寒うなると思うと、気が滅入ってござる」
「まことに」
「ジャッケル殿は、姫をキタンまでお連れしたらどうなさる」
「さて、もう血生臭い仕儀はこりごり。どこぞ鄙な地に小屋掛けして、静かに暮らそうかと」
「ニドとスウを連れてでござるか」
「あの二人はこのまま姫様付きの女官になるかも知れず、どうなるかはわかりかね申す」
「ジャッケル殿はライン大公家の被官になると思うてござった」
「いや、もう主取りは懲り懲り。これからは好きに生きますわい」
そう答えて寒々と笑った。
「ところで、シグルス殿は姫の侍従か大公の御家来衆にでもなる御積りかな」
「さて、いかがいたそうか」
そう言ってシグルスは山風に顔を向けた。その顔に、言いようのない苦笑が湧いた。
ナイアール州ダーレムにあった彼の所領は、一万六千町の田畑と百姓六十家族を持つ、典型的な在郷騎士だった。
その家の三男として生まれた彼は、立身出世を願い、奉公衆に取り立てられて都に上がった。兵乱ではムウ大公の旗下に属し、軍勢は連戦連勝、ついに西軍を都の外に追い出した。しかし、鎮西方面軍が押し寄せてくると、ムウ大公軍はじりじりと後退し、ついに四分五裂して潰走した。
命からがら戻った生家は、しかしシグルスを迎える故郷ではなくなっていた。燃え落ちた家の残骸を後に、彼は一人、西へ流れた。奉公衆随一と謳われた剣捌きと、上流社交界で覚えた話術を友に、荒野を流離う日々が始まった。
数々の悪党と盃を交わし、莫連女と一夜を過ごした。ダグラス・ホーンと出会ったのは、アカギ城下の酒場だった。向こう見ずで粗削りな刀術しかできなかったダグラスに、奉公衆仕込みの抜刀術と小具足術を教えた。握力の強いダグラスに、峰の厚い二尺二寸の打刀を勧めたのもシグルスだ。
ダグラス・ホーンは後に、「亜人を数に入れず、百二十人を殺した殺人鬼」として、帝国史に悪名高い伝説を残したが、シグルスは二度と彼と出会うことはなかった。
死んだ父親の親友だったさる高家の家宰が、彼を都に呼び戻したのだ。彼の紹介でギャン・モラヌス・ラミレスの手下となった彼は、帝畿内を跋扈する流匪や一揆勢の内偵と密殺に従事した。決して綺麗な仕事ばかりではなかった。浴びるほど酒を飲まないと人間に戻れない日々が続いた。
何もかも瞬くうちに過ぎていった。思い出一つ残っていない。
故郷の農地に吹いていた風が、ほんの時折、胸の荒野に蘇る。しかし彼は、決して昔を懐かしむことはなかった。
「シグルス殿」
黙りこくったシグルスの顔を、ジャッケルは窺うように覗き込んだ。
「何か」
「おぬし、元奉公衆と聞いたが、青旗衆でござろうか」
「誰に聞かれた」
「そう見当をつけただけでござる」
先の兵乱で、皇帝奉公衆のうち壊滅したのは青の旗のみ。今、青い旗を奉ずる騎士団は昨年新編されたものだ。
「よう生きてござったな。青旗衆はヤマタイで一人残らず散ったと思ってござった」
「青旗衆にも生き残りはおり申した。あの折に討ち取られもせず、自刃もせず、その後の戦いに加わった者も。だが、それがしは違うた。ヤマタイで皆が突撃する中、それがしは怖ろしうなって必死に逃げ落ち申した」
鎧も刀も捨て、草の露で渇きをいやし、やっとの思いで逃げ帰ったシグルスは、故郷の惨状に愕然とした。田の畝は崩され、倉は打ち毀され、溜桝に家族の腐乱死体が浮かんでいた。
「それ以来、それがしは常に己れに問うて生きて参った。何故、それがし一人、生き延びたのかと」
初めてラミレスの隠れ宿で会ったとき、陽気で人懐っこい態度と裏腹に、目だけがやけに乾いていたのを思い出した。
「剣は奉公衆で覚えたのでござるか」
シグルスがジャッケルに顔を向けてにやりと笑った。懐から紙巻を取り出し、火打石を擦った。ジャッケルもつられて紙巻をくわえた。もう随分明るくなってきている。紙巻の灯を悟られる心配はなさそうだった。
「奉公衆は兵法の稽古も盛んだと聞いてござるが」
シグルスはふうと長く煙を吐くと、
「それがしのは奉公衆の剣ではござらぬ。身過ぎ世過ぎで覚えた人殺しの剣でござるよ」
微かに微笑を浮かべて紙巻をくゆらすシグルスを見て、これまで何人の人間を斬ってきたのだろうとジャッケルは思った。それで何を得たのか知らないが、この男の中に残っているのは、果てしない虚無だけに見えた。
「儂も兵乱の折にはガイエス侯の旗に与しており申した。おぬしにとっては仇敵でござるな」
「西軍にいた者どもはそうだと思っておったこともござった。が、そうではなかろう」
シグルスは美味そうに紙巻を吸った。
「それがしにはこの世が仇敵でござる」
「前にも聞き申したな」
「そうでござったか、これは迂闊」
何が面白いのか、シグルスは背を震わせて笑った。
穴の中の大蛇も蝮も消え果てた頃、雪が降り始めた。一度積もった雪は消えず、峠は三日に亘って閉ざされた。
クマリの里も宛ら火が消えたるが如く、家々は軒先に雪覆いをかけ、戸を降ろした。
人々は沈鬱な面持ちで囲炉裏に集まり、ひたすら吹雪が止むのを待った。
峠を開削するために夫役の者が宿屋に群れ集まったのは、あちこちの村でお歳夜と呼ばれる旧神降ろしの祭儀が行われる師走末のことだった。
「また、困ったことが起き申したわい」
湯治場のヨウガイが珍しく橇履きの姿で洞窟を訪れた。
「験者殿、何事かな」
岩屋の入口に腰を降ろして太刀を磨いていたジャッケルがヨウガイを迎え入れた。
穴の奥で、枯草に包まっていたアニーナ姫が咳き込んだ。姫の身にこの洞穴暮らしはきつかろうと、皆は気を利かせて盛んに火を焚いた。その煤を吸い込み、かえって喉を傷めている。
「クマリ宿の外れに酒造りがこざる」
「『ソウマ屋』でござるな」
クマリの宿場はまた、宿で出す酒の旨さで知られていた。山間部で米を作れぬため、遠くヤルニア城下の米穀屋から原料を運んでいる。
「酒造りも城下より招く。今年は人数が多いらしい」
正月を迎える準備が常にも増して忙しく、お歳夜もろくにできなかった。それが昨日終わったという。
「人を集めて歳夜のひとつもせねば、人がましくないと申してな。指折り数えれば、明日は二十八日」
「二十八日がいかがいたした」
シーゲルが問うた。
「バアル神の歳夜にあたる」
この地方では、この日、葱や韮、玉子などを遠ざけ、男どもは集まって酒樽に山の幸を添えて奉じ、大根の白和えを肴に大酒を飲む。
「酒造りの頭領は、バアル神の御縁日なれば、バアル岩屋の行者殿もお招きしたいと」
「まあ、それは」
「それはよい話でござるな」
姫が思わず声を上げ、アツマが手を打った。
「久しぶりに酒を腹一杯呑める」
「まずいな」
クルキルが忌々しげに腕を組んだ。
「何がまずいのでござるか」
シグルスが不満げに口を尖らせた。
「それがまずいと申してござる」
ヨウガイは首を振った。深酒して酔い潰れ、正体が露見する恐れがある。
「どうしたものかな」
シーゲルがジャッケルの顔を見た。
「難しいところでござるな」
雪の降る前は、交代で宿に下り、互いに注意しつつ気散じをしていた。しかし、このところ洞窟より一歩も出ず、気鬱となっている。特に、姫は笑顔も少なくなり、時折塞ぎ込むようになっていた。
ジャッケルがニドに確かめるように視線を送った。
「半数ごとに招きを受ければ良いと存じます。姫様の介添えは妾が務めましょう」
「引率はそれがしがつかまつろう」
尻尾を出さぬよう、儂が絶えず注意するとヨウガイが言うと、皆の顔が明るくなった。
そうなると話は早い。最初は姫とジャッケル、シーゲル、ニドの四人。何かあればシーゲルが姫を担いで逃げ戻る手筈である。残りは姫たちが岩屋に帰るのと入れ違いに宿に下りると決まった。
暖かい囲炉裏端の酒は一月ぶりだった。招き手のソウマ屋の主人も折り目正しい人物で、
(来て良かった)
ジャッケルはほっとする思いだった。が、酒が十分に回り、交代の酒造りが仕込み倉から戻ってくると、雰囲気が一変した。
「蔵元殿、もっと酒を食べたや」
酒造りの職人たちが面白がって姫とニドに杯を置かせぬため、ついに姫が酔っ払ってしまった。
「おんもしれえ巫女様だ。都でもたいそう評判の御方でござろうや」
「よく見ればお美しい巫女様だ。都の舞など踊ってけろ」
脇で聞いていたヨウガイが慌てて止めに入ったが、酒の勢いで地元の者どもは唄え舞えのと大騒ぎ。やがて酩酊した姫が立ち上がり、身振り手振りもおかしく踊りだした。
〽抜朧尊王恐ろしや怒れる姿に剣を持ち索を下げ
うしろに火焔上るとかやな前には悪魔寄せじとて降魔の相
姫を真似て職人たちも踊りに加わり、囲炉裏端は手を打ち足を踏み鳴らす奇怪な巫女舞の場と化した。気がつくとニドもヨウガイも踊っている。酒造りたちは奥から次々に酒の小樽を持ち出してくる。
「やれ舞え踊れや、方々」
供え物の山が崩れ、蜜柑が転げ出た。それを姫は踊りながら踏みしだき、さらに調子に乗って林檎や桃まで踏み砕き始めた。
その様を見たニドとヨウガイの表情が険しくなった。両側から姫を抱えるように、広間の隅に引いていった。
(様子がおかしい)
一人酒を口にせず、茶で腹を紛らわせていたジャッケルは、隣で笑いながら合いの手を入れていたシーゲルを肘で突つき、姫のところに膝行した。
「いかがした」
「お前様、恐れていたことが起こりました」
ニドが思いつめた顔をしている。
「話は後じゃ。すぐ岩屋へ戻られよ」
狼狽したヨウガイが低い声で告げた。
「まず少し吐かせたほうがよろしいかと。酒毒に当たりかけておられます」
ニドが言う。姫は茹で上がったような頬を見せて、しきりに譫言を呟いていた。
「お、おう」
ニドの言葉に促されるように、ジャッケルは姫の体を担ぎ上げた。濡れ縁の外れまで運び、俯せにすると背の急所を軽く打った。姫は置石の上に盛大に吐瀉し、また気を失った。
「これで喉を詰まらせることもなかろう」
シーゲルから受け取った竹筒の水を飲ませていると、
「アマネア様、俄かに気分優れず、岩屋にお戻りになったことにしよう。それがしはここに残って事を収めたのちに、岩屋に参ろう」
ヨウガイが急くように言った。
宴席の乱舞は止む気配がなく、嬌声や馬鹿笑いが交差し、辺りは気分が悪くなるような騒音に満ちている。
「お前様、参りましょう」
事情を飲み込めていないジャッケルとシーゲルは、姫を担ぐと、ニドに引きずられるように岩屋へと走った。
「果物を踏んだと」
岩屋の奥でバアル神像の供物を並べていたクルキルは、凍りついたようにその場に立ち尽くした。
「やんぬるかな」
果物を踏みながら踊るのは皇家の血筋の巫女のみに許された呪法であり、行者にとって最大の禁忌である。
「事は露顕した」
「まさか」
その程度のことでとシグルスは言ったが、クルキルの言葉通り、一刻たっても二刻たってもヨウガイは戻ってこない。
目を覚ました姫も事の重大さに気づいたようで、白い貌を一層白くさせた。
七人は鎧下を纏い、笈を開いて隠し持った籠手や鉢金を身に着けた。川が見渡せる斜面の下に物見に出たアツマが、すぐ戻ってきて、
「山上に火が見える」
湯治場が燃えていると伝えた。
「アルザックの者どもめ、手回しが良すぎる」
山間に木を叩く音が聞こえてきた。火事に気づいた宿場の者が打ち鳴らしているのだろう。
「皆、油断するな」
シーゲルが金剛杖をしごいた刹那、弦音が響き、四方から矢が射込まれた。
「敵ぞ」
「窟奥に籠れ、太刀筋を低く」
闇の中を、黒い影が一つ二つ、崖を降りてくる。アツマが斬りつけようと進み出た。が、大岩の上に立った射手が弓を放ち、避けようと足を滑らせたアツマは転げ落ちた。
ジャッケルが洞窟の端から躍り出て、岩の上に立つ弓の者を斬り伏せた。
新たな敵は足が濡れるのも厭わず川を渡り、ジャッケルに斬りつけた。大太刀の遣い手で、刃先がジャッケルの鉢金へ僅かに触れた。その一撃を躱してジャッケル、太刀を霞に構えて敵の太刀をいなし、二突きに突き殺した。
この勢いに恐れをなしたのか、敵は引き退いた。
「ニドよ」
「お前様」
「この隙に、スウと共に姫を連れて岩屋を出よ」
「皆様方を見捨てて逃げよと言うのですか」
姫が思わず声を上げた。
「違う」
岩屋の入り口に仁王立ちするジャッケルは、返り血を頬に受け、今や一匹の鬼だった。
「我らはここに残って斬り禦ぐ。姫をキタンまで無事お連れすれば我らの勝ちよ」
太刀を肩に乗せたシグルスがにやりと笑った。
「ニド、スウ、姫を頼んだぞ」
ジャッケルも笑った。
「またお前と並んでナギの湯に入りたかったが、事此処に至っては是非も無し」
「姫様、おさらばでござる」
「姫様、行くよ。早く」
なおも留まろうとする姫を無理矢理に引っ張ったスウが、闇に紛れて洞窟を出るとき、バアル神の像の前で、ジャッケルたちは高々と火を焚いた。
(お姉)
敵の注意を引き、姫の脱出を助けるためだ。
「何故、おぬしは残った」
ジャッケルは隣に立つニドに訊いた。
「スウに任せておけば大丈夫です」
「お前まで死ぬことはないのだ」
ダークエルフの娘は、細い腕を伸ばしてなおも言い募るジャッケルの頬に触れた。
「妾はお前様の憑きものでございます。最後まで一緒」
「すまぬ。儂ごときに憑いたせいで」
「いいえ、とても楽しうございました」
雪の斜面を必死で駆け上がり、物寂びた唄声にスウは振り返った。
〽はなやさきたる、やすらひはなや
はなやさきたるや、やすらひはなや
皆が唄っている。
〽やとみくさのはなや やすらひはなや
やとみをせばなまへ やすらひはなや
やとみをせばみくらのやまに やすらひはなや
やあまかまでなまへ やすらひはなや
都で何度も禁令が出た流行り唄だ。何故禁じられたか誰も知らない。ただ、何か理由があるのだろうと噂された曰くつきの唄だ。
(やさかこはたひに とりたふなり)
姫の手を引きながら、スウは唄に合わせつつ、雪の中を転げるように逃げていった。