2日目-⑩ 最強の男
縹匡史は、生まれたときの産声で両親が耳鳴りを覚えたと語っている。
出産時の体重は7㎏を超えていたといい、生後半年で自分の足で大地を歩き始めた。
「熊殺し」「地上最強の男」など様々な異名を持つ彼だが、その心は育った環境故か
沈着で正義感に溢れていた。
ひとたび争いが起きればその巨躯をもってしてこれを治め、
一方的な暴力や悪意を目にした時には、その圧倒的な膂力で制裁を加えてきた。
百戦錬磨、修羅のごとき強さを誇る彼に対して、周囲の者たちは口を揃えてこういった。
「縹匡史に決して逆らうな」と。
※※※
悪寒が走るほどの殺気を放っていた。
怒りが熱を帯び、蒸気のように身体から沸き立っているように見えた。
鬼銅は生涯でも経験したことがあったか疑わしいほどに、歩いてくる男に目を奪われていた。
「縹…」
「何も言うな、早くいけぇ!」
一喝すると、枝野は足を引きずりながら2人の元を離れる。
2対1なら確実に殺せたはずだ。それは枝野もわかっている。
しかしそれは、枝野が鬼銅の右手に握られている拳銃に撃ち抜かれ、死ぬことを意味している。
相打ちでは、犠牲者が出ては意味がないのだ。縹の声と表情には、そんな決意が透けて見えていた。
「…」
縹の視線が、離脱する枝野の脚に向けられた。引きずる右脚から流れる血痕を見て、
縹の顔が怒りに歪んでいくのが分かった。ミシミシとこぶしを握る音が聞こえる。
嚙み締めた奥歯がギリギリと削られる音が聞こえる。
「よぅ、よくもやってくれたのぅ。儂の仲間を、クラスメイトを、よくも痛めつけてくれたのぅ?」
「―――縹…」
「鬼銅ォ!!」
縹が激高した。大地が揺れたかと錯覚する咆哮。突風が吹いたと認識するほどの迫力。
「待て…落ち着け、縹。お前と戦いたくはない。」
「そりゃあお前さんの都合だろうが、鬼銅?この儂と戦いたい人間なんぞ、この島には一人としておりゃあせんだろうが?」
説得は不可能だ。その瞬間に直感した。
となれば、鬼銅が考えるべきことは2つだった。
どうやってこの場から離れるか、そしてどうやって縹匡史を殺すのか。
「(ここでやり合うのはまずい、万に一つも勝ち目はない。)」
縹を目の前にして、離脱する枝野を狙撃し殺害することは不可能だ。そのそぶりを見せた瞬間に縹はこちらに攻撃を始めるだろう。加えてこの距離から枝野を確実に射殺できる技量があると断言するほど、鬼銅は慢心していなかった。
そして何より、今ここで枝野を殺せない理由がある。
だが、枝野はどうだ?リーチのある銃を武器にしている枝野は、今度こそ確実に安全圏に入ってこちらを狙撃してくる。縹を相手にしながらそこに注意を向けることなど不可能だ。
近距離から縹が、遠距離から枝野が攻撃を仕掛けることのできる布陣を完成させてしまったら、こちらに勝機はない。
「っ!待たんか!!」
そう悟った途端、鬼銅は踵を返して走り出していた。島の山林方向へ進んでいたことが幸いした。一直線に森の中へと向かう鬼銅を、縹はすかさず追いかけた。
「クソッ…!」
枝野は痛みと格闘しながら舌打ちをする。
考えていたことは同じ。森の中へ移動されてしまえば、銃でねらい撃ちすることが出来なくなる。
高く生い茂った木々が、枝野の猟銃から鬼銅を守る傘の役目を担っていた。
「逃げられると思っとるんか!」
響き渡る怒号。身を隠しながらも、反撃の機会を伺った。
その巨躯からは想像もできないほど、縹の動きは俊敏だった。
「散々と人を殺しておいて、自分の身に危険が生じれば逃げ出すのか!卑怯モンが!正々堂々と勝負せい!!」
すばやく移動する。しかし、足元に散らばった落ち葉や枯れ枝をかき分ける音が、
縹にこちらの場所を教えていた。
「おらぁぁっ!!」
そのものが凶器とも呼べる硬い拳が振り抜かれたが、打撃は空を切ってヒュンという音を響かせる。鬼銅は銃口を向けけん制したが、縹がひるむ様子は一切なかった。
「いいか、俺の言うことをよく聞け…!」
「笑止!お前さんの命乞いなど、聞くに値せんわ!!」
2人の距離はもはや数十センチとない。説得を諦めたかのように、鬼銅の拳銃が縹の首に触れる。
「っ!!」
しかし、次の瞬間に吹き飛ばされたのは鬼銅だった。縹の振りかざした拳は鬼銅に命中し、腕のガードをものともせずに彼の身体を後方へと押し倒す。
「ハッタリが通用する相手に思ったか?」
受け身をとりつつ、すかさず距離をとる。
腕の骨は折れていない。しかし、確実に大きなダメージを受けたことを身体が感じ取っていた。
「先刻の一瞬!お前さんは殺せたはずの枝野を前にして発砲しなかった!今一歩確信が持てなかったが、お前さんが森へ逃げ込んだことでようやく繋がったわい!!」
「その拳銃には弾が込められていない!ここへ逃げ込んだのは、枝野の狙撃と儂との肉弾戦が合わさることを嫌ったから!あの場の一瞬で枝野を殺すためには、儂に発砲し動きを止めたうえで逃げる枝野を叩く!それが最適だったろうに!!」
正解だ。すべてが言う通り。
再度拳を受けてよろけた鬼銅に、徹甲弾のような蹴りが突き刺さる。
「チッ…!」
「儂との距離を詰めながら、弾を込めるしかなかったのだろう!肉弾戦でお前に勝ち目などないから!小細工や凶器に頼った、姑息な手口よ!!」
肩に違和感を覚えた。脱臼だ。
地面を転がり何とか攻撃を凌ごうとしたが、縹の動きはそれ以上に素早かった。
ガッチリと五指で動きを封じると、そのまま鬼銅の首をへし折らんばかりの万力を込める。
「ガッ…!?ァッ……!!」
「のぅ、鬼銅。ブラウンは日本語が上手かっただろう?蘇芳は何かと萌葱らと比べられとったが、いつも懸命に机に向かっていただろう…!?」
息ができない。拳銃を持つ指先が冷たく、感覚がなくなっていく。
「紅井は素行も悪く乱暴者だったが、野球にはひたむきに向き合っていただろう!!?」
「……ッ!!」
「なぜ奴らの命を奪えた!?お前さんがアイツらの命を奪う権利を、どうして持っていたという!?否、そんなものは最初から持っておらん!お前は私利私欲のために、自分の命可愛さに仲間を犠牲にした人でなしよ!そして果てには、そんなお前たちに手を差し伸べた枝野の手を払い、これを殺そうとした!!」
ああ、そうだ。コイツの言うとおりだ。
「そんなお前を止められる人間がどこにいる?誰もお前さんを止められんとしたら…儂がその役目を担うしか、ありゃあせんだろうが!!」
「縹ッ…お前が正しいよ。」
乾いた発砲音とともに、縹の身体がぐらりと傾いた。首を抑えていた五指の力が緩む。
※※※
微かに言い争っている声がしたが、それもすぐに聞こえなくなった。
静けさに包まれたこの島の中でも、声が全土に響き渡ることは稀である。
断続的に続いていた発砲音も、縹が飛び出していったのを皮切りに止んだ。
「今…きっと縹くんが戦ってるんだよね。」
「ああ、そうだな。」
海松は心配そうに萌葱の顔を見た。
不安と恐怖の入り混じった、困惑した表情だ。
「縹くん、大丈夫かな…?」
「わからない。だけど、今は信じるしかないだろう。アイツは強い。きっと退けて帰ってくるはずだ。」
結局、萌葱は縹を説得し繋ぎ留めておくことはできなかった。
連続する発砲音を聞いたとき、縹は目の色を変えて飛び出した。
あれを止めたのだとしたら、おそらくその拳はこちらにも向けられていただろう。
縹匡史の危うさはそこにあった。
沈着で正義感に溢れているがゆえに、彼は自分のキャパシティを超える怒りを経験した時に対象を決して許さない。自分が信じて疑わない信念を貫き通すことに躊躇がない。
もし仲間を裏切って、自分の身の安全だけを考えていることを悟られたら。
縹匡史は自分のことを殺すだろうと、萌葱は確信めいたものを感じていた。
『行く前に、一つ聞いてもいいか。』
足早に戦地へ向かおうとしている縹に、萌葱は尋ねてみた。
『お前は仲間を殺した鬼銅のことを許さない。もしこの先で鬼銅を殺したとすれば、今度は渋染のことも殺すんだろう。それは、級友を殺した罪を背負ったことにはならないのか?自分の行動に矛盾がないと、お前は言い切れるのか?』
なぜそんなことを尋ねたのだろう。ただ単に、自分を棚上げして正義を振りかざす彼の鼻を明かしてやろうと思ったのかもしれないし、本当にただの興味本位だったのかもしれない。
その問いを投げかけられた縹は、ほんの一瞬の沈黙の後に答えた。
『矛盾ではない。お前さんの言う通り、儂も同じく罪人よ。
お前さんや奥田の言う通り。殺人を正当化する動機などありはしない。』
とどのつまり、分かったうえで動くのだ。
たとえ自分が血や罪に塗れても、それよりも高潔で曲げられない信念があると、
縹匡史はいうのだろう。
「…滑稽だな。」
萌葱は海松にも聞こえないくらいの小さな声でそう呟いた。
※※※
放たれた弾丸は、縹の左脛を正確に撃ち抜いていた。
首を絞められ、既に戦意すら失っていると思われたその時。意識から完全に外していた
鬼銅の拳銃が、縹に対して火を噴いた。
縹匡史は見誤っていた。鬼銅瞬という存在を。
枝野を追い詰めたあの一瞬、脳や五感が働くよりも刹那、鬼銅の第六感は縹の殺気を感じ取っていた。込められていた弾丸はあと一発。それでも鬼銅は、咄嗟に銃に弾を込める素振りを見せた。
そんな第六感は、縹との肉弾戦の中でも開花した。首筋に銃口を向けた瞬間、直感的に「よけられる」と悟った。完全に避けることは不可能でも、首を掠めた程度でこの男は止まってくれない。たとえ致命傷を与えられたとしても、相打ちになっては意味がない。
脛は弁慶の泣き所。不意打ちで与えられる衝撃として、そして致命傷とならないが故に注意の向けられない部位として、最適の箇所。死と隣り合わせの死闘の中で、鬼銅瞬の第六感はここまで進化していた。
「っおおおぉぉぉ!!!」
「なっ…!?」
三度、咆哮。縹が振るった掌打で、内臓から脳までに激しい衝撃が走る。
視界が一瞬で何回転もしたかに思え、平衡感覚を失った鬼銅の身体はよろけ、再度地面に膝をつく。
「(コイツ…!)」
鬼銅瞬は見誤っていた。縹匡史という生物を。
撃ち抜かれた脛は砕かれ、満足に立ち上がることも出来ぬ重傷。そうでなくとも、
凄まじい激痛でまともに動けるはずもない一撃のはずだった。
「(化け物か、コイツは…!)」
しかし、そんな常識は縹匡史には当てはまらなかった。
与えられた衝撃は、今日の中でも随一の一撃。鬼銅が放った起死回生の銃弾は、縹の臨戦態勢にスイッチを入れるトリガーでしかなかったのだ。
「くそ…!」
吐き気を催しながら立ち上がると、縹もそれに応戦した。片足が使えなくなったとは俄かには信じがたい。それどころか、骨を砕いたはずの左足は大地を踏みしめ、両腕を広げこちらを睨む様はまさに獣のような、熊と相対しているような錯覚を与えた。
「(足を負傷している以上、移動ではこっちが有利なハズ…)」
先ほどまでの俊敏な動きを完全に再現することはできない。
鬼銅は素早く拳銃に弾丸を込める。今度はブラフではない。数発の弾丸を装填してしまえば、
この怪物もそれを凌ぐことは出来ない―――
狙いを定めて、今度こそ急所にと発砲を行う。しかし、縹はそれをも見越していた。
大木のように太い腕は自身の頭、そして胸部を覆い隠し、放たれた弾丸が急所に命中することを回避した。即座に腹部や膝を狙った鬼銅だったが、一瞬の焦りを見逃さず、縹の攻撃は頬に命中する。
「(マズイ…!)」
奥歯が砕ける感覚がした。脳がグルグルと揺れている。もう一度同じ打撃を食らったら、
今度こそ意識が保てなくなる。
「動きが鈍っとるぞ!!」
刹那。鬼銅の右腕を縹の拳が弾く。固く握られていたはずの拳銃は天高く吹き飛ばされ、縹の手は今度こそ鬼銅を捉えた。
「儂が生きている限り、他の仲間には指一本触れさせん!絶対に…絶対にな!!」
鬼銅はほとんど意識を手放していた。
ダメだ。反撃の手立てが全く思い浮かばない。
そもそもこんな怪物が同じ高校生だなんて、何かの間違いではないのか?
こんなゲームに巻き込まれて、敵にこんな怪物を用意されて。
つくづく運がなかったというしかない。
鬼銅は最後の悪あがきをしようと、必死に両手をまさぐり地面に掌を這わせた。
なんでもいい。木の枝でも枯れ葉でも、何か掴んで奴の目や顔を狙え。
拘束から逃れ、再び距離をとって応戦しろ。弾き飛ばされた拳銃を拾うんだ。
何か、何でもいい。何か――――――
その時、硬く冷たい何かが鬼銅の指先に触れた。
触れた感覚や形状は、これまでの人生で味わったはずもない。しかし研ぎ澄まされた鬼銅の第六感は、何をどのように扱えばいいのか、初めから知っているようだった。
「っ!?」
最後の力を振り絞り、鬼銅は手に持っていた「それ」を縹の口に押し込んだ。指をかみちぎらんとする縹を抑え同時に勢いよく手を引き抜くと、鼓膜を破らんばかりの爆音が、周囲に響き渡った。
「…ハァ!ハァ…ッゲホッ!」
今度こそ、完全に拘束は解かれた。点滅する視界がぼんやりと色を帯びていくと同時に、
膝をついて動かなくなっている縹の姿が浮かんできた。
「…どうやら、つくづく運がなかったのはお前のほうだったらしい。」
呼びかけに縹は答えなかった。
その頭は真っ赤に染まり、周囲には肉片や飛び出た眼球が散らばっている。
鬼銅が掴んだそれは、手榴弾だった。森の中に落とし物のように転がっていた、
このゲームの武器の一つ。最後の最後になって、運は鬼銅瞬に味方をした。
その時、ふと奇妙な感覚に陥る。目の前で縹が死んでいるはずなのに、死亡のアナウンスが一行に流れない。
「…!」
鬼銅の疑問はすぐに解消された。顔面を吹き飛ばされクレーター状態になった縹の身体が、ゆっくり立ち上がろうと小刻みに震えている。いまだに音を察知しているのか、それとも本能なのか。
縹の身体はゆっくりと鬼銅の方へ向き直り、弱々しくその腕を伸ばした。
「…地上最強の男、だな。」
しかし、そんな縹の身体もやがて動きを止め、今度こそ地面にドサリと倒れこんだ。
激しい疲労と激痛の中で、鬼銅の耳に縹匡史の死亡アナウンスが聞こえてきた。
縹匡史くん。クソ強いです。生徒の中で一番強いです。
鬼銅くんは運が良かったといえますね。運が味方しなければ、
絶対に勝てなかったと思います。




