第2話 1からのやり直し
首都・ポルトラの酒場に、シェーシャとサブマスターであるファファがいた。
テーブルには遅めの朝食・目玉焼きと焼いた塩漬け肉が乗った皿が。ファファは口に運ぼうとしたフォークの手を止め、対面に座るシェーシャの顔を覗き込んだ。
「――それ、本気で言ってるの?」
「本気よ。今のままじゃ何も変わらない、一度振り返る必要があると分かったの」
対面に座るシェーシャは、肉をつき刺したフォークを口へと運び続ける。
「言っていることは分かるけど、なにも一からメイジをやり直さなくても……」
「何年もかかるわけではないわ。道のりは既に知ってるんだし」
それは最近、ずっと考えていたことだった。
ライバルであるアナンタは魔法威力に特化している。
彼女に対抗するため、自身は放たれる前に放つ“高速詠唱”を磨き続けてきたのだが、敗北を重ねたことで、それは正解であり間違でもあったと気付いたのだ。
――負けないためのスタイルでは、よくて並ぶだけ
対抗している間は、決してその距離を詰められない。
一辺倒な攻め方ではなく、追い越し、追わせるには更なる手札が必要だ、と。
「だから、同盟の活動を停止するなんて言いだしたのね」
「半年もあれば今と、いえ、それ以上になってみせる。だからしばらく、貴女にクランをお願いしたいの」
「まぁそれはいいんだけどさ」
ファファはフォークで目玉焼きの黄身を潰し、手持ち無沙汰に皿に線を描く。
「いったい、どういう風の吹き回しなの。これまでのシェーシャは、いつも高慢ちきで、気だるげな息を吐く女エルフだったのに」
そんな風に見られてたのね、とシェーシャは苦笑した。
「敗北が、私のお尻を叩いたってことかしら」
「お尻を突かれた、じゃなくて? やり直すと言ってるけど、本当は踊り子になって尻穴奴隷になろうとか――」
「馬鹿っ」
目くじらを立てるエルフに、ファファはからからと笑う。
「ま、やるだけやってみなよ。留守中の部屋は時々見ておくからさ。えぇっと、メイジギルドは北部のスターブルだから、五日、六日……」
「転移魔法があるんだし、そこまでしなくていいわよ。まぁ二、三日ね」
「ほいほい。任せといて」
このような話ができるのは彼女だけ。
話は食事を終えると同時に終わり、互いに「頑張ってね」と声を掛け合い、席を立つのだった。
◇
山岳都市・スターブル――。
首都から北に五日の場所にあり、一年のほとんどが霧に覆われているため、〈霧の街〉とも呼ばれている。
そのため岩山の形状に合わせて建ち並ぶ建物は、無骨な石造りのもの。大きさも向きも不均一で、道は複雑に入り組んでいる。
(この霧に混じる薬草の匂い。懐かしいわね)
シェーシャは鼻から大きく息を吸い込む。
帰りに何か買って帰ろうかしらと商店通りを抜け、そのまま街の外れに――ひときわ高い岩山の頂にそびえる、メイジギルドこと〈魔法学院〉に繋がる山道を歩き始めた。
霧に濡れた石畳の道。長い時間をかけ、ようやく入り口門に差し掛かると、一つ息を整え、足を踏み入れる。
すると、入るなり眉が持ち上がった。
「――あら、絨毯の色が変わったのね」
何メートルあるのか分からない、高いアーチ状の天井。
元はくすんだ赤色だったロビーの絨毯は、今は鮮やかな紺色に変わり、等間隔に並ぶ大きな柱が荘重な空間を演出している。
各所に火が焚かれていて、空気はほんのりと暖かい。
『は、ハイ・ウィザードだ』
『すご……初めて見た……』
ハイ・ウィザードのクラスは、メイジの中でも最高位にあたる。
シェーシャが黒色の外套を揺らし歩けば、生徒たちは気圧されるかのように廊下の端にくっつき、畏怖と羨望の目でエルフを見送り続けた。
(権威たれ、なんて誰が言い出したのかしら)
昂然自律を我とせよ――その権威の相応しい立ち居振る舞いをし、規範となれ。上に立つ者は、めったやたらに頭を下げてはならない。己の非のみにせよ。
建立からエルフが主権で動いていたためか、学院の規則も独特であった。
もともと人間に下げる頭などないが、と長い階段に足をかける。
『サーチッ、サーチッ』
長い階段を上がると、どこからか魔法を唱える声が聞こえてきた。
どこかと目で探ってみれば、目指す場所の近くにある【魔法訓練室】とプレートが掲げられた部屋があった。
(ああ、補修中か。……なんで探知の魔法なのに、詠唱は読心術なのかしら?)
ここに通うのも当然ね、と肩をすくめた。
読心とは名ばかりのもので、実際は頭に思った一言を口に出させるだけ。それも単純な者にしか通用しない、ショボい魔法だ。
もっと有用なものにすればいいのに、と思いながら、視線をすっと横に動かした。
「さて……まだご存命かしら」
訓練室のすぐ近くにそびえる、赤い扉。
厳めしいそれを前にシェーシャは一つ深呼吸をし、そっと右手を掲げる。――小さくノックしたつもりが、意外と大きく響いた。
『うむ。入りなさい』
そっと扉を開くと、そこには古びたローブに身を包む小柄な老人が一人。
禿頭に立派に蓄えられた白髭、シェーシャと同じ尖り耳をしている。
「老師。お久しぶりです」
「ふぉっふぉ、これは珍しいお客さんだ」
かつては老いを嘆き、蔑むエルフが多かった。
だがそれは長い寿命を持ち、エルフの郷にいれば老いと縁のなかった時代の話。長い寿命が短くなり、人間よりも少し長い程度になった現在では、老いを楽しむ者も増えている。
暖かな眼差しを向ける老人は、その先駆けと言える存在だった。
「老師、私は――」
「分かっておる。輪廻をしたいのじゃろう?」
言い当てられ瞠目するシェーシャに、老人は朗らかに笑った。
「そろそろ壁にぶち当たる頃だと思っておった。エルフは高い知恵で対応にあたるものじゃが、内に秘めたる欲はドワーフ以上じゃからの」
朗らかに笑う老師に、かつての教え子は気恥ずかしそうに顔を俯かせた。
それは転職の一種で、今のクラスの一からやり直すもの。
聞けば何の変哲もない宗旨替えだが、実際にこれを選択するものは少ない。
……と言うのも、
「もう少し、老いてからでもよくないかの? お前さんはもう儂を超え、はるか高みにおる。生き急ぎ、無為に若さを浪費する必要もなかろうて」
肉体への負担が強く、七つ年を取るのと同じくらい衰弱するのである。
シェーシャは覚悟の上……ではなく、とっておきの秘策があった。
「家より〈黄金の果実〉を取り寄せましたので」
「ふぉっふぉ、抜け目ないこと。長生きの実を用意しておったか」
エルフ郷にのみ自生するその果実は、一つ食べれば十年若返るとされている。
一年に一つしか採れない上、財源ともなる非常に高価なもの。実家に頼み込み、何とか送ってもらったのだ。
「理由を聞いてもいいかの」
隣から『サーチ、サーチ』と、相変わらず間違った魔法の声が聞こえる。
魔法には純度のようなものがあり、慎重に詠唱するほどそれが増し、威力が上昇する。しかし、シェーシャは詠唱速度をとにかく優先したため、魔法が安定しない、不確定要素を抱えることになった。
敗北を重ね、目を背けてきた問題を直視せねばならないと覚悟を決めたのだ。
(駒を動かすのも同じ……。あのクソ忍者のおかげなんて思いたくないけど、連中はそれに気づいてたのよね)
それにしても方法を選べ、と胸の中で悪態づく。
(ファファもファファよ。よりにもよって私が――)
つかの間の沈黙を挟み、それは、と口を開いた。
『サーチ!』
「私は『性奴隷になり』たく――」
「ここではなく娼館に行け」
「違う! 魔法を磨いてさらなる高みを目指し、たいのです!」
冷たい老師の視線に、顔を真っ赤にして反論するシェーシャは、
「落第しろ、下手くそッ!」
杖を握り隣の部屋に向かって思い切り振った。
『サ――あびゃーッ!?』
隣から、どん、と爆発音と地響きと悲鳴が起こる。
「魔法の強化より先に、その短気・単純さをどうにかするべきかではないかのう……」
扉の外で『なんだなんだ』と騒がしくなるのを聞きながら、老師は呆れ顔で髭を撫で続けていた。