第1話 また追い出されました
空が薄く白み始めた頃、女は目を覚ました。
ぐうっと身体を伸ばすと、ベッド脇から長い脚を出して立ち上がる。目覚めきっていない身を包むシルクのネグリジェが、薄ぐらい部屋の中でキラキラと輝いていた。
女はキッチンへ。釜に灯る火、鍋からくゆる湯気――今日という日が、とてもいい日になりそうだと思わせてくれる、暖かな光景が迎えた。
今日はダージリンにしようかしら。
寝癖のついた髪を梳かしながら、女は茶葉を用意する。プラチナブロンドの髪から、エルフの尖った耳が覗いていた。
「ふう……」
紅茶を手に、女はテーブルに。
正面には、コーヒーを片手に持つ黒装束の男。顔まで隠しているそれが用意したと思われる、少し炙られ芳ばしく香るビスケットが、二人の間に置かれている。
男と一緒に暮らしているわけではない。恥とも思っていないが、ある時から男っ気が一切無いのだ。
香り立つ紅茶をそっと啜ると、女は小さく息を吐いた。
「――馬鹿たれェッ!」
「なかなか引っ張ったでござる」
女はシェーシャ、男は忍者・隼人であった。
「何しれっと人の部屋に上がり込んで、優雅な朝を演出してんのよ!」
「ちょっと用事があったでござる」
言いながらビスケットに手を伸ばす。
黒覆面の口元に切れ目があるのか、器用にそれを口にしている。
「用って何よ」
「十蔵殿をまた追い出したことでござる」
「当たり前でしょ。とんでもなく酷い目に遭ったんだから」
追放を許したその日。
尻に一撃を喰らったシェーシャは、石畳の上で悶絶した。
十蔵はすぐに姿を消し、何だ何だと人が集まり、自分一人が大恥をかいたのだ。
「敵に回るかもしれぬでござるよ」
「上等よ。……ってか、お尻へのそれは、やらないよう釘さしてあるし」
「忍びの言葉を信用してはならぬでござる。今度はひねりを加えた新技〈女殺し〉を披露してくるやも――」
「やった瞬間、あんたらの故郷・東の国を消すって言っておきなさい」
睨むシェーシャの目は、本気だった。
しかし隼人は動じず、それともう一つ、と続ける。
「なによ」
「同盟の活動停止ってのは本当でござるか?」
その通りよ、とシェーシャは頷いた。
四日前。同盟に連なるクランのマスターを集め、しばらくの充電期間を設けると告げた。
突然の発表に驚かれたものの、考え直さないかと引き留める者はおらず。それは、マスターとしての器量のなさを突きつけられた瞬間でもあった。
「私も、考えたいことがあるのよ」
「まぁそれはいいでござるが、本人の口から言わねば伝わらぬこともあるでござるよ」
「私が、何を言うのよ」
「ゴメンナサイ、でござる。同盟のみなに厳しくあたったことに対し、そんなこともあったね、と時薬を、時間による解決を図るのは悪手でござるよ」
「……」
シェーシャは押し黙った。
それは、エルフが抱える問題――高い自尊心が頭を下げることを許さず、時薬を多用するのだ。ギクシャクしたまま、数百年過ごしてきた歴史まであるほど。
また人間を衆愚と見る者も多く。
シェーシャもこれに違わず、頭を下げると考えるだけで胃液が出そうになった。
「ま、まぁ、そのうちね」
「時が経つにつれ、傷は癒えにくくなるでござるよ」
エルフの女は返事をせず。
目を逸らしながら、黙って紅茶を啜り続ける。
◇
港町・ワジ――。
クラン・ディストリクトが集う酒場の中に、十蔵の姿があった。
再び追い出されてからひと月。妹・琴を頼り、ここに身を寄せている。
「兄上。いつまでおられるつもりですか」
しかしこの日。
兄・十蔵を見つけるなり、にべもない物言いで歩み寄ってきたのである。
「用が済めば兄すら不要か、妹よ」
「太平の世に必要なのは文官、武官はもはや不要でございます」
「筆なぞ、理性を失った刀には無力であるぞ」
「そういう考えだからこそ。示威など害でしかありませぬ」
「お前の考えでは、太平は一時のもので終わる」
十蔵はやれやれと首を振る。
追い出したい理由は他に、夫になることが正式に決定したジェラルドと睦み合うのに、兄の存在が邪魔なのだ。
長く居座るつもりもなかったので、出て行けと言われるならば従うまで。
仕方あるまい、と十蔵は言って立ち上がると、琴は更に言葉を追い立てた。
「人恋しいならば、同盟長とやらに頭を下げてくださいまし」
「どうしてそうなる」
「まったく女の尻に悪戯など、本当に兄上は昔から――」
「ええい、説教はいい」
十蔵が鬱陶しげに手を振り払うと、琴は小さく肩をすくめた。
「して、兄上があの者に執着する理由は、何でございましょう」
「お前が考え、期待しているようなことはない」
「あら。しかし隼人殿を傍に置くには、何かあってのこと」
「臆断よ。あれにも、そろそろ任を与えていいかと思ったまでのこと」
そうですか、と答える琴。
忍びの娘ゆえか、兄の言葉も信用していないようだ。
琴の小言は長い。妹が目線を反らした隙に、十蔵はさっと姿を消した。
「それならよいのですが、犬飼家より書状が――って、兄上?」
キョロキョロと周囲を見渡すも、既に逃げた兄に小さく息を吐く。
隼人殿に頼んでおきましょう、と言い、封書を懐に押し戻すのだった。