第11話 刺客は犬と共にやってくる
寂夜に響く虫の奏でに、人は晩夏を知る。
雨が降らないと思った矢先のこと、にわかに空に厚い雲がかかりだし、ぽつり、ぽつり、と大地を潤し始めた。数日ぶりの晴れ間を迎えた時には、日差しはもうすっかり衰えていた。
「やっと寝苦しさから解放されますね」
使用人らは同意を求めてくるのだが、こちらは魔法で涼をとっていたので、適当に「そうね」と話を合わせるしかない。
それから幾日か過ぎた、迎秋を迎える夜更けの頃。
シェーシャの下に“鼠”と名乗る忍びの伝令が現れ、大陸からの船が着港したと報せが届けられた。
――恐らく父が乗っている
絶縁状態であれど一応は親子。それに絶縁と言っても、今の状況をそう表してるようなもので、実際は、廃嫡や家督の継承権などの放棄はまだしていない。
この機に、結婚する意思があることを父に伝え、そして妹・マナサに家督を継承すると明言し、自身の位置をハッキリさせる。
ただ、面倒なのはそこからだ。
まず婚約者を同席させるか。エルフ郷にある書類は残すのかどうか。産まれる子はハーフエルフの組織に入れるのか、など。父の小言をそのつど聞かねばならないのかと思うと、今から鬱々とした気持ちになる。
港町から屋敷まで五日くらいだ。
迎える準備は前日でいいかと思いながら、布団に潜ったすぐのこと――屋敷の外から犬の遠吠えが聞こえ、ぱちりと目を開いた。
「……なに?」
シェーシャは眉を寄せ、身体を起こした。
人間が聞けばただの遠吠えであるが、エルフや妖精族ら〈森の住民〉は少し違ってくる。
――アク ギー ヲーフ
それは〈獣の言葉〉だった。
今や使用するのは懐古主義者の変人か、時代に取り残された者しか使わないような、記憶の奥底にある初等教育で使用した教科書を開かねばならないほど古い言語である。
アクは『行く』、ギーは『いま』、しかしヲーフとは何なのか?
(確か最後に来るのは名詞よね……)
尖った耳をぴくぴくさせながら、シェーシャは考える。
この地で〈獣の言葉〉を使用するような存在は一つだけ。言葉が近いところから推察するに、ヲーフは『ウォルフ』が訛ったものではないか。
「白牙……がこっちにくる?」
それから間も無く。どんどんと門戸を叩く音が屋敷全体に轟いた。
シェーシャは大慌てで寝着のまま玄関へ。屋根を借りる立場の者が、しかもこんな夜更けに人を招くなど言語道断なこと。
なんだなんだと集まる使用人たちを掻き分け。
すると予想通り、赤色の着物をはだけた獣人・白牙が土間に。しかしもう一人、プラチナブロンドの髪を三つ編みにした、若草色のワンピース姿の少女――
「ま、マナサッ!?」
「お姉様っ!」
何とそれは、エルフの郷にいるはずの妹・マナサだったのである。
どちらからともなく。妹は花のような笑顔と共に、姉の胸に収まっていた。
「ああ……っ、お久しぶりですお姉様! ようやくお会いすることが……!」
「うんうん! ……って、そうじゃないっ、どうしてあなたが、ここにいるのよ!?」
マナサは抱きついたまま、顔だけを上げた。
二年会わなかっただけなのに、更に可憐さに磨きがかかったようだ。
「お姉様がついにご成婚されると聞いて、お祝いに来ましたのっ」
「ご、ご成婚って、それはまぁほぼ確定だけど……。それで、お父様も、もしかして?」
シェーシャは視線を移し、首を伸ばして玄関扉の向こうを確かめる。
しかしマナサは、「いーえー」と、頭をふりふり。
「大陸の港に置いてきましたー」
「港って……まさか、ここまで一人で来たってのっ!?」
「はいー♪ 以前、うちに来られた忍者さんの妹と名乗るご婦人が、『船の手配してあげますので』と仰ってー、わたし甘えちゃいましたー」
えへへ、と再び顔を胸に擦りつける妹。
最後の里帰りから二年。初めて人間界に足を踏み入れる妹に対し、過保護・過干渉な父の姿が目に浮かぶ。
(兄が兄なら、妹も妹ね。兄妹揃って余計なことをしてくれるわ……。今頃、父は半狂乱になってるわよ……)
港では白牙が待っており、その背に乗って届けてもらった。
経緯を上機嫌に話すマナサであるが、姉からすれば、泳いででもこちらに向かいかねない父が頭痛の種だ。
到着した時、どれほど荒れ狂うのか。話し合いも半年以上に及ぶだろう。
そう思うだけで、シェーシャはこの国を去りたくなった。
「はあ……まあいいわ。屋敷の者たちにも迷惑かけるし、今日はもう休みなさい。事情を話して部屋を用意してもらうから」
「私、お姉様と寝たいですっ、いいでしょうっ」
「ああ、はいはい」
妹の頭をぽんぽんと叩きながら、シェーシャは生暖かい眼差しを向ける狼族に視線を移す。
「担いで走れるなら、私にもしなさいよ。あの駕籠しんどかったのよ」
「酒呑んでおったからな。飲酒配達は厳禁だ」
「娼館で酒呑む放蕩犬のくせに」
「……お嬢には言うなよ?」
そして今度は、ポカンとしたままの使用人たちに向き直った。
異なる世界の言語で話していたので、事情が分かっていないのだ。
「この子、私の妹なの」
手短にそうとだけ伝え、姉はべったり甘える妹を抱えるようにして、自室へと戻るのであった。
◇
薄明かりの頃に目を開いたシェーシャは、片ひじをつき、無意識に微笑みを浮かべながら、隣で寝息をたてる妹の顔を覗き込んだ。
「無邪気な顔しちゃって」
寝具の中は暑かったが、心地良い時間だった。
共に寝るのは二十年ぶりだと、妹は言う。
その歳月を想えば、寝顔に“大人”が見え隠れしているのも無理はない。
小さくため息を吐いた姉・シェーシャは、指先でそっと、涙で濡らした睫毛を撫でてやった。
――お姉様が結婚したら、もうこうして寝られないのですね
そう言うと突然、眼を滲ませ始めたのだ。
「早く大人になりなさいな。お姉様はいつまでも家にいないのよ」
記憶の中の妹との差異を知るほど、寂としたものが胸を苛む。
今この時間を大切にしよう。妹がむずがって目覚めるまでずっと、姉はその可愛らしい寝顔を愛で続ける。
翌朝から、マナサは姉にべったりだった。
食事や身支度、果てはトイレまで――昔からそうだったわね、とシェーシャは苦笑しつつも、それを懐かしむかのように妹との時間を過ごした。
妹の興味はやはり婚約者・九郎にあり、質問はそのことばかりである。
「――私、たとえこの国の王子様であっても、お姉様を泣かせたら許しませんっ」
「ふふっ、頼もしいわ。だけど私は泣かないわよ? 泣かせる方なんだから」
「流石はお姉様ですっ」
その九郎が屋敷に戻ってきたのは、庭を散策していた時のこと。
太陽が高く、燦々と照りつける日差しの中、使用人が主人の戻りを告げてから間もなく、十蔵と隼人が屋敷の黒門をくぐるのが見えた。どちらも着物姿であるが、隼人は覆面をしている。
「今日はござるも一緒なのね」
「警護の交代日でござる。白牙殿から聞いて、ついてきたでござるよ」
隼人は言い、生け垣に隠れ、顔だけ覗かせるマナサに目を向けた。
「ござるさん、お久しぶりですー」
「マナサ殿、お久しぶりでござる! 息災そうでござるな」
「はいー。それと十蔵さんも、姉がお世話になっています」
世話されてないと唇を尖らせる姉・シェーシャをよそに、十蔵は「うむ」と頷いて応えた。
そしてマナサは首を伸ばし、つま先を伸ばし。顔なじみの忍者越しに後ろを確かめる。今まさに、赤い着物姿の青年が黒門をくぐるところだった。
忍者二人、主君のために道を空ける。
それに気づいたシェーシャも、一つ咳払いをし、居住まいを正した。
せっかく妹がきたのだ。当人にも伝えていないプロポーズの返事をここでし、驚かせてやろう。
「マナサ、こちらが私の――」
姉は妹に目を向ける。
その妹はあっと口を開いたまま、青年・九郎と見つめている。
「……マナサ?」
そうして九郎も、
「……九郎?」
口を開いたままマナサを見つめている。
どうしたことか。忍者二人も様子がおかしいことに気づいたらしい。
「ううむ。何やら『運命の出会い』との言葉が相応しい様子でござるよ」
運命の出会い……?
シェーシャは考えてすぐ、“あること”に思い当たった。
「マナサッ! あなた郷を出るとき、目薬さしたッ?」
肩を掴んで揺さぶれば、妹はやっと、
「いーえー。お父様は『〈乙女の瞳〉なんて迷信だ』とー……ああ……なんて素敵なかた……」
「マナサ見ちゃダメッ! 九郎じゃなくて私を見るのよッ!」
「クロウ……。クロウと仰るのですねー……」
「ちょっとマナサッ、聞いてるッ!?」
九郎に陶酔する妹の顔をペチペチ叩く。
そんな姉が鬱陶しくなったのか、マナサは両手ではね除け、一歩、二歩、九郎に歩み寄る。
九郎もまた、同様に前へ――二人は身体を密接させ、互いの顔を見つめ続ける。
「あ、あの、よければ屋敷に……」
「はい……どこへなりとも……」
姉は追いすがり、妹のワンピースを掴んで引っ張るも「邪魔しないでください」と邪険に押しのける。
九郎もまた「シェーシャ様。話があるなら後日、聞きますから」と、鬱陶しげな眼差しをシェーシャに向ける。
その様子は、まるで別人に入れ替わったかのようであった。
「シェーシャの妹は、くのいちの術でも覚えていたのか?」
「妹に背後から刺された、と言うのは分かるでござるが……はて、何ゆえに?」
態度が急変した二人に、忍者たちも顔を見合わるだけ。
唯一、事情を知る姉・シェーシャはと言えば、あああ、と玄関口で打ちひしがれ続けている。
「〈乙女の瞳〉はこうなるからあああ……ッ!」




