第7話 追わせる女
縁側で本を読んでいたシェーシャは、ふと顔を上げた。
甘雨に喜ぶ常緑の生け垣が、その向こうに黒い門扉が静かに佇む。先ほどと変わらぬ光景に、これで何度目かと小さな息を吐いた。
上屋敷の離れを与えられてから二週間――。
若君はすっかり熱を上げ、菓子や花が届けられることは当たり前に、川辺の花が綺麗だから、天気がいいからなどと、あれこれ理由をつけてはシェーシャに会いにやってくる。呆れるほどだが、そのマメさがシェーシャを喜ばせた。
シェーシャもまた、この国と夏に慣れつつ。
今では浴衣姿の方が楽になり、異人が住まうことに困惑していた使用人たちも、『緑豊かな庭を背にする姿はとても美しく、気がつけばその光景を目に刻み込んでいます』と評判を集めるまでになっていた。
(この私が、人間に焦がれる日がくるなんてね)
手にした本に目を戻す。その口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
ふいに人の気配を感じ、弾む心を抑えず顔を上げた。
「……なあんだ」
そこいたのは、ほろりと苦く笑う袴姿の十蔵だった。
「若と思わせてすまないな」
「別に」
シェーシャは本を閉じると、小さく伸びをした。
「私は誰も待ちはしないわよ」
九郎に仕えている忍びなので、この屋敷に十蔵が現れるのは当然のこと。
気づいた女中が茶を運んでくると、十蔵はシェーシャの横に腰掛け、二人で風に揺れる庭の草木を眺めながら、そっと茶を口にする。
つかの間、穏やかな時間が流れた。
不快ではない沈黙であったが、シェーシャには少し気になることがあった。
「……アンタ、何かあったの?」
お茶受けの薄焼きを取るついでに、十蔵の横顔をチラリと検める。
いつもと違う気がしたからだ。
む、と眉を少し持ち上げた十蔵は「何もないが」と不思議そうに言うも、茶を飲み干し、ひと息吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、強いて挙げるならば――お前の目に、この国はどう映っている?」
突然の問いかけに顎を小さく引いたものの、シェーシャは「そうねえ」と頤に指をかけた。
「上っ面、かしらね。上手くは言えないけれど、無理に平和を迎えてる感じ」
十蔵は「そうだろうな」と鷹揚に腕を組んだ。
今の普段通りと言うべきか、いつもの忍びの顔に戻っている。
先ほどの物憂げな顔は何だったのか。
少し気になりつつも、十蔵の言葉を待った。
「今この国は、空洞の上に泰平を敷いているだけに過ぎん」
「魔物との戦いに終止符を打ち、それを実感する間も無いうちに内乱を起こした。魔物か戦争、どちらの平和を迎えてるか分からない状態なんでしょ」
「そこまで察していたか」
シェーシャは、ふふんと鼻を鳴らす。
「ここに来てずっと、魔物がいないことに違和感あるんだもの。この国の“人間”の根っこに、未だ魔物の存在が燻ってるんじゃないの」
「用意された平和に住まわされている、と私は見ている」
同感ね、と茶を啜るシェーシャ。
そして薄焼きをもう一枚、口にすると、
「――で、それが九郎と私をくっつけたい理由なのかしら」
「それは以前に話したことだ」
「嘘よ。政略のためなら、私である必要はないもの」
互いに庭を見ながら。
一拍を置き、十蔵は「うむ」と頷いた。
「私は施政については明るくない。しかし上様が提案された、貨幣の流通量増加、貧者救済に銭を与えるなどの案は間違いだと思っている」
「大間違いよ。そんなことしたら物価暴騰、雇用側は賃金を下げ、救済金があるならばと下層の住人は働くなる。国力が一気に落ちるわ」
「しかし、それを止められる者がいないのだ」
なんで、とシェーシャは眉根を寄せた。
「我々、忍びが消しているからな」
「ああ。アンタはそう言う側の人間だったわね」
「権力に巻かれることが賢者の選択――そんな者が居座り続ければ、あと十年、二十年で、この国は滅ぶだろう」
「なら、エルフの経験則で教えてあげる。本来ならば、アンタら暗部が動かなきゃならないの。馬鹿者の命令に従う、己の愚かさを知りなさい」
強い口調に、その通りだ、と十蔵は何度も頷く。
いかにもその言葉を待っていたかのように。
「明日の朝、迎えの駕籠がくる」
「……はあ?」
「若がお呼びだ」
九郎が、と呟き理由を探るも、十蔵はそのままスッと姿を消した。
翌日の早朝。十蔵の言葉の通り、屋敷に格式のある黒駕籠が入る。
やはり駕籠は好きになれそうにない。乗り込んだシェーシャは、気持ち悪さを我慢しながらそう思い続けた。
駕籠は城門をくぐった中庭で降り、そのまま廓を通って城内へ。控えの間に放り込まれたかと思うと今度はそこで待機、一向に呼びにくる気配はなく、ただひたすら無為な時間を過ごし続けていた。
――何とふしだらな恰好だ
――異人の遊女が紛れ込んだのか? 誰ぞ、追い返せ
――耳が尖っておるし、見世物ではないのか? 大陸では女が裸になる踊りがあるとか
道すがら。城勤めの者たちはレオタードスーツ姿のエルフを見て、聞こえよがしに囁き合った。
(女王になったら、まずは連中を処刑しようかしらね)
そんな企てをしながら口元に茶を運ぶも、器の中はすっかり空になり。底に残った水滴は、艶やかな唇を濡らしただけであった。
鼻を鳴らしながら器を皿に戻し、薄ぼんやりと明るい障子戸を眺める。
(暇だし、今のうちに城でも見ておこうかしら)
黒杖を取り上げられたので、人差し指を宙にかざす。
杖は放たれる魔力の安定化も兼ねている。もし一般的な〈魔術師〉が杖無しで魔法をした場合、魔力によって腕が焼け、最悪は二度と腕が使えなくなってしまうほどの危険な行為だ。
それが可能なのは、シェーシャがエルフであることと、『横着』と言う研鑽を重ねてきたためである。
【土よ――】
瞼の裏に、箱を重ねたような五段構造の建物が浮かぶ。
元は山などの地脈を探る魔法で、それを応用したものだ。
城の廊下は幅員三メートルほどと広く、部屋の配置や構造に合わせ、複雑に折れ曲り入り組んでいる。部屋の細部までは分からないが、自分と同じく待たされている者がいるらしい。
(建築学には疎いけど、壁とか大陸の技術が使われてるわね。交流はあったみたいだし、改修工事の際に導入したのかしら?)
もう少し詳しく――魔法の効果をあげたその時のこと。
突如、城のひと部屋が闇に呑まれた。
「これってまさか……」
魔力が安定しないから見えないのではない。
一点だけ真っ黒に塗り潰されたそれは、
(やはり〈魔法妨害板〉ね……あの男が持ち込んだのかしら)
魔法の発展に伴って重宝されるようになり、昨今では〈模擬戦〉で使用される耐魔法防具の材料として人気が高い。ドワーフが開発した金属板なので、エルフのシェーシャは使用していない。
詳しく調査しようとするも、障子戸の向こうから足音が聞こえたので、シェーシャは魔法を打ち切り、居住まいを正す。
灰色の人影が障子戸の前に止まった。
それがすっと横にスライドすると、色と紫の矢絣模様の着物を着た女中が恭しく頭を下げる。
「お待たせ致しました。これより案内させて頂きます」
「そう。頼むわね」
再び廊下に出ると、好奇心にかられたであろう男たちが、視線をシェーシャに固定しながらすれ違ってゆく。
好奇、好色、嫌悪、蔑み……。
みな裃をつけているが、中にはとてつもなく長い袴の裾を引きずりながら歩く者も。彼らは為政者のようであったが、滑りやすい床に注意を払いながら進むさまは、なんとも滑稽だった。
(四角の車輪を好むって意味が、これほどまでとはね)
この城・国の為政者たちは使えない。
同時に、十蔵はいかに柔軟な姿勢なのかと知らしめられた気がした。
「――シェーシャ殿。よくぞいらして下さった」
広い畳敷きの間に通されたかと思えば、そこでまた待つ。
目の前の一段高い台や、渓谷を描いた水墨画。窓から覗く入道雲を眺め、それにも飽きてきた頃になってやっと、九郎が姿を現すのだった。
「待たせすぎ」
櫛を通した総髪。紺色の着物に、水色の裃姿の青年は普段よりも一段と凛々しく見え、胸がときめくのを抑えきれない。
当の九郎はと言えば、シェーシャの咎に、引き締めた表情を苦笑いに変えてしまう。
「申し訳ない。これが、この国のならわしでして」
「この国は無駄が多すぎよ。伝統もいいけど効率化も図らないと、どんどん取り残されてゆくわ」
九郎は「そうなのです」と、困ったように答えた。
「大陸への門を開いたと言うのに、慣習に囚われた人が追い返してしまう」
それどころか、
「私の父は、武力で大陸を支配しようしている」
「支配って……」
シェーシャは顎に指をかけ、逡巡した。
まさか昨日、十蔵が言っていたことと関係が。
「私が見たところ、魔法で一気に蒸発しそうだけれど……大陸と渡り合える戦力が、ほかにあると言うの?」
「いえ……シェーシャ様の見立て通りです。それどころか、戦える者たちも度重なった戦に疲弊し、厭戦気分まで漂っている」
九郎は扇子を開いては閉じ、手の中で弄び続ける。
「これは放埒する父・永重も承知しております。ゆえに忍び――十蔵を大陸に送ったのです」
あっ、とシェーシャは口に手をやった。
まず頭に浮かんだのは妖精族のこと。彼女らは忍者・十蔵の助力を経て、諍いの原因かつ優位性を得る〈女王の宝冠〉を取り返している。
しかし問題は完全に解決したわけではなく。停戦状態にあり、それは王宮にエルフが入り込んだことで、人間と対立をする妖精族を抑えている状態なのである。
もし彼女らが、忍者の属する東の国の決起に応じれば――
「エルフは妖精族に味方するしか……人間と対立する結果に……」
それだけではない。大陸の商業都市〈ワジ〉は、十蔵の妹・琴が領主の嫡男と結ばれ、実質支配下に置いている。
また騎士団を束ねるのは、かつての恋敵が率いたギルドの騎士・ガデム。――これは体格と剣の才能に恵まれただけの男で、努力を嫌う怠惰な好色漢ともなれば指導者にはそぐわず、兵たちの質が落ちる一方と聞く。
城の財政、軍隊の弱体化、内応工作……つまるところ、シロアリが大黒柱を食い潰すが如く、王宮は力を大きく削がれている。
「万が一……いえ、王を討てる可能性は十分にある。だけど、それを実行したら大陸は終わりよ」
「仰る通り。大陸の妖たちがまだ討伐されていない中で、人間の組織が崩れればどうなるか――人間が、連中の手助けをしてしまうことになる。ゆえに私は、嫡男として、逆心の将となってでも父を食い止めねばならない」
九郎はため息をつき、しかし、と首を振った。
「すべては十蔵が頼りだ」
「気になってたんだけど……アイツってそんなに重要な存在なの?」
「私の手どころか足袋まで汚れていないのは、血だまりに浮かぶ影の上に立っているため。中でも〈無月の十蔵〉は、忍びの中でも類を見ない存在と言える」
そう言って立ち上がると、すり足で畳を鳴らしながらシェーシャの下へ。
そして片膝立ちに、その手を取った。
「私は非力だ。刀を持って妖を討ったことがあっても、それは家臣たちによって与えられたものばかり。――シェーシャ様。どうか私と共に、父と戦って頂けませぬか」
それは、いわゆるプロポーズか。
その真剣な眼差しに、シェーシャも顔が熱くなるのを覚えたものの、
「……少し、お時間を頂けないでしょうか」
と言って。余裕を滲ませた微笑みを向けるのだった。




