第4話 気づかぬもの
その一週間後のこと――。
十蔵は、クラン・ディストリクトの者たちと共に、西のフォーレスの森を抜けた平野へとやって来ていた。
ここは主に〈グリーン・ラプトル〉と呼ばれる地竜の幼体が多く徘徊し、中級の冒険者たちの腕試しに好む地である。
剣の腕を見たいと十蔵が瀬踏みさせたのだが、
「ええいっ、ちょこちょこ跳ねるなっ」
「きゃああーっ!? 私のマントの囓らないでー!?」
「ちょ、ちょっとバラバラに走り回ったら魔法が、え、えぇっと――敵、どれ?」
もはや地竜を狩るどころか、竜たちの遊び相手である。
透き通るような夏空の下を半日駆け回り、倒せたのは四体。他にはメイジに懐き、ぐるぐると喉を鳴らし頭を擦りつけられるのが一体。
おかげですぐに休憩に。唯一冷静だったのは十蔵の妹・琴のみで、草地の上に座る仲間の世話をおこなっている。
離れた場所からそれを見守る、二つの影があった。
「我が国には、『逃げるが勝ち』との言葉があるぞ」
「は、ははは……」
黒装束の下に鎖帷子と軽装の忍者に対し、ジェラルドは鈍色の鎧、その上に水面を跳ねる魚の刺繍が施されたサーコートを被っている。
十蔵は腕を組みつつ、ところで、と横目を向けた。
「いくら妹の頼みとは言え、忍びはタダで働かぬぞ」
「そ、それは重々承知しております。しかし情けない話なのですが、うちの財政はあまり豊かな方ではなく……」
「承知している。かつてこの地を侵略しようとした海賊の子孫・その流民とあれば、大陸での待遇は推し量れよう」
ジェラルドは驚き、十蔵の横顔を覗き込んだ。
海の向こうの島国・ドーラス。海の覇者とも呼ばれた海賊衆を従え、大陸に渡ったのは数百年前のこと。
今の港町・ワジを拠点とした大陸東南の一帯を支配するほどの勢力を有するまでになっていたのが、欲しいものを欲しいままにしてきた海賊の暮らしが仇となり、王宮から手痛い制裁を受けてしまう。
そしてジェラルドは、その海賊衆の末裔なのだった。
「父・ドナハが王宮で勤められているが、古くさい連中からの風当たりが強かろう」
「ど、どうしてそれを」
「妹をやるのだ。それくらい調べて当然のこと」
隠すつもりではなかったのですが、と青年は顔を伏せた。
「……いくら百年も前のことだと言っても、父が王宮で仕官する際も反発が強く、奇跡だと言われたぐらいです」
「閉塞感に満ちた、つまらん場所よ」
十蔵は低い声で言い、しかし、と目を向けた。
「陸に上がった河童とは言え、お前の身体には海賊の血が流れているはずだ」
「え?」
よく分からぬと言ったジェラルドに、十蔵は前を見据えたまま続けた。
「この地を攻めた頃の記録が残されているだろう。報酬はそれでいい」
「記録……? 日誌ならあったと思いますが、相当古いものですよ?」
「構わぬ。歴史は金財、これを軽んじるのは愚鈍のすること」
十蔵は、それともう一つ、と言い添える。
「妹を守る防風壁となれ。これは兄としての望みだ」
ジェラルドは耳まで赤く染めながら、これに、
「必ず」
と、力強く頷くのだった。
◇
一方、首都・ポルトラでは、
「どうして勝てないのよッ」
アルカナの同盟長・シェーシャの金切声が今日も響く。
自身の部屋の中。どすんと腰掛けた椅子には、ドーナッツ型のクッションが置かれている。
あの日以降、手放せなくなったものだ。
「あの忍者とかいうクラス、まるで役立ってる気がしないわ」
切ろうかしら。
机に肘を乗せ、深くため息を吐いたその時、
『まだ気づいておられぬ様子』
他に誰もいないはずの部屋から、突然、声がした。
「だ、だれっ」
シェーシャは黒杖を手に、身構える。
「拙者でござる」
何もなかった天井から、降り立つ黒装束の男。
背中には天井と同じ柄の板を背負っている。
「あなたは確か、ルナの……」
「隼人でござる」
いつからいたのか、と言いたげにするシェーシャに、隼人は言葉を続けた。
「影は光が増すほど濃く、そして近いほど見えなくなる――我ら忍びは、影働きが主でござる」
「だから何なのよ。裏で仕事しているから目立たないって言いたいわけ?」
「それもあるでござる」
「そう。でも裏方はあなたたちだけじゃないの。シーフ派生のクラス・追跡者や暗殺者たちでも、誰がどうしていたって報告があるわ。対して、あなたたち忍者のことは一切聞かないけどね」
隼人は嫌味にも動じず、むしろ嬉しそうに目を細めた。
「それこそが我らでござるよ」
「負け惜しみにしか聞こえない」
「まぁ、アサシンらは同業と言えるでござるが、少々目立っておるでござるな。ストーカーと併せて技能はなかなか、我らにも有用と思えるものがあるものの」
「ザルザルうるさいわね、結局何が言いたいのよ!」
シェーシャは、腹だたしげに手を振り払う。
「影は前に出ず、常に後ろに回るもの。光が向く方向を誤れば、影もまた方向を誤るでござる。一兵卒ならまだしも、導く者がそれに気付かぬのではいつまで経っても勝てぬ、人が去るばかりでござる」
「ッ……そんな当たり前のこと分かってるわよ! あなたのお仲間が、あんな邪魔さえしなければ、私は勝ってたんだから! あのせいで流れが途絶え、ガタガタになったの!」
「否。敗北を重ねる理由は、かねてより十蔵殿が危惧していたこと――シェーシャ殿は敵を軽んじ、大将にも拘わらず無警戒に歩きすぎだ、と。配下は将に倣うもので、つられて無警戒となっている。あのまま100勝という節目を迎えれば、あとは崩壊一直線でござる」
「なにを――」
シェーシャは言いかけ、口を閉じた。
意見は的確、と言うよりか思い当たるフシしかない。
99勝でストップしたのは意識を変える、最後のラインだったのか。いや、と首を振って否定した。
「まぁでも、気を張っていても失敗はあるもの。十蔵殿も、まさかこうなるとは思わなかったようでござる」
「女の尻に指突っ込むのがあんたらの仕事ってんなら、この場でクビにするわよ」
「あれは十蔵殿にしかできないもの。拙者には無理でござる」
隼人は手を合わせ、人さし指だけを立てて見せる。
シェーシャはそれに反射的に身構えた。
模擬戦は、言わば精神が乗り移った人形同士が戦っているようなもので、斬られ、射抜かれ“死”を迎えても、ただそこから消滅し、城外に追い出されるだけ。
だけど、攻撃を受けた感覚だけは残る――尻に受けた一撃は、未だに己を苦しめるものだった。
「あのせいで、詠唱にも集中できないのよ」
「不発だったせいでござる」
「え……?」
「十蔵殿はアサシンらのスキルも体得し、致命打・その威力を増してしているでござる。穴に直撃していたならば、昇天する勢いでござるよ」
シェーシャは眉を思い切り寄せる。
「忍者とやらに、そんなスキルがあるって言うの?」
「ないでござる。けれど名付けるならば、〈魔術師三年殺し〉――」
「これからあんたのクビ、真剣に考えるわ」
メイジマッシャー。
それは名の通り、魔術師を仕留める直刃の短剣である。