第5話 兄と呼ぶ理由
地下牢のあちこちで、女の啜り泣く声がする。
捕らわれてから半刻(一時間)が過ぎ、隼人は状況を把握していた。
(行方不明者はみな、ここに放り込まれていたでござるか)
鉄格子から覗くのは、正面の檻とその左右のみ。
檻の中にいる人数はバラバラで、感覚を研ぎ澄ませてみれば、この区画に五十人ほど捕らわれていると分かる。
なるほど、と頷き、ぐっと鉄格子を握った。
(これが、レオナ殿が言っていた檻でござるな)
脱獄を試みた跡があるが、薄い傷がついているだけ。
しかも錆びは一つもなく。力を込めて押し引きしてみれば、数百年に及ぶ不動を確かと伝えた。
噂通りでござるな、と思ったその横で、
「……ごめんなさい」
膝を抱えて壁にもたれ掛かる女・ファファが、小さく呟いた。
「む? どうして謝るでござるか?」
「だって、私が鈍くさいせいで……隼人さんまで……」
「謝る必要はないござるよ。むしろ拙者のミスでござる」
十蔵殿のように上手くゆかぬでござる。
と、大きくため息を吐く隼人に、ファファは小さく笑みをこぼした。
「隼人さんは何かあると、いつも相棒のジュウザさんなんですね」
「違うでござるよ」
「え?」
「十蔵殿は相棒ではなく、拙者にとって兄でござる」
そうなんですね、とファファは頷く。
「しかし、護衛任務は難しいでござるな」
「何だか新しい顔を見られた気がします。シェーシャから聞いた話で、忍者は何でもできるってイメージを持ってました」
「いや、十蔵殿はできるでござる。これは言い訳ではござらぬが、拙者、今回が初めての護衛任務でござるがゆえ」
「……え? は、初めて?」
頓狂な声をあげて目を瞠るファファに、隼人はとつとつと昔話を始めた――。
◇
兄と慕う十蔵は、十四歳にして忍頭との声があがっていた。
その後ろでサポートをしていた隼人は、いつも完璧に任務を果たす十蔵とともに行動できることが、とても誇らしく思う。
だが……心のどこかで十蔵を、羨ましく感じていたのだろう。
――隼人殿は、兄上のよき右腕でございますな
十蔵の妹・琴にそう言われた時、素直に喜べなかったのだ。
己の力で任務を果たしたい。喝采を浴びたい。
その日から芽生えた欲求は、やがて大きな失敗を招いてしまう――。
◇
秋深まる日の夜。
隼人はとある上屋敷へと忍び込み、屋根裏の梁の上で獲物を待っていた。
(この程度なら、拙者にも余裕ござる)
ひと組の布団を眼下に見ながら、笑みを浮かべる。
この数日前、留守にしている十蔵に代わって、客人の応対をした。
客人の正体は城の役人で、袱紗に包まれた小判を――にせ金と、その下に敷かれた柳の葉を見て、すぐに察す。
――柳の家紋は、勘定奉行である佐倉仁衛門のもの
主君は天下を統一するにあたって、後ろ暗いこともしてきた。
濡れ衣を着せて葬ったこともあり、そしてそれらは闇の――十蔵を筆頭とした〈無月衆〉と呼ばれる忍びの役目である。
奉行がにせ金を造ったのか。
はたまた、身内の不正を暴こうとしたのか。
どちらにしても、忍びにはあずかり知らぬこと。
――主君は内々に片付けたい
ただ、それに従うだけである。
(奉行となれば十蔵殿の案件。しかしこの程度のことで、手を患わせる必要もないでござる)
寝屋の入り口に人の気配がし、隼人は構えた。
その時を今か今かと待つものの……この佐倉仁衛門という男、たいそうな好色漢であるらしい。
布団には枕が二つ。下女を引き連れ現れたかと思うと、下卑な笑みを浮かべて布団の上に引き倒したのである。
あっと声をあげるよりも早く、女の桃色の襦袢は肩から剥がされ、ケダモノとなった佐倉仁衛門が覆い被さる。女も相当好き者か、すぐに身悶えを始めた。
(やれやれ)
長くなりそうだ、そう思った時である。
『――くせ者ッ!』
女は突然、布団の脇に忍ばせていた短槍を握り、隼人がいる天井を突いたのだ。
咄嗟に避けたものの、穂先が右肩に深く突き刺さる。
このような場合、手ぬぐいで拭いながら耐えるのが常であるが、女はそれを知るかのように押し込んだのである。
(まさかこの女、くのいち……ッ!)
どうして十蔵に依頼がきたのか。
佐倉仁衛門という男に、くのいちがついていたのだと、ここで理解した。
隼人は逃げるべきであった。
なのに、あろうことか天井を破り力業に出たのである。
「――ほう、無月衆が仁衛門様のお命を狙うとは、やはり尾張永重が口封じを命じたか」
「く……!」
「しかし、無月は人手不足なのか? 退き際も知らぬ、役立たずを送るなど」
隼人は左手にクナイを握り、真っ正面から対峙した。
行灯の赤明かりの中、真っ裸のくのいちは、短槍を回し脇に構える。
その隙に佐倉仁衛門は情けない声をあげながら、這う這うのていで寝所を逃げ出した。
「まぁ下忍でも無月の忍びには変わらぬ。お前の首を取り、我が功とさせていただこう」
「何をッ!」
下忍、と呼ばれ頭に血が上った。
飛びかかる隼人に、くのいちは横に跳んで躱し、回し蹴りを繰り出す。
濡れた秘所を露わになることも、黒々とした陰毛を光らせることも厭わず。乳房を上下に揺らし、舞うようにくるくると回りながら蹴りを、そして槍を旋回させる。
得物の差では隼人が有利にも拘わらず、くのいちは狭い室内でも縦横無尽に短槍を扱った。
まるで近づけぬ隼人は、どうするべきかと周囲を見渡し、行灯の横に置かれていた壺を持ち上げ、投げた。壺は槍を払うだけで容易く粉砕されるも、隼人はその隙にくのいちの足下へと潜り込み、クナイで彼女の左膝を斬りつけていた。
「ぐ……ッ」
行灯の光の中。膝を折ったくのいちは、忌々しげに隼人を睨んだ。
ざっくりと開いた傷口から、鮮血が噴き出している。
仕留めた。手応えを感じた直後、彼女はすぐに「ふふ」と不敵に顔を歪めたのだった。
「それで勝ったつもり?」
「なに――」
女は左手を口元に。
そこから、プッと放たれたものが隼人の左肩に突き刺さった。
「ッ!」
「お前は、くのいちとの戦い方すら知らぬ。下忍以下よ」
肛門に吹き矢を仕込んでいた。
己の身体すべてが武器――思い出した時には遅く、ぐらりと身体が傾いてしまっていた。
「毒、か……!」
「さ、もう終わりにしましょ」
身体が痺れ、布団の上に片膝をつく隼人。
眼前に槍の穂先を突きつけられ、しかも遠くから佐倉仁衛門が襲われたことを聞き、侍たちが駆けつけてくるのが分かる。
――奥の手を使う、か
覚悟を決めようとした、まさにその時、
『――がッ!?』
『ぐあァッ!?』
寝所の外から悲鳴が重なり、倒れる音がした。
くのいちは隼人から槍を外し、音のした方へと向ける。そこには、黒装束の男が一人。
「――青い蝶よ。首実験を頼みたい」
十蔵であった。
片手に提げていたものを、くのいちの足下へ投げる。
「ッ!?」
くのいちは目を瞠り、戦慄していた。
足下に転がった首――それは佐倉仁衛門の、首であったからだ。
「我が影にとらわれ、お前の任務は失敗に終わった。去れ」
「き、さま……ッ!」
くのいちの顔が忌々しく歪む。
隼人は自由の利かない身体に鞭打ち、十蔵を見た。
月を背に、行灯の明かりが影をつくって分からないが、ニッと笑みを浮かべたように思えた。
「無月の十蔵が相手だった、と言えば、愚かな失敗でも箔がつこう」
くのいちは吠え、十蔵に向かって槍を構える。
対する十蔵は棒立ちのまま。
睨み合いが続き、突きつける槍が小刻みに震え始めたかと思うと、
「この恨み、いつか必ず――ッ」
「脚の傷は、相手を軽んじた代償だ。見るたびに思い出せ」
くのいちは呪詛を吐きながら十蔵の脇を抜け、庭から塀を飛び越え、夜の向こうに消えた。
屋敷の者はみな死んだのだろう。忍び二人、寝所にて静かに佇んでいる。
俯く隼人を見下ろしていた十蔵は、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「よくやった」
まさかの言葉に、隼人は顔を上げた。
かけられたると思っていた、言葉は真逆のものだったからだ。
「どうして……」
「理由はない。上手く片付いたから言ったまで」
「拙者は、拙者は……この場で首を落とされてもおかしくないことを……!」
「己で考え、動いたことを恥じてるな。それに青い蝶〈心矢のくのいち〉を引きつけてくれたおかげで、結果的に私が動きやすくなったのだからな」
私はよき弟を持った、と隼人の肩を担ぎ上げる十蔵。
顔を覆って嗚咽を漏らす弟に、十蔵は、
「お前の首を落とせば、それこそ後が面倒だ」
と、冗談めかし笑ってみせるのだった。




