憎悪の輪廻
「あんたうかるとおもうてたの?」
私が慶応中等部に見事に落ちたときに浴びた実母の一声だった。
それから大学受験までその繰り返しだった。
もちろん全滅だったわけではないが、ついぞ慶応とは縁がなかった。
年子の弟と言えば、慶応中等部から慶応大学経済学部部まで野球部で活躍、父は私をかわいがってくれたが、母の露骨な差別はひどかった。
その父も私が20の時に他界。私の凍てつく孤独が始まった。
母は十朱幸代ににた非常な美人であった。
変な話、私の結婚式でも花嫁の私よりも母の若さと美しさが評判を読んだくらいだ。
亡き主人の友人が今でも覚えてるぐらいだ。
母という人は、自分の夫が亡くなった時も涙は見せなかった。
私が泣くのも怒った。
泣くのは弱い人間、泣く子は嫌いですといわれ育ってしまった。
母は戦後すぐに京都の酒屋の8人兄弟の末っ子として誕生。私の祖母は家付お嬢様だった。
長男の紀久男が、大雪山の雪崩でなくなっていたため生まれ変わりのようにおもえたらしく、紀久子と名付けられた。
中学から市内に下宿し同志社中学から大学までかけ上っている。
たた、わたしの祖父母がかなりの高齢だったため、同志社大学在学中に私の父と見合い結婚している。
父は父で当時は勢いのあったタオル工場の次男坊として心臓の欠陥ありながらもやはり恵まれた環境にいたようだ。
しかし、これは相続含め長く泥沼になる憎悪との始まりでもあった。
父の両親の介護をしたわけでもなく、父亡きあとは住んでいた家をマンションにしたぐらいパワフルだったが、母と一緒に父の実家に行ったという姿を思い出せない。父の両親と同居して看取ったのは父の兄嫁、私はこの叔母が大好きであった。
父が49の働き盛りで、会社の経営者ながら総会翌日、ホテルの一室で一人で亡くなった特には、会社を自ら後継者に名乗り出たのも母自身だった。
支える人もなく実現しなかった。
男勝りの美人かというとそれだけでなく、茶道華道の免除持つ京美人でもあった。
行儀作法はことのほか厳しかった記憶がある。
今日はふるえがとまらない。
あの人のあなたは嫌いですと冷たくいい放つ冷たい横顔がいつまでも苦しませる
できないこも嫌いです
自分の思うようにならない人間はみんな嫌い
お互いに組み合わせが悪すぎ親子はたくさんあるんだろうとマックを食べながら一人で呟く孤独な私が今日もいる。
アルバムなん十年ぶりに開けてみたが、悪寒がしたので、もうしまいこむことにした。
そこには神経質なにこりともしない幼少時代の私がいた。
主人と子供に恵まれた何年間かの写真だけが笑顔だ
にこりともしないと母に言われたが、笑えないものは笑えなかった。
笑顔は自然にこぼれるもので、営業スマイルを子供に求められてもと意固地になってた
でも家族内で笑ったり泣いたりできないのはしんどい
友人と交換日記したり成人してからはSNSで発散してたが、どこから耳に入るのか全部止められてしまった。
私はしません。
それがすべて。
でも私は私。あなたはしたくなくても結婚した私にも強制するなんて。いつまでも自分の思い通りにしたいらしい
そんなこと無理なのに。
主人の最後は私の母に私のことたのみたかったらしいが、母は出てくれなかった。
どうして電話出てくれなかったのときくと、だからなに?とにらまれた。彼はがっかりして、母はたのみにならんと言い残し旅立った。