アルベール・カミュの創作論 、あるいは悲劇の作り方
私は今までなろう作品を攻撃する
内容の文章を書いてきたが、
テンプレを否定している訳ではない。
私はむしろテンプレは推奨したい。
物語における
ある主要なキャラクターを
掘り下げようとする時、
物語自体が喜劇的であれ
ハッピーエンドなものであれ
悲劇的な要素というものは
どうしても必要となってくる。
キャラクターとは
物語世界の中で
自分の身の丈にあった悩みを抱き、
活躍をし、
また戦いを戦い、
そして何より彼(彼女)自身が
独自の物語を生きる存在である。
またキャラクターの具体的な造形も
意味ある過去、
意味ある行動、
意味ある最期(これは中々書かれないだろうが)との
関連を無視しては設定できないものである。
なのでキャラクターを
より印象的なキャラクターにするために
印象に残る悲劇、忘れ難い悲劇、
圧倒的な悲劇性をキャラクターに
持たせようとする試みは
創作者ならば誰しもが思いつくことであろう。
たといキャラクターの悲劇性が
後の幸福な、あるいは享楽的な、
ハッピーな展開を
引き立てる一要素としてのみ
描かれるに過ぎないとしても、
あるいは悲劇を迎えたキャラクターの
自己克服と再生を物語の主題に
するのだとしても、
悲劇をきちんと描かなければ
得られる効果も半減するというものであろう。
今回、私は私自身大きな影響を受けた
不条理小説作家
アルベール・カミュ(1913~1960)の
言論を手掛かりになろうでも通用する
より魅力的なキャラクターの
創造のための悲劇の作り方を
省察していきたいと思う。
悲劇とは何か。
「精神は自分の悲劇を
具体的なものの中に投影する。
そして、これは色彩には
空虚を表現する能力を与え、
日常的な動作には
永遠の願望を形に現わす力を与えるという
永遠の逆説によって、
はじめて精神に可能なことなのである。」
(カミュ 『フランツ・カフカの
作品における希望と不条理』)
言い方を変えると
「運命が告げられるだけでは
人間は恐怖しない。
社会、国家、日常生活の舞台で
運命が証明される時に
人間の戦慄は完成する」(同上)。
キャラクターには具体的な造型がある。
キャラクターは
具体的な外見、性格、能力、
所有物、立場、役割、
過去、背景から
作られている。
こうした造型が
そのキャラクターの運命を
象徴・暗示するということが
小説の意味であり
物語の力である。
作家は物語の力をもってして
一言では語れないものを
語るのである。
では悲劇とは何なのか?
それは単なるバッドエンドとは
どう違うのか?
読者からの共感を
執筆の動機としている
ある創作者が悲劇を、
それもとびきりの悲劇の傑作を
書こうとしているとする
(それが一設定か物語の本題かは問わない)。
彼(彼女)はまず自己投影した
不幸なキャラクターを造型し
「不幸の定義は人それぞれだ」
「どんな不幸も見方を変えれば
ある意味幸せなのだ」
と反抗してみせる全ての人間の頭脳に
このキャラクターが不幸である
ことを否応なく理解させるため
固有の不幸な事例を思いつく限り列挙する。
このキャラクターはこんな事件に巻き込まれた、
あんな事故に遭う、
こうしたものを失う、
こんなことを人から言われる、
あれを人に取られた、
これを人に壊された、
というようなことを
想像の及ぶ限り、
または実体験に基づいて、
多少脚色し尾ひれをつけて、
『盛って』いって
キャラクターの設定に加えていく。
さて出来上がった、完成した、
読み上げてみればなるほどこれは確かに
相当難儀なものだ、
そうしてこの創作者はまずまず満足するのだが、
しかしそれも読者から
「所詮作り話だ」
「実話だとしても
自分とは別世界の話だ」
「暗いだけだ」
「自分とは関係ない」
「自己投影できない」と
思われてしまったらその時点で
キャラクター造型は
失敗していると言わざるを得ない。
やがてそのキャラクター性は
「お涙頂戴だ」
「メアリー・スーだ」
「ただ暗いだけだ」
「読んでて不快になっただけだ」
との謗りを受ける。
苦労して集めた不幸自慢は
全て水泡に帰してしまうことになる。
「自分とは関係ない」、
そう、これは前にも私が書いた
リアリティの問題だ。
リアリティの追求に
比喩という核が必要であることが
ここでも重要になってくる。
不幸なキャラクターとは
まずその彼ないし彼女の全世界、
全宇宙が不幸のしるしに
満ちていなければならない。
そして肝心なのは
その不愉快で奇怪な世界、
奇妙な生とそれを受け入れる
キャラクターの素直さとが
それぞれあり得ないものであればあるほど
かえって自然な不幸、
自然な『不幸なキャラクター』が
完成するということだ。
カミュも言うように
悲劇的人物を演ずる俳優は誇張を避けた方が
演ずる人物を力強く雄弁に表現できる。
彼が節度を保っていればいるほど
観客は圧倒されるのだ。
だから、人を圧倒するリアリティとは
現実の実例に
そっくりというよりかは
自然らしさを意味しているということによる。
自然らしさこそは究極の比喩だと言える。
自然らしさ、それは
私たち現実の人間自身の生が
日々体現しているものだ。
何の説明もないまま生まれ落ち、
どことも知れない
宇宙とか地球とかいう場所で
訳も分からず生きる、
これは実に自然なことだ。
したくもない勉強をし
したくもない仕事をし
したくもない人付き合いをし
好きなことを我慢し
嫌いなことをそつなくこなし
毎日毎日疲れてつまらなくて
大病患者にでもなって
手厚く看護されたくて
たまらないのに
大事件に巻き込まれたくて
たまらないのに
何故かただちに
自殺することもなく
子供の成長や老後の予定を
楽しみにしてなんだかんだで
生きていく、
これは実に全く自然なことだ。
人間は必ず死ぬ、絶対死ぬ、
確実に、逃れようもなく、
僕らが予定や希望が
たくさんあると
うそぶいている他ならぬ
その現実の未来において
死ぬのだという真実、
それを忘れて
未来のことを考えて生きる、
こんなに自然なことはない!
これこそ
自然らしさ、普通らしさの
理想形であり雛形だ。
人生の意味不明さ、
それを甘受するという
人間の態度の意味不明さ、
それはなんというリアルだろう!
空虚さと
永遠の経年に耐える願望以外のもの以外は
何ものも存在しない論理空間!
リアル!
異世界を現実にするとは、
否、異世界が現実であるとは
それがリアルであるということの
ただ一点に尽きる。
むしろ現実は何故現実なのか?
自然だからだ。
私たちは間違いなく
悲劇の主人公だ。
それも偉大な悲劇、
すなわち神話の主人公だ。
私たちの人生は神話だ!
そのことと向き合う人間や
キャラクターは、そしてその物語は
人々を圧倒する。
真摯であればあるほど
誠実であればあるほど圧倒的になるのだ。
悲劇の具体的な内容は
変わったものや
独自なものである必要はない。
それは悲劇に限らず物語全部に
言えることだ。
お分かりいただけていると思うが、
私が今回言ってきたことは全て『形式』の話だ。
「有名な本なら、それは素材のおかげか、
表現形式のおかげか、よく区別しなければならない」
「読むに値する本が書かれ、
それが素材のおかげでなければないほど、
すなわち素材が
よく知られた陳腐なものであればあるほど、
書き手の功績は大きいということになる。
たとえばギリシアの三大悲劇詩人は、
みな同じ素材を取り上げ、それに手を加えている」
(ショウペンハウエル「著作と文体」)
だから私はテンプレを批判しない。
テンプレは『素材』に過ぎない。
重要なのは『形式』だ。