愛しい人、と言われても
私は自他共に認める面食いだ。
同性異性関係なく、整った顔をした人が好き。
どうしてかというと、ただ見ていると幸せになれるからだ。見ず知らずの美男美女を鑑賞するのは、私にとって美術品を見るに等しい。
今の大学に入ったのだって、素晴らしい教授がいるとか学びたい学部があるとか家から近いとか、そんな理由ではない。
自分がなんとか通える範囲で、一番美男美女率が高い大学。それがこの大学だっただけ。
学力的にかなり厳しかったが、頑張って入ってよかったと思う。
「学食空いてっかなー」
「席取っといてくれたって。ライン見なよ~」
例えば、斜め前でノートを片しながらおしゃべりしている男子二人組。
やや濃いめの顔ながら笑うと幼くなるギャップを持った大型犬系男子と、どこかのほほんとした雰囲気で縁側と緑茶が似合いそうな美人系男子。
話で聞こえてきた限り、どうやら保育園からずっと一緒にいた幼なじみらしい。
「みんな今日サークル行く?」
「……迷い中」
「あたし行かないわ。バイト」
例えば、隣を通り過ぎる女子三人組。
黒髪ロングに爽やかなワンピースでまさに清楚という感じの綺麗系女子と、ほぼすっぴんのようなのに肌が真っ白で大きな猫目のかわい女子と、ちょっと派手目ながら長い髪と濃いめリップの対比が印象的な美人。
このグループ、実はフルメンバーだと五人いる。それぞれ個性がはっきりしていて、しかも全員容姿がいい。
もちろん、今いる講義室の全員がこうな訳ではない。ごくごく普通の容姿をした人も、いっそコメントしがたい人もいる。
目に留まる人だって、ちょっとした美男美女から、本当に同じ人間かと思うようなレベルの美男美女までいるのだ。
大学はそれなりにおもしろいものの、レポートや試験がきつい日々ばかり。
そんな中で、美男美女に囲まれたこの空間はまさに私の理想郷。天国か、ここは。
「……ふはっ」
いけない。変な声を出してしまった。
この講義は友達も知り合いもいないから、ひとりでに笑い出した薄気味悪い奴になってしまう。
わずかに落ちてきた眼鏡を指で押し上げ、さも「今のはくしゃみが不発しただけです」というような表情をしれっと作る。ついでに未だに広げたままだった講義の資料とノートをしまっておこうか。
いつもお昼を一緒にする友達はみんな午後の講義を取っていない。つまりこれから私は一人飯。
ひとりでいることは美男美女鑑賞をしていれば全然気にならないけど、学食の席がなくなるとコンビニしか手がない。
二限が終わってそれなりに時間が経っているから、きっと今コンビニは戦争状態だろう。あそこに行くのだけは勘弁してほしい。
ひとつ頷き、私は早足で近くの出入り口へ向かう。
誰かが開けっぱなしにしていたみたいで好都合。肩に鞄を掛けたまま後ろ手に扉を閉めて、何の気なしに進行方向を見ると。
「ホッ」
あ、マズイまた変な声出たわ。
そう思いながらも焦りは顔に出さない。
美男美女鑑賞でにやける顔を抑え続けた末の鉄面皮だ。
そうっと、そーーーっと、視線を不自然ではない程度に巡らす。
見間違えるはずもない、こちらに向かってくる彼らは、あまりにも有名だ。
白と黒。
ものすごく簡単に、簡潔に表現するとすれば、彼らはそんなイメージだ。
どちらも長身。どちらもやや細身、に見えてやや筋肉質。いっそ非現実的な程にバランスのとれた等身の上には、これまた非現実的な美しさのお顔。
どう見ても『本当に同じ人間かと思うようなレベルの美男美女』の部類だ。
私から見て左手、白の彼はいつも黒い服ばかり着ている。
じゃあ何で白のイメージかというと、肌がぎょっとする程白いのだ。しかも北欧系とのハーフらしく、髪も眉毛も睫毛も曇天の冬空のような青みの強いブルーグレー。長めな前髪の隙間から覗くのは、氷のごとく薄い水色の瞳だ。
繊細に整った顔立ちはやや冷淡にも見えて、それがより人間らしくない彼の麗しさを助長させている。
そこから人ひとり分空けて隣を歩いているのは、黒の彼。
着ているのは白の彼と対を成すように白い服ばかり。今日も今日とて白い薄手のニットが彼の褐色に映えている。
中東系と日系と南欧系と、と様々な血が入っている家系らしいので、彫りの深い顔立ちながらどこにも属さないような独特の雰囲気がある。少し癖のある黒髪と、ローアンバーに見える瞳が相まってどこか魔性じみた美しさを感じさせるのだ。
この大学はわりと日本人以外の学生も多い。
よって私の鑑賞対象バリエーションも比例して増える。
白と黒の彼らは美形が多い外国人枠の中でもトップランクと言えるだろう。まぁ白の彼はハーフなだけで日本人だが。
ちなみに成績も非常に優秀らしく、私と同じ大学二年にしてどちらも教授から研究室にお誘いを受けていると聞いた。
しかも白の彼は世界的に有名な大企業の社長令息で、黒の彼も世界有数の大富豪の子息。
きっと神は彼らのことが好きで好きでどうしようもないのだと、嫌でもわかる。
断っておくが、私は特段彼らに恋をしている訳ではない。
こうして彼らを鑑賞するのは自分の幸せのためであって、恋愛的な意図で見惚れる女子達とは意味合いが違う。
個人的には、宗教画に描かれていても違和感のない程透明感あふれる白の彼より、英雄譚の一幕に現れそうな強烈な存在感を持った黒の彼の方が好みだ。
こんなことを言うと友達に更なる変人レッテルを貼られそうだが、私はそう感じたのだから仕方がない。
それに仲間内には彼らをかけ算してアレな妄想にぶち込む奴もいる。その手の趣味がない他の友達からしたら、彼女に布教されるよりは私の脳内美術館妄想に付き合っていた方がまだマジだろう。
白の彼と黒の彼。特に会話もなく、なのになぜか一緒にいることが多いふたり。
不思議な関係だな、と思いながら私はようやく足を一歩踏み出す。
私が見ていたことには気づいているはずだ。それでも慣れているのだろう、彼らは私を不審に思う素振りもなく、私のすぐ近くまでやってくる。
すれ違う瞬間、ふわりと香りがした。
白の彼は香水や整髪料の類いはつけていない。そう某かけ算大好きな彼女に聞いた。
だったらこれは黒の彼のものだろう。そういえばこんなに接近したことはなかった気がする。
甘い果物といくつものスパイスを混ぜたような、彼に似合うエキゾチックなそれ。
癖が強くて好き嫌いがありそうだけど、私はかなり好きなにおいだ。
一体何の香水だろうか。気になって横目で見ると。
「――……ぅ」
レンズ越しに、ばっちり、目が合った。
思わず喉の奥を締めて声を出さないようにした自分が、本当にすごいと思った。
褐色に金色を溶かし込む途中のような、光彩の中にいくつもの色が混ざり合っているその瞳。
息を止めて魅入ってしまう程美しいそれと、しっかりがっちり視線が絡んで……一瞬で逸らされる。
なんだ、私何かしたか、何が起こった。
硬質な靴音が、規則正しく音を刻んで離れていく。
我に返ってみても、振り返ることも、ましてや声をかけることなんてできやしない。
ただしれっと平静を装い、眼鏡を直しながらその場を去るのみで。
「………………す……っっっごい美形だな、やっぱり」
なんとかそのフロアを離れた第一声は、まぁ私らしいものだった。
× × ×
ジャディル・イシュク・アーキス。
本当はもっともっと長い名前らしいが、とりあえず学内ではその名前で通っている黒の彼。
最近、彼とよく目が合うようになってしまった。
気のせいでも自意識過剰でもない、絶対に目が合っている。
「何でだ」
「依月が見過ぎなんじゃないの」
頭を抱える私の隣で、興味なさそうにネイルオイルを塗っている友達。
彼女は低身長の男性、いわゆるミニマム系男子以外には興味がないらしく、白の彼や黒の彼は全くストライクゾーン圏外とのこと。
今日も今日とて、何度かデートを重ねている看護師の男性――身長162センチメートルのミニマム男子との約束に心が飛んでいるせいで、私への応対が非常に雑だ。
どうでもいいことだけど依月というのは私の名前だ。なかなか一発で正しく読んでもらえないので若干困る。
「見てほしい訳じゃないのに……ただ美術品を目で楽しみたいだけなのに……」
「へぇーそうなんだ。じゃあ本人に〝見んじゃねえよ〟って言ってみれば」
「言えるか」
「あ、そう。じゃあ適当に恋にでも落ちてみれば。黙ってりゃアンタただの眼鏡美人なんだし、何か芽生えるんじゃないの」
「ありがとうでもそれこそないわ……」
ほんっとに私に興味ないなお前。
まぁ合コン帰りに引っかけたミニマム男子の話を今まで真剣に聞いていなかった私も悪い。自業自得だ。
私は空きコマ、彼女はデート前。しかも彼女はそろそろ待ち合わせ時間が近いのだろう、スマホを何度か確認している。
なおさらアドバイスなんか求めても無駄だな、これは。
そう思っていると、彼女はいそいそと荷物をまとめ、実にあっさりと私を置き去りにいなくなってしまった。
「……っはー」
ため息をついてみても、どうしようもない。
黒の彼はとても私の好みだ。大学生活で、私の幸せを作る一番の要因になっている。
とても美しくて、華やかなのに少し陰に入ったような雰囲気も感じさせる、独特の存在。
そんな彼が私の視界に入ってきたら、見ないふりなんてできようもない。
私は本当に何かしてしまったのだろうか。
いや、用があるなら彼は普通に話しかけるはずだ。唯一被っている講義で何度か、そういう場面を見かけた。
そして不快に思ったのなら表情で語ってくる。これも鑑賞していた結果、彼に好意を持つ女子達が迷惑行為をした際に、眉をひそめてゴミクズを見るような目を向けていたのを知っている。
何だ、何なんだ。見られると落ち着いて鑑賞できないのに。
確かにあの瞳は真正面から見るとそれはもう綺麗だけど。複雑な色合いが水面みたいに揺れて見えて、ため息が出る程綺麗だけど!
ジャディル・イシュク・アーキスという人間を鑑賞対象として捉えている私としては、私個人を認識しないでほしいのだ。
美しい彼の瞳に、ただの鑑賞者である私が映る必要はない。綺麗なものの中に不純物が混ざってはいけない。
「そのはず、なんだけどなぁ」
そう思っていたのだ。数週間前までの私は、確実に。
――なのに今は、少し感覚が狂ってきてしまっている。
私へと向けられる、その瞳があまりにも力強く美しいから。
もっと見たいと思ってしまう。何を思って私を映すのか、知りたくなってしまう。
エキゾチックな香りが近づくたび、あの瞳が私に向く瞬間を心待ちにしてしまうのだ。
まるで恋だ。
ただ、恋ではないと思う。これは単なる鑑賞の延長線にあるもの。
第一、あれほどの美形だと、そんな感情が沸いてこないのだ。見つめられてもドキドキするより、眼福ですありがとうございますという感情が真っ先にくる。
その前に、目が合ったくらいで恋愛どうのこうのに発展するのを想像できない。
自分の妄想力が貧困なせいもあるし、生まれてこの方まともな恋愛というものを経験していないせいもある。
淡い初恋はあった気がする。告白はできなかったけど、毎日ドキドキもした気がする。そんな程度だ。
そんな貧相な経験と照らし合わせてみること事態が間違っているかもしれないけど、私の勘としては、これは恋愛じゃない……多分。おそらく、いや、きっと。
× × ×
火曜日。唯一白と黒の彼らと被っている講義がある日だ。
私と彼らは学部が違うものの、教養科目のひとつであるこの講義は複数の学部が必須となっている。
大体の人は一年の時に取っているコマだけど、私は去年興味のあった講義と時間が被っていたのでそちらを優先させた。
友達は全員去年取った講義なので、ここでも私はひとりだ。
結果として毎週がっつり美形鑑賞をできる時間ができたので、去年の自分に感謝したい。
「おー……今日もすごいな」
大講義室の中程、いつもの席に座りながら呟く。
視線の先にあるのは前方のやや左手にある、妙に人が密集した席。
歩くときとは違い、席をひとつ空けることなく座っている彼らの近くに群がる女子達が大勢いる。
講義なら隣に座っても不自然ではない。そう思う猛者達がしのぎを削っている、恒例の光景だ。
ちなみに私が黒の彼の不快そうな表情を見たのは、この光景での一幕だ。講義が始まってもずっと話しかけてくる猛者女子を凍り付かせたあの眼光は、いくら美しくても直視したくない。
今日も女子達の対応をしているのは黒の彼だ。
白の彼は毎回、彼女たちが見えていないレベルでスルー。どうやら大学入学時に婚約をした大切なお相手がいるらしく、それ以外の異性は全く目に入らないらしい。普通に用があって話しかけると丁寧に答えてくれるとは聞いたから、そこは黒の彼と同じようだ。
ただ、黒の彼もサービス精神旺盛という訳でもない。あまり近くで声を聞いたことはないが、彼は素が敬語で、一見柔らかく聞こえるものの結構素っ気ないことも多いみたいだ。
……目が合うようになってから、人柄云々まで気にするようになってしまった。どんな性格だろうとあの麗しさは変わらないからいいけど。
「よくないなぁ……」
美男美女を鑑賞するのに余計な情報はいらない。
ただそこにその人が存在すればいい。
そういう方針をずっと崩してこなかったのに、どんどん情報を拾ってしまう。
まぁ情報を垂れ流してくるのは某かけ算の彼女で、私はそれをきちんと聞くようになってしまっただけだけれど。
人の外見だけを見るのは失礼だと、私の鑑賞癖を知った他人から言われたこともある。
私としては、それが失礼に当たる意味がわからない。
いくら鑑賞対象でも生身の人間相手だ。物言わぬ美術品と違うことは重々承知の上。
私は鑑賞する相手に何も求めないし、美しさに惹かれて近づくこともない。
関わりがないのだから外見でその人のすべてを評価することもない。というか評価しようがないだろう。先入観なしに鑑賞するためにあえて人物像を頭に入れていないのだから。
たまにじっと鑑賞し過ぎてしまうかもしれないけど、できるだけ節度をわきまえているつもりだ。
もちろん、鑑賞相手が見られるのを嫌う性質だったら潔く諦める。情報を仕入れなくても数回見ればそれくらいわかる。私は幸せな気持ちになりたいだけで、決して人を不快にさせたい訳ではない。
これが一応、私なりに考えた鑑賞マナーだ。
外見だけを見て、結果美男美女を囲んでひたすらはしゃぐ人よりは失礼にあたらない、と思う。
少なくとも、私にそうした注意をする人間はもれなく美形に無理矢理近づこうとする猛者ばかりで、盛大なるブーメランを投げるのが大好きな人ばかりだった。
ちらりと、黒の彼の隣を陣取った女子に目を向ける。
確かあの猛者女子もそうだった。去年の夏は別の美形――読者モデルをやっているらしいイケメンを狙っていたらしく、鑑賞していた私を〝気持ち悪い〟〝人間としてあり得ない〟と罵っていたのを覚えている。
どうやら私がイケメンに恋をしていると思ったらしく牽制したらしいが……いくらなんでも見ず知らずの人間をあんなに罵倒するのはどうかと思った。
冬になって黒の彼に乗り換えたようで、今ではアピールに忙しく私のような外野以上の圏外から見ている人間は眼中にないみたいだけど。
隣の席をゲットした猛者は果敢に黒の彼に話しかけている。
それをものすごい目で見る女子も、彼の前の席を確保して話しかけようとしている女子も、猛者の群れの中で控えめに彼らへ視線を向ける女子も。
その視線に籠もる熱は、美術品を鑑賞するような私とは明らかに違う。
みんな、彼らに恋をしているのだろうか。
憧れの彼に近づきたい。声を聞きたい。運命的に愛されたい。はたまた美しく優れた男を手に入れたい。そこには色々な感情があるのだとは思う。
そんなたくさんの感情を向けられているのに、彼はひとつも変わることなく私の目に映る。それは彼が、あの中の誰にも恋をしていないように見えるからだろうか。
逆に、あの女子達の目に映る彼は、私とは違って見えるのだろうか。
――例えば。
本当に、正真正銘、例えば、の話だ。
「ジャディル・イシュク・アーキス……」
私があなたに恋をしたとしたら、あなたが私に恋をしたとしたら、私の目にはまた違うあなたが映るだろうか。
恋する目で見るあなたは、どれほど麗しく映るのか。恋をしたあなたが私を目に映す瞬間は、どれほど美しいのか。
それを知りたいと思うのは――
…………って、いやいや。
何考えてるんだ私。何が恋だっての。
妄想たくましいにも程がある。好奇心が斜め上に爆走してしまったじゃないか。
こんなに見ていても、一向に恋煩いじゃなくて感嘆のため息しか出てこないのに。
恋愛じゃない、これは恋愛じゃない。こんな不純な恋の芽生えがあってたまるか。
「恋愛ってのはもっともどかしくてドキドキしてこう、淡く爽やかであるべきで」
「そうでしょうか。激しく濃密なものでもよろしいと」
「初心者にそれは早いって。まず清く正しいところから始まって、紆余曲折を経てそういう形に落ち着くならきっと納得もいくだろうけ…………ど?」
はて。
この低音でやや素っ気なくどこか傲慢で、なのに美しい声は。
「成る程。貴女は俺とは異なる恋愛観を持つようですね。だからこそ、そこまで透明な眼で俺を見つめることができるのでしょうか」
甘い果物といくつものスパイスを混ぜたような、エキゾチックな香り。
こんなに癖の強い香りを纏う人は、私の知る限りではひとりしかいない。
「…………」
「さて。ようやく俺の名を呼びましたね、白尾依月。待ちくたびれました」
「………………」
「あんなにも求愛してくるものですから、余程俺の花嫁になりたいのだと思っていましたが。成る程、やはり真の極東女性は奥ゆかしいというものですね」
妄想が、たくましい妄想がついに幻聴と幻視と幻嗅と何か色々ぶっ込んだ幻覚となって現れたようだ。
「十の逢瀬は交わしました。名交わしも今できました。もうよろしいでしょう。行きますよ」
今までの中でぶっちぎり最接近した彼の幻覚が、ひとつ頷いて瞬きをする。
ああ、美しい。月並みだけど濡れているような睫毛の先まで美しい。
で。
行くって、なんだ。
とは聞けず、私はゼンマイ人形のように飛び上がって阿鼻叫喚の大講義室を抜け出した。
――もちろん、麗しい幻覚に先導されて。
× × ×
大講義室からさほど離れていない、小教室。
なぜか持っていた鍵でさくっとそこを開けて私を通した彼は、またしてもなぜか鍵をかけ直して私の目の前に立った。
「これで落ち着いて話もできるというものですね」
髪を軽く掻きあげてそう零す彼は、特に気取っている訳でもないのに仕草ひとつひとつが洗練されている。
ほぼ白で統一されたようないつものファッションも、こうして近くで改めて見るとやけにセクシーに見えて直視しがたい。
そして何より顔だ顔。ものすごい美貌のご尊顔がこんなにも接近している。死ぬ。
鑑賞は適度な距離を保ちながら行うものだ。自分が冷静に見られる位置にいることで、その美しさを正確に目に映すことができる。私はそう思っている。
……の、だが。
私はどうしてこの非現実的な美形と密室にふたりきりでいるのだろうか。
鑑賞はできるのに理解が全く追いつかない。
十の逢瀬? 名交わし? はなよめ? なんのことで。
疑問はあるのに声にならない。
そして驚きすぎて顔面が追いつかない。表情筋が働かず、未だに美形鑑賞用の鉄面皮だ。
結果、置物のように突っ立っているだけになってしまっている私を、黒の彼が見下ろす。
「……もう俺に話しかけてもよいのですよ。白尾依月」
話しかけるって、私が、誰に。あなたに?
何を。
「まさか百夜の婚礼まで話もしないつもりですか。どれだけ古い伝統を知っているのですが、貴女は……」
ちょっと待って。ほんと待って! 新出単語入れないでー!!
「……ぁの!」
「はい、なんでしょう」
「ジャディル・イシュク・アーキス氏に伺いたいことがありますのですがっ!」
「ええ、よろしいですよ。言いなさい」
何だってこんなに日本語上手いんだろうかこの人。そしてなぜにこうも言い回しがふてぶてしい?
まぁ声の美しさで全部チャラになるけど。
せっかく声が出るようになったのだからここが正念場だ。
今までの疑問を全部ぶつけてやろうと息を吸い込む。ついでにずれまくった眼鏡も直して。
「大変申し訳ないのですがどうやらあなたと私の中で認識の差違があるようでつまり何を言いたいかというとあなたの言っていることが全くさっぱりわかりませんので一から十までご説明いただけませんでしょうか!!」
「は……?」
ノンブレスで言い切ったそれに対する返事は、一音。
「…………貴女は俺のことを見ていたでしょう、あんなにも熱心に」
「いや、私は本当にあなたのお顔というか容姿を見て幸せな気持ちにならせてもらっていただけでして、決してあなたとどうこうなりたい訳ではなくてですね」
絶対に、確実に彼は勘違いというものをしているのだろう。
これを指摘するのは、彼にとっては屈辱かもしれない。
だけど間違えたままではいけない。お互いのためにならない。特に、彼の嫁になりたい訳でもない私のためには絶対ならない。
私は熱心に見ていた。彼だけとは言えないが、彼を特にじっくりと見ていたことには間違いない。
ただそれは鑑賞なのだ。決して愛慕の情あってのことではないのだ……個人的な経験から基づく勘によると。
彼が一歩、二歩と更に近づく。
私の身長は女にしてはだいぶ高いはずなのに、ここまで近づかれると身長差が大きくて見上げないといけなくなる。
「……確認しましょう。俺の問いに答えなさい」
傲慢な台詞。自分が拒否されるとも思っていないそれに、私は素直に頷いた。
何でって、そうしないと話が進まないからだ。それと声がいい。とにかく顔と声がいい。
「貴女は俺を見ていた。俺が誰といても、必ず俺を一番よく見ていた。それに間違いは?」
「ありませんが」
だって見ていると一番幸せになれる、私好みの美しさだから。
当然とばかりに肯定すると、彼は凜々しい眉を軽く寄せた。
あ、この表情めっちゃセクシー。さすがわが大学が誇る魔性男子トップオブトップ。私が勝手にランキングしているだけだが。
ようやく冷静になれたので、この距離でも鑑賞ができる。
こんな機会はもう二度とないだろう。爪の先から唇の色までじっくり見させてもらおうではないか。
「十の逢瀬、名交わし、百夜の婚礼。この単語に聞き覚えは?」
「全くありません」
力強く首を横に振ると、彼は眉間に深く皺を刻んでため息をついた。
本当にそんな場合じゃないのだろうが、どうしてこうも細かな所作ですら麗しいのだろう。
「……俺の国では、求婚に際していくつかの作法があります」
「はぁ」
「男から女への求婚は一度目にし、二度言葉を交わし、三度問いかけて名を聞けば、家から女を連れ出し嫁にすることができます。男はその持ちうる富と愛の大きさによって複数の妻を持つことが許されています」
何かすごいスピード婚だな。しかもハーレムか。
確か彼の祖国は黄金郷と呼ばれる程豊かな国だ。それにこことはかなり文化が違うと聞いた。
反応しないことで話の続きを促せば、彼は目を眇めてなぜか私を睨み付けてくる。
「女から男に求婚することもあります。本当に稀ですが」
「はぁ」
「……女からの求婚は、まず声をかけずに目で男を振り向かせること」
「いきなりハードル高いですね」
「男が女の視線に気づいたのなら、女は男が目を合わせてくれるのを待ちます。男がその女を娶りたいと思い、目を合わせることが十度続けば、互いの名を呼ぶことが許されます」
「ほうほう」
「名を交わし呼ぶことを許されれば、女は男の家へ迎えられ、百夜を経て晴れて花嫁となるのです。以前は百夜のうち女はみだりに声を出してはいけないとされていましたが、それももう形骸化しています」
「女性の方はずいぶん時間もかかるんですね」
「そうでしょうか。百夜の間に孕まなければ何をしてもよいのですから、実質嫁に行くようなものでしょう」
「ホッ」
変な声が出た私をスルーして、彼が先ほどよりも強く私を睨む。
一体私が何をしたと言うのだ。美しすぎて怖いんだが……
「貴女、自分がした行いを思い出しなさい。そして俺が言ったことを」
「はぁ……」
私がしたのはまず鑑賞。
遠くからじっくりうっとり見させてもらって、そうしたらなぜか何度も目が合うようになって。
今日独り言で彼の名前を呼んで、謎なことに彼がいきなり目の前にやってきて、更に更に私の名前を、呼ん、で…………
え? は?
「いや、いやいやいや、そんな」
「純粋な好意、あるいは賛美。興味深くそして夢見るように自分を見るその眼が、いつでも自分を追ってくる。そんな視線を向けられて、当然求愛だと思うでしょう」
「それはあれですよ文化の違いってやつで」
「どうでもよろしい。俺がそう捉えたのですから貴女の視線は求愛です」
そんな横暴な。
「どう言い訳しようと、もう手遅れなのですよ。わかりますか、白尾依月」
いや、わからない。
その傲慢過ぎる超理論は私の脳内では展開されない。
爪の先まで整い、彫刻じみた長い指が私の顎をつい、と撫でる。
背筋がぞわりとした。ただ、嫌な感じではないことが何よりも嫌だ。
私はただの鑑賞者でいたいのだ。
恋をするとどんな風に見えるかなんてもうどうでもいい。そんなことを一瞬でも考えた私が馬鹿だった。
この完璧極まりない極上のいきものと恋に落ちるなんて、妄想でもどうかしていた。
変な妄想をしたのは謝るから、頼むから離れてくれ。
恋愛というのは、もっと私が考える作法に則った形で始まってほしくて、いや始まっても困るのだができるのならそう始まるべきで……
「俺は貴女と目を合わせることを望んだ。貴女を娶ることを、この俺が望んだのです」
さっきまで調子よく出た声が、また出てこない。
とろりとした金がたゆたう、彼の瞳が私の喉を塞いているよう。
いつもより輝いて見える、そんなローアンバーの瞳があまりにも美しくて。
「白尾依月。俺の愛しい人――俺に恋をしなさい。俺を愛しなさい。その甘ったるく青い恋愛観を捨てて、この最高の男に愛されなさい」
――ここまで傲慢で、史上最強に自分勝手な告白をもらう日が来るとは思わなかった。
「愛しい人、と言われても……」
「貴女が俺に恋愛的な好意を向けていないのはわかりました。だから今から向けなさい」
「無茶言うな」
「無茶ではありません。この俺が一心に富と愛を注ぐのですから、俺を愛さない訳がないでしょう」
「いや富ってあんまりにも打算的では」
「そうでしょうか。俺の国では富は妻を磨き妻を守るもの。富を持たないより持つ方が生も豊かでしょう。奥ゆかしい貴女がそう思うのも理解できますが、慣れなさい」
「慣れないよ!?」
その前に丸め込もうとするな。ほんっっっのすこーーーしだけ素直に頷きそうになったら。
どうしてこんなことになってしまったんだ。
私はただ、見ていただけなのに。
いや、彼のお国柄的に見ているのが既にアウトだったのか。
私は一体どうすればよかったんだ。その前に、今どうすればいいんだ。
「頷けばよろしい」
「声に出てた?」
「貴女の眼は素直です」
「…………」
眼鏡のレンズは、どれくらい分厚くすれば簡単に目が見えないようにできるのだろうか。
うつむき無言でフレームを押し上げた私の顔をのぞき込むようにして、魔性の美貌が近づいてくる。
「どうしても嫌なら拒みなさい。貴女の態度は私を嫌っていないように見えます」
「それは……」
嫌いな訳がない。私史上最高の美形だ。
私が幼い頃から趣味にしていた鑑賞対象で、最高の人。
本人の言うとおり、自称しても差し支えない程の〝最高〟だ。
どうしようとは思う。話についていけないとも、展開があり得ないとも。
ただ、嫌な訳ではないのだ。今まで散々鑑賞対象にした相手が、いきなり恋愛対象にしろとぐいぐい来るので色々困っているだけで……
「ん?」
困って、いるだけ?
それだけなのか、私は。
「ええと……どうしても無理、という訳では」
「よろしい。では祖国に帰り婚礼を」
「違う違う違う! まだまだ話があるわ!」
滅多に大声なんかあげないのに、何度も叫んでいるせいで喉が痛くなってくる。
頭痛までしてきて、思わず頭を抑えた私の腰をなぜか彼が抱く。
近くにあった適当な机に彼が座り、私はそのまま片膝の上に座らされてしまい。
あまりにもさらりと行われたそれに、抗議の声も出ない。
「妻の体調を管理するのも夫の務めです」
「いや夫婦ではない」
「このまま話しなさい。貴女はどうも、俺を真正面から見るとやや言葉に詰まるようですね」
そりゃあ、あなたの目が希少な宝石より美しいからで。
言わないでおくものの、きっとバレている気がしてならない。
「……私、あなたのことをただ見ていただけなんだけど。美しい人を見るのが好きで、あなたが私の好みに一番合致していたから。申し訳ないけど、見ているときは本当に恋愛感情がなくて」
「ええ」
「ただ、今はあなたがその他大勢を見る時と恋をした相手を見る時、あなたの綺麗な瞳がどう変わるのかが気になっている。ただでさえ綺麗なのに、どんなに輝くんだろうと思って」
「そうですか」
「こんな興味本位のレベルであなたに好きになってもらうのは、とても心苦しい。だから今までの私の行動には意味がなかったんだと思ってほしい、のですが」
一応、自分の頭に思い浮かべていたことは言えた。
恋愛感情がない、とはもう言い張れないだろう。
ああ、そうだ。私はこの麗しい男が少々気になっている。気にならない男との恋に落ちた場合なんて妄想する訳がない。
きっかけは当然容姿。ただ彼の瞳が非常にまずかった。
あの瞳はまさに魔性だ。彼に見つめられたら、それが何度も起これば、特別な気持ちのひとつふたつは浮かんできてしまうだろう。
〝目が合ったくらいで恋愛どうのこうのに発展するのを想像できない〟なんて、よく思えたものだ。私自身がそうなってしまっているのに。
だが私の中にあるのは、まだあやふやな、恋と呼べない程度のもの。
はっきり彼を好きだとか、そんな風に声に出すこともできないくらいにふんわりとしている。
こんな気持ちで婚礼だの求婚だの、そんなことを考えるなんて土台無理だ。
落ち着ける体勢ではないことはわかっているものの、真正面からあの顔を見るよりは安心する。
そっと息をついた私の背後で、低い笑い声と振動が生まれる。
「……何」
「いえ、本当に青い恋愛観だと思いまして」
なんだこいつ。
全力で馬鹿にしてきている。
「失礼。ここまで染め甲斐のある妻も稀少でしょうね。俺は幸運です」
「だから私はっ」
「――手遅れだと、言ったでしょう」
ぐっと頬を掴まれて、ローアンバーの瞳と真正面から対峙する。
少し痛くて文句を言おうとしたけれど、その目を見て言葉を失ってしまった。
この瞳はこんなに、濃い金色だったか。
溶かし込んだ金、それ自体が淡く光を発するように折り重なって。
すごく、すごく――
「見なさい。これが、恋をした男の目ですよ。貴女を手に入れられたことに歓喜する男の目だ」
「きれい……」
こんな綺麗なもの、初めて見た。
人間の瞳が、こんなにたくさんの色を、光を、熱を孕んで、美しく光るなんて。
「俺は気の多い性質ではありませんので、元より妻をひとりしか持たないと決めています。これは貴女にしか向けられないもの。嬉しいですか」
「うん」
「よろしい。では……」
「しないから、婚礼、まだ早いから!」
「成る程。〝まだ〟なら妥協しましょう」
「あ」
思い切り顔を引きつらせた私を見て、彼がにやりと笑う。
ああ、その笑い方は雰囲気に似合いすぎてまずい。つまり美しい。
「ええと、ジャディル・イシュク・アーキス氏」
「ジャールで結構。何ですか、依月」
「ひとつ、提案がありまして」
「普通に話しなさい。敬語と混ぜる意味はないでしょう」
「ああ、うん……わかった。で、相談なんだけど」
私はまだ恋愛未満の感情。彼はもはや結婚秒読みの勢い。
私達が今後どうなるかは、このスタンスというか立ち位置のすりあわせというか妥協が必要だろう。
『ここはひとつ、お知り合いからはじめようと思うんだけど、どう?』
そう言った私に対して彼がどんな行動を起こしたかは――言いたくは、ない。
とりあえず恋人からという無難なところに落ち着いたことだけ、報告しておこう。
END
閲覧ありがとうございます。
変な方向に突き抜けた感じの男女が書きたくて、やってみたら思ったよりも変人になりました。両方とも。しかもまともに恋愛しない。
いつもながら結構、いやかなり好き嫌い分かれそうなヒーロー・ヒロインです。
ちなみに白の彼は別のお話を考えているので、いつか時間を見つけて書きたいです。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
20180414/矢島汐