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星の命

作者: 野村 礼瑚




 見上げる星空は、いつも綺麗過ぎて泣きたくなる。


 幼いころ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが教えてくれた。「あのお星様のどれかが、さやちゃんのお父さんとお母さんだよ」って。


 それからずっと、辛い時も悲しい時も、もちろん楽しい時も幸福な時も、星空を見上げて来た。これからも、ずっとずっと両親の光に見守られながら、あたしは生きて行くのだと思っていた。


 だから、たった十六年で生涯を閉じるなんて夢にも思わなかった。




 白い光がぼやけたような淡い診察室。


 くるくる回る、背もたれもない丸い椅子に座るあたし。


 目の前では、お医者様が難しい話をし、あたしの背後の祖父母は、あたしの肩に手を乗せ立っている。


 お祖父ちゃんの手は右肩に。お祖母ちゃんの手は左肩に。


 二人の手は強く暖かい。でも、小刻みに震えていた。


 震えがました分だけ、二人はあたしの肩を強く掴む。


 それは、決して手放したくないものを掴む時の手の強さ。


 あたしは、どこか他人事のように先生の話を聞いていた。


 なんだか嘘のような気がして、実感がない。


 急性骨髄性白血病。


 あたしはその病で死ぬらしい。


 お母さんは脳の癌である神経膠芽腫。お父さんはスキルス胃癌。そしてあたしは白血病。悪い夢だ。


 がんは遺伝病ではないそうだけど、あたしを診察した先生はこう言った。「遺伝するのはがんではなく、がんになりやすい体質かも知れません。がんの発症メカニズムは解明されてないので、私の個人的意見を出ませんけどね」と。


 バイト先で鼻血を出し、そのまま貧血で意識を失い病院に担ぎ込まれた。


 その後何度かの検査をし、今日の話。


 先生に、いろいろ質問する祖父母の声が震えていて、あたしは後ろを振り向けなかった。


 今、泣いている二人の姿を見たら、壊れるくらい号泣してしまって、二人を一層悲しませてしまう。


 まだ体調はそれほど悪化してはいない。とはいえ、すぐ入院して治療をしなければならないらしいが、あたしは三日間だけ猶予をもらった。


 もう、バイトはもちろん、学校にも行けない。




 帰り道、心配する二人に友達のところに寄るから一人で帰ると伝え、とぼとぼ歩く。


 振り返れば、巨大な病院が寒々と立つ。あたしの目には、まるで墓標のように映った。


 二度と来たくない。


 暫し歩いたところで、祖父母の乗ったバスがあたしを追い越す。


 バスの中から、心配そうに見詰める二人にあたしは笑顔で手を振る。


 それが限界。二人を見送ると、あたしの顔からは笑みも生気も消えた。


 バイト先の人や、友達になんて言おう?


 仕事、出来ないのが痛い。


 治療費がすごいことになっていた。特に輸血の費用が高い。人が無償で提供したものが高額って、どういうカラクリなのだろう?

 入院なんてことになったら、とても二人には払えない。


 暗く沈んだ心で見上げた秋空はすみわたり、遥か遠いはずなのに、掴めてしまいそうなほど近くて、あぁ、あたしは天に近いと思った。


 空が潤んで泣いている。

 あの日倒れてから、あたしは初めて泣いた。


 覚悟が出来ているなんて嘘。


 本当は、もっと先だと思っていた。


 だからこそ、わざわざ働く時間を削ってまで定時制高校に通っていた。


 本当は、高校になんか行かず、働いて働いて二人に早く楽をさせてあげたかった。


 けど、高校も出ていないとろくな働き口もないし、何より二人はあたしが高校に行くことを切望した。


 本当は、定時制ではないところに通わせたかったみたいだけど、私と二人の希望の間を取り、定時制に通いながら働くと言うことになった。


 それから、まだ半年しか経っていない。


 あたしは、十六歳になれるかさえわからない。


 空は、雷鳴(ひめい)を伴い泣き続ける。青く、晴れ渡った空が。




 友達に会うなんて嘘。あれ以上二人といて泣かない自信がなかっただけ。


 ゆっくり駅まで歩き、電車に揺られて帰る。


 日が暮れだした車窓の外は、茜色に染まり、血が滲んだような鮮やかさ。


 鼻血が止まらず、ポケットティッシュを使いきり、両手が血に染まった時のことを思いだす。すすって呑み込んだ血を、大量に吐いたことも。


 気分が悪くなり、出入口付近のポールにもたれ、しゃがみこむ。


「大丈夫?」


 近くに立つ女性が心配そうに声をかけてくれた。


 優しさが痛い。今のあたしは、かさぶたさえないぶよぶよの傷を負っているのと同じ。優しく触れられるだけで、血が噴く。


「大丈夫です」


 答えた声は涙で震え、あたしはうずくまり泣き出してしまう。


 心配するまわりの視線が突き刺さる。


 こんな時、人はどうすれば良い? 正直に、「あたしもう直ぐ死ぬんです」と答え、涙を振り撒き、悲しみを伝染させ、哀れみをもらえば良いの?


 そんなことあたしはしたくない。


 人は優しい生き物。同族愛に満ちている。優しさを施してくれた相手を悲しませるくらいなら、変な子と白い目でみられる方がまだまし。




 駅からの帰り道。


 すっかり日は暮れ、街灯に照らされた金木犀が夜風に揺れている。


 秋の香りが辺りに漂い、すする鼻水もフローラル。


 あたしは、後何度この香りをかげるだろう? 無菌室に入れられたら、外気の匂いに触れることなどなくなるのだろう。


 いびつに曲がりくねった道には、旧い家々が並び、この時間でも明かりの付いていない家には、人が住んでいるかどうかさえわからない。


 そんな家の一つが我が家。でもうちにはちゃんと明かりが付いている。


 帰ると、二人はあたたかくあたしを迎えてくれた。


 泣き腫らしたあたしの顔にはふれず、体の芯から温まるような料理を食卓に並べる。


 幸せな一時。


 永遠には続かないとわかっていても、ずっと続く気がしていた。


 食後、何かよい方法はないかと模索してみる。


 あまり明るくない考えばかりが浮かび、泣きそうになる。


 とにかく、今出来ることをと思い、学校に電話する。


 担任の先生にこれから行っても良いか聞き、遅い時間なのに快諾をもらい電話を切る。


「さやちゃん、今から学校行くの?」


 話を聞いていたお祖母ちゃんが言った。


 曖昧に笑いあたしは答える。


「うん、長期の休学になるみたいな話、しなきゃいけないし」


「何も今日でなくても」


 心配そうな祖母の顔が胸を刺す。あたしは本当に愛されていると言う実感が。


「うん、そうだけど、検査入院から解放されて、久しぶりに先生にも会いたいから」


「それじゃあ私達も」


 そう言って腰を上げようとした二人に、あたしはあわてて言う。


「あっ、一人で大丈夫だから。今日は二人共疲れたでしょ? ゆっくりしてて」


 心配そうな顔をする二人をなんとか説得したあたしは、制服に着替え家を出た。


 七十近い二人は、重病ではないけれど病院通い。心労などがたたればどうなるかわからない歳。


 無理はさせられない。


 あたし達の命は、とても細い綱の上にある気がする。


 高校へ向かう電車の中、命の不安など抱えてないであろうギャルが化粧をしている。


 羨んでは駄目。不公平と思ってはいけない。でも、『なんであたしは死ぬの!?』と、叫びたくなった。狂うくらい我儘に、不平を、怒りを、不幸を、何もかもを世の中にぶちまけてしまえたら、この潰れそうな心が少しは楽になる気がして。


 だけど、あたしにはそんなこと天地がひっくり返っても無理。


 良い子でいることになれ過ぎて、不満の吐き出し方なんてわからない。そういうことは全部、ただ我慢して来たから。


 人生を振り返ると何もかもが悔しくて、あたしはただ、震える唇を噛んだ。


 駅から高校への道。街灯もまばらで、いつも防犯ベルを握りしめ、すれ違う人や同じ方向へ歩く人を警戒して歩いていたが、今は何も怖くない。そもそも防犯ベルも家に置いたままなので手元にはない。それでも、今のあたしにはなんの恐怖もわかない。“何か恐ろしい目にあうかも知れない”そんな可能性の話などには何も感じない。あたしは、半年以内に必ず死ぬ。その確かな現実が与える恐怖に比べたら、何も恐れるものなどない。


 白血病は不治の病ではない。悲劇のヒロインなどに定番化した病だけど、今は医学が進み、死なない人もいる。それでも、必ず治る病気でもない。


 そして何より、あたしには確かな死の確信がある。あたしはきっと、半年よりずっと早く死ぬ。一月後の、同じ日付に生きているかさえ怪しい。


 暗い想いだけが胸をぐりぐりと掻き回す。


 定時制の授業時間も終わった校舎は、明かりもまばらでどこか寂し気。


 職員室に居る教員の数も少なく、わずか数名。


 あたしを見付けた先生が快活に笑い歩み寄る。


「磯崎、元気そうだな。安心したぞ」


 姉御系の沢田先生は、明るさと元気の塊みたいな人。だから検査入院で休んでいたあたしに“元気そう”なんて言える。


 曖昧に頷き、面談室に移ってから、あたしは話し難い話をぽつらぽつらと話す。


 最初は事態の深刻さがわからず笑っていた先生も、診断書に目を通すころには顔つきが変わり、険し気な、泣き出しそうな顔になる。


 強い人の泣き顔は見たくなくて、あたしはうつむいたまま先生と話す。


 話の途中、先生が突然あたしをがばっと抱き締めた。


 押しあてられた胸の震えと、抱き締める手の強さが心を揺さぶり、堪えていたものが、堰を切って吹き出す。


 今日だけで、あたしは一生分の涙を流すかも知れない。


 あたしと先生の泣き声だけが、暫し面談室に響き続けた。




 誰もいない教室は静まり返り、心がすーっと落ちて行く。


 家まで送ってくれると言う先生の申し出を丁重に断り、あたしは私物の整理をする為教室へ来ていた。


 明かりも付けていない教室には、月明かりがやわらかく射し込む。


 ゆっくりと、落ち着いた気持ちであたしは決心する。


 死のう。


 ずるずる生きていても、二人の負担になるだけ。


 負担程度なら良いけれど、あたしの入院費は二人の首を確実に締める。


 先の見えない生活は、二人の精神を削り、命さえ取りかねない。


 いろいろ考えたけれど、これ以上の最善策が思い付かない。


 先生は、学校中の生徒に骨髄バンクにドナー登録するよう呼びかけるとか言っていたけれど、それはありとあらゆる意味で無駄なこと。まず、骨髄バンクに登録出来る年齢は18からで、ほとんどの生徒が無理。次に、実際に骨髄を提供出来る年齢は20からなので、この条件を満たしている生徒は一人もいない。


 先生の無知を責める気はないけれど、そもそも白血病イコール、骨髄移植をしないと助からない。と言うのは間違い。移植療法などしなくても、健康に生活出来るくらい回復している人はいる。同じく、骨髄移植をすれば助かる病と言うのも間違い。移植にはリスクも伴うし、移植後再発すれば、事実上手の施し様がなくなる。


 そして何より、あたしはドナーがいたとしても、移植を受けられるような状況にはならない。それが、あたしの半年以内に確実に死ぬ理由でもある。


 あたしの為に一生懸命何かをしようとしてくれている先生に、それが無駄なことだとはあたしは言えなかった。


 暗い想いだけがぐるぐると頭をめぐり、遺書を書こうとするが、一文字も書けない。


 遺書なんて、結局死に逝く人間の言い訳でしかない。「今までありがとう」「幸せでした」「先立つ不幸を……」どんな言葉を並べたって、残される人に残せるのは悲しみだけ。死に逝く人間の、ただの自己満足。


 そんなものはあたしには書けない。


 くしゃりと白紙の便箋を握りしめ、あたしは駆け出す。


 薄暗い廊下を走り、月明かりと踊るように階段を駆け上がり、屋上へのドアにたどり着く。


 ちょっと走っただけで息が上がった。弱っている。確かな体力の衰えが、あたしの心を更に下へ下へと落として行く。


 踊り場の隅、消火器の後ろに手をまわし秘密の合鍵を手にする。


 先輩に教えてもらった。普段生徒が入ることの出来無い屋上へ行く為の鍵のことを。

 カチャリと開いたドアの向こうから、冷たい夜風が吹き込む。


 先輩は、こんなことをさせる為にあたしに鍵のことを教えた訳ではないだろう。


 鍵のことを教えなければ、そんなふうに自分を責める先輩の姿が浮かび、胸がズキリと痛む。


 きっと、あたしと最後に話した先生も自分を責めるだろう。なぜ気付けなかったのかと、どうして止められなかったのかと。


 風が冷たい。


 凍えるような痛みに、泣きそうになる。


 あたしの死は、あたしと関わりのある全ての人に悲しみを与えるだろう。


 自分の葬式の様が頭に浮かんでくる。まるで幻覚のようなリアルさで。


 友人達が泣いている。あたしの棺に花を手向け、肩を寄せあいハンカチで目を覆う姿。口々に、「さやか! さやかッ!」とあたしのことを呼ぶ皆の声。


 バイト先のおばちゃん達も、涙をこぼし呟く。「こんな若い子がどうして」「かわってあげられたら」「さやちゃんみたいな良い子が」言葉の後に続くのは嗚咽。


 先生が、「ばかやろーッ!」と怒鳴り、棺桶をばんばん叩き、「なんで死んだりするんだ!?」って、泣き叫ぶ姿。


 胸がイタイ。胸がクルシイ。胸がサケソウ。


 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの泣き顔を想像すると、あたしは夜の屋上で、声を張り上げ泣いていた。


 しわだらけの顔を、さらにしわくちゃにし、ぽろぽろと涙を流し泣いている二人の姿。「さ、や、ちゃん」涙で、片言さえ言えない二人が、棺桶の中眠るあたしに触れ、泣き咽ぶ。


 喉が裂けるくらい、絶望的な悲しみが溢れ出る。


 気が狂う。哀しくて、悲しくて、カナシクテ。


 それでもあたしは、死ぬしかない。


 暗黒のような真っ黒な空の下、月明かりだけを頼りにフェンスを乗り越える。


 星が、綺麗に瞬いている。まるで涙を流しているように。


 お父さん、お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい! ごめんなさいッ!


 狂ったように涙が溢れ、心が叫び続けている。


 眼下には、薄暗い校庭が見えるだけ。明日は、見えない。


 足がすくむ。


 あたしの命は、フェンスを掴む手だけで支えられている。


 痛みや苦しみなど一瞬。手を放せ! と自分を叱咤するが、握った指の一本一本が開いてくれない。


 リアルな想像が加速する。葬式の場面から、その後へ。あたしのいない家にいる二人の姿。一気に老け込み、背中を丸めている。ひどく小さく儚い。吹けば飛ぶような命の情景。


 自分の命より大切なものを失った人の姿が、鮮明に目に浮かぶ。


 あたしのことを、ぽつり、ぽつり、と話しては、顔を覆い泣くお祖母ちゃん。うつむき、目頭を抑え肩を震わすお祖父ちゃん。


 全てが灰色に霞んで行く。


 あまりにも悲しい光景に、精神が頭の芯から狂って行く。


 絶望が胸の中で爆発する。叫びと嗚咽が夜の校舎に響き渡る。


 可哀想なのは、死ぬしかないあたしじゃない。あたしに取り残される二人だ。


 ここで死ぬ訳にはいかない。


 震える指が、確かな力であたしの命を引き戻す。

 二人を残しては、死ねない。


 フェンスを乱暴に乗り越え、溢れる涙を拭い捨て、あたしは修羅の想いで帰路に付く。


 残して行けない命なら、奪うしかない。二人を殺そう。


 愛しているから、苦しめたくないから、悲しませたくないから、殺す。


 矛盾と絶望が頭の中をめちゃくちゃにし、心がどろどろと血を吹き出している。


 正しくなどない。でも、間違っているとは言い切れない。人は、愛しさ故に悪魔にもなれる生き物だから。


 夜空の星が、一つ、また一つと、厚い雲に覆われ消えて行く。あたしの希望も、夢も、願いも、同じように消えて行く。


 お父さん、お母さん、どうか見ないで、あたしが壊れる姿を。


 あたしの先行きと同じ深い闇の中、どこをどうやって帰って来たかわからない。


 もはや、あたしの精神は正常では無いと言う自覚がある。


 遅い時間だと言うのに、家にはまだ明かりがついていた。


 さすがに二人は寝たのか? 家の中はしーんと静まり返っている。


 まず、自分の自殺道具を探す為、戸棚のなかを探る。


 古い蛍光灯のくすんだ色が手元を照らしている。


 薬箱が見つからない。


 普段あたしが使うことはないので、どこにあるか良くわからない。


 あたしは、風邪を引いても風邪薬を飲まない。いや、飲めない。


 風邪の症状があまりにひどく、三錠飲まなければいけない薬を、たった一錠だけ飲んだことがある。結果は、脈拍が低下し、あたしは失神して病院に担ぎ込まれた。


 何か薬を一瓶飲めば、あたしは簡単に死ぬだろう。


 過度の薬物アレルギー疾患。


 あたしが生まれた時から患っている病気であり、白血病で確実に死ぬ理由。


 化学療法全盛の今時に、あたしは抗がん剤一粒飲むだけでも命に関わる。


 ブドウ糖やビタミン剤だけで、白血病をどう治せと?


 あたしには、生きる道がない。


 そんなあたしに病院が出来ることは、無菌室に押し込み、ブドウ糖とビタミン剤を点滴し、細菌ゼロになるくらい良く火の通った料理を出すだけ。


 それを治療と呼ぶだろうか?


 それはもう、延命治療ですらない。そこにあるのはただ終わりを待つだけの日々。それこそ、病名の由来通り、血が白く膿んで死ぬまでそんな日々が続く。あの、愛する祖父母の命を削って、最後には死ぬだけ。そんなの耐えられない。


 あたしに何が出来る? もう、殺すしかない。


 薬箱を探す手が、分厚いアルバムを落としてしまう。


 開いて落ちたアルバムから、一枚の写真がこぼれた。


 裏向きに落ちた写真。そこに文字が書かれている。アルバムは何度も見たことがあるけれど、写真の裏に字が書かれているなんて知らなかった。


『私達の生まれた意味』


 その文字を見て、一枚の写真の映像が頭に浮かぶ。


 崩れるように座り込んで写真に伸ばした手は、カタカタと震える。


 揺れる指先で表にした写真は、頭に思い浮かべたものだった。


 思考が止まる。


 頭の中が真っ白になる。


 それは、まだ赤ん坊のあたしと、それを挟む形で両親が映る写真。


 三人の顔が並び、皆笑っている。


 もう、お母さんは死ぬことがわかっていて、お父さんも闘病中に撮られた写真。


 あたしが、死を覚悟していた二人の生まれた意味?


 すーっと鍵が現れ、ずっと閉ざしていた心の扉をカチャリと開く。


 自分は白血病ではないか? 死ぬのではないか? そう思った時から、ずっと願わなかったことがある。叶わぬ願いだからと。


 だけど、想いが強すぎて、閉ざした扉が開いた。


 ずっとずっと、我慢していた想いが、魂の震えのような嗚咽と共に溢れる。


 “生きたい”


 ずっと願わなかった願い。


 “生きたい!”


 肘を付き、両手で顔を覆う。


 “生きたいッ!!”


 指の隙間から零れる涙が、微笑む三人の上に降り注ぐ。


 “生きてあげたい”


 あたしを産んでくれた両親の為に!


 “生きてあげたい!”


 あたしをここまで育ててくれた祖父母の為に!


 “生きてあげたいッ!!”


 あたしと関わりある全ての人の為に、しわくちゃになるまで、生きてあげたい!


 この命は、あたしひとりのものじゃない。


 あたしひとりの死にたくないと言う想いなんて、砂粒程に小さい。皆の為に生きたいと思う、この想いの大きさに比べたら。


 奇跡なんて願ったことはないけれど、初めて願った。


 奇跡を起こしてでも生きたいと。


 キシッ


 直ぐ後ろで聞こえた床の軋みに振り返ると、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが心配そうにあたしを見詰めていた。


 魂が弾ける。


 あたしの体は考えるより先に魂に突き動かされ、二人に駆け寄り抱き締めていた。


 魂が、震える様に叫ぶ。


「絶対、絶対、絶対! 絶対! 絶対ッ!! 絶対ッ!! あたし、生きるから! 生きるからッ!!」


 泣き叫ぶあたしの声に、号泣する二人の声が輪唱する。


 あたし達の命は、細い綱の上になんかない。三人より添えば、大木より太い。それが、あたし達の命の強さ。


 必ず生き抜いてみせる。命の力に溢れる今のあたしなら、きっと奇跡だって起こせるから。


 窓の外、厚い雲はいつの間にか流れ、満天の星空が優しい光をそそぐ。


 キラキラと、希望の光を。


 お父さん、お母さん、生きる力をありがとう。


 ありがとう。


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