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stage 04:pendulum

stage 04

pendulum



 時間はもう夜の九時を過ぎているというのに、夏休みに入ったばかりのためか道路脇の歩道にも人は多く、蒸し暑い空気とあいまってまだ宵の口のような雰囲気であった。

「ウイカのバイトが終わるのはもうちょっと先か。とりあえず冷やかしついでに寄ってお菓子と飲み物でも買っておくか」

 コンビニエンスストアのそばを通った時、思い出したようにアツシが言った。

 ダッシュボードの上に置かれたビデオレンタル店の袋が少しずれたのををダイキが直す。ダッシュボード上の大きな袋と比べるまでもなく小さい袋を手にダイキがそわそわしていた。

「今のうちにどっかしまっておけよダイキ。ウイカに見つかったら俺までとばっちりを食らうからな」

 ついこの間まで鼻たれ小僧だったダイキがいつの間にかこういうことに興味を持つようになったんだな。思いながらアツシは自分の中学時代を思い返すが、意外にはっきりとは思い出せない。

 中学時代。アツシは本格的に店を手伝うようになりウイカも見よう見まねで店の手伝いを始め、ダイキはまだ幼稚園児だった。

 マドカさんとノリコちゃん……北糀谷家が引っ越してきたのも、ちょうどその頃だったっけ。

「兄ちゃん、ついでにエロ本とか買ってったら姉ちゃんどんな反応するかな?照れたりするのかな」

 ダイキが言うと苦笑いしながらアツシが答えた「あいつがそんなタマかよ。あとで散々ネタにされるのがオチだろう」

 実例を話そうと思ったがアツシは思いとどまった。

「あとなぁダイキ、最初に借りようとしてたありゃなんだよ。あんなのがしたいってノリコちゃんに思われたらどうするんだ……変なもの見つけたから見たいってのはわかるけど、あんな下ネタの延長みたいなのを若いうちから見てるとロクな事にならないぞ」


 馬潟の繁華街から少し離れた、小学校のそばにあるドーソン。夕方から夜のバイトなら、近所のコンビニにも募集の貼り出しがあったし馬潟ならもうちょっと駅に近いところもあるだろうにと思いながらアツシは車を降りた。

 いらっしゃいませ。丁寧なお辞儀をする店員は髪が長く、ウイカではなさそうだった。店内をざっと見渡しても、他の店員が見当たらない。

 買い物かごを手に店内を回って、飲み物の棚の裏でジュースを補充している音が聞こえてたぶんこれかなとアツシは思った。

 アイスにお菓子、ジュースとお茶にビールとつまみ。漫画雑誌。兄弟で映画を見ながら夏休みの夜を楽しむには、だいたいこんなもんだろう。

 ダイキは漫画雑誌のコーナーにいるようだ。ウイカはまだ出てこない。

「……どうかなさいましたか?」店員が聞いてきた。

「ああいえね、うちの妹がここで働いてるってんで、ビデオ借りてきたついでに見てこようかなって……」

 聞いた覚えのある声。後ろにまとめているが、艶のある長い髪。自信に満ちた笑顔。名札を見る。研修中。その下の名前。

「アイエエエ!ナンデ!?ウメヤシキ=サン、ナンデ!?」

 アツシが買い物かごをカウンターに置くのを待ってから、ミチルが口を開いた。

「夏休みの間、社会勉強としてアルバイトをしてみようと思いまして。一人ではいささか不安でしたので、ウイカさんに先に働いていただいて、わたくしのフォローをと……快諾していただき、感謝しておりますわ」

 馬潟駅からそう遠くはないが、繁華街からは離れていて騒々しくもなく、かといって人通りが少なく危ない感じでもない。

 ミチルがここで働く事を決めていて、そこにまずウイカが、という事か。アツシは納得した。

「ああそういうことでしたか。俺が言うのもなんですがウイカの奴はうちでもよく働いてくれてて、店の手伝いはもうダイキで充分かなってんで外で働くって言ってたんですが、そういうことならジャンジャンこき使ってやってくださいよ」

「いえわたくしもウイカさんのお手を煩わせないようにがんばらなくては、と」

 言いながらミチルは買い物かごの中の商品をスキャンしていく。アイスにお菓子、ジュースとお茶にビールとつまみ。漫画雑誌。成年向け漫画雑誌。

「!?……!アイエッこんなの入れてないこれはあの違うんですミチルさん」

 取り出した財布を落としてアツシがあわてている間も、ミチルは淡々と商品を袋に詰めていった。「お気になさらずに。これもお店の商品ですから」

「あいやいえいえこれはほんっとに入れてなくて、なんでこんなの入ってるのかって、……すいませんそれはナシでお願いします」

 少しの間ミチルの指が迷って、レジを操作して成年向け漫画雑誌の取り消しを行う。そうでしたわポイントカードは。ああいや持ってないです。

 アツシが支払いをしている間にウイカが別のカウンターに入って次の客を呼んでいた。アツシはそそくさと店を出たが、ウイカが応対をきちんとしているところは確認して少し満足して店を出た。


「あぁひどい目にあった。いったいなんだってんだあれは……そろそろバイト終わる時間のはずだから、俺はもうひとっ走りしてウイカとミチルさんを迎えに行ってくるよ。アイスと飲み物冷蔵庫にしまっといてくれよダイキ」

 ウイカに電話しようと取り出したアツシのスマートフォンにメールが届いた。ウイカからだ……読んでいる間に、ダイキの携帯電話が鳴る。

「……ダイキおまえ!おまえかっ!」アツシが見ると電話を取ったダイキの顔色が一瞬で変わったのが見えた。

「サハギンクラブ八月号。”わたしを海に帰してください。な・ん・で・もしますから”」アニメのような声色から一転、冷徹でねちっこいトーンに変わる。

「いかなる判断基準のもとにこの選択が為されたのか、原稿用紙三枚以上五枚以下で述べよ。制限時間:あたしが帰宅するまで」

 呆然とするダイキの手からビデオレンタルの小さい袋を取り上げる。

「まあ……ウイカにこっぴどくやられるだろうから、俺からは何も言わない。だけどこいつは、ほとぼりが冷めるまで何日か預かっとく。危ないからな。期限切れまでにだめそうだったら、また借りてくるから……男と男の約束だ」



 二重になっている窓のカーテンを閉めても、その隙間から漏れてくる日光はかなりの強さであった。冷房は充分に効いているはずだが、窓のそば、ワイドレンジの射場付近にいると徐々に汗がにじんでくる。

「とりあえずセットはできましたわ。早速試してみましょう……一番動きの激しそうな、2-5-1-4-3で。シューターズレディ、……スタンバイ!」

 ミチエのそばに予備の支柱が置かれ、そこから伸びる棒の先にに小型の指向性マイクがつけられていた。マイクはミチエが銃を構えた近くにセットされ、マイクのコードは机の上にあるミチエのスマートフォンにつなげられていた。

「2.25秒。五発とも全部拾えておりますわ……これでミチエさんのご要望通りのものができあがったのではないでしょうか」タイマーアプリの結果を見せながらミチルが言う。

「うん。これならウイカがいないときは一人でできそう……ミチルさんありがとうね。私の練習につき合ってもらったうえにこういうのまで作ってくれて」

 アンリミットスチールの後、ミチエが練習課題として考えていたのはミスのリカバリーであった。サイコロでランダムにプレートの撃ち順を変え、総合タイムだけでなく何発撃って何発目を外してリカバリーにどれくらいかかったのか、それをノートに記録していた。

 そのためにはストップターゲットにタイマーをつなげるのではだめで、発射音を逐一拾う必要があった。

 ウイカがいればタイマーを銃の近くにかざしてどれに何発撃ったかを一緒に確認して記録を取ってもらう事もできるのだが。

「わたくしではコールのまねごとで精一杯でミチエさんの射撃を追えませんし、できればわたくしも午前中は本を読んで過ごしたいですから。ウイカさんに来ていただくのが一番なのでしょうが、わたくしのわがままに付き合っていただいてる以上、無理も言えません」

 これでよろしければ、とミチルはミチエにホームセンターと馬潟のパーツショップの領収書を渡し、部品代を受け取る。

「ウイカがいないと淋しいね……ノリコも、ケイさんも、いなくてさ。入学した時は、私ひとりでも撃つんだって。私ひとりで充分だって、思ってたのに」

 ミチエは財布をしまうとサイコロを振って撃ち順を決める。

「そうですわね。わたくしも、入学時に夢見ていた孤独で静謐な時間がこうして手に入ったというのに、皆さんが来てなくて、今もしミチエさんがいなければ、耐え難く感じていることでしょう」

 ミチルは椅子に腰掛けると、机の上の洋書を開いた。本で扱っている銃のモデルガンとティーカップを傍らに。


 夏休みに入り、ミチエは少し遅くまで寝てから支度をして九時ごろ部室に着く。ミチルの起床時間は変わらないが宿題や勉強などを済ませてから来るのでミチエよりもう少し遅い。

 バイトのあと、兄弟で映画を見たりダイキに説教したり、宿題やら何やらの後で寝るため起きるのはやや不規則だが、だいたい十一時前後には、

「おはよーやっとるねぇ皆の衆。あれミチルさんにROしてもらわなくていいの?……へえこういうの作ったんだ。ミチエ一人で練習する分にはこれでよさそうじゃん……へいへいわかりましたよ」

「おはよーみちゅー。ゆうべはウイカちゃんのところで映画見る予定だったんだけど中止になったんで演奏の練習して寝たら早く起きちゃって、テレビもあんまし面白いのやってなかったからちょっと宿題やってきた……えへへ」

 十一時になると、部室にミチルの家庭教師がやってくる。料理の習い事を学校ですることで、シューティングスポーツ同好会の昼食が梅屋敷家の予算で賄われるようにミチルが手配したのだという。

 クーラーボックスを持って、ミチルと家庭教師は調理実習室に向かう。

 だいたいミチルと入れ替わりに、かつん、かつん。

 もうケイが杖に体重を預ける事はほとんどない。ジャージから着替えると、ミチルが置いていったガンベルトを装着してゴーグルをかけケイも練習に加わる。

 十二時半ごろになると、学校の業務を終えたリイサが部室に来て、調理実習を終えたミチルが料理を持って部室に戻ってくる。

 この日の料理は麻婆豆腐で、花椒を効かせた本格的なものはうちでも出していないとウイカにも好評であった。

「……さて」午後一時半前。

「プレートを片付けたらPASカップの練習よ。ブルズアイとプレートを三周してから、10メートルレンジでシルエットを三周。あとは流れで回していきましょう」

 ミチルとウイカが食器を片付ける。ミチエはワイドレンジに行ってスピードシューティング用の的を片付け始め、ケイがPASカップ用の的を取りに行く。

 リイサはガンロッカーの鍵を開けてミチエと部の銃を取り出す。

「建前上ワイドレンジと10メートルレンジは別のレンジで、指導員であるわたしがいる方でしか撃てない……めんどくさいけど、早ければ来年には部への昇格もありうるという話だから、建前を守ってみんなでがんばりましょう。大会まであと二週間、いい感じに仕上がってると思うわよ」


 PASカップはライフル部門とハンドガン部門それぞれに、スコープやダットサイトなど光学機器が使えないオープンサイト部門と使用可能なフリー部門に別れている。

 今年はライフル部門に参加予定の部員はいなかったが、しもはゆはやアキナツが参加していると聞いたミチルが興味を示していた。

 ハンドガン部門には五人全員が参加を希望したが、問題があった……銃が足りないのだ。

 部のPAS-3と、ミチエのPAS-1。ミチルは自分の銃を用意しているという話だが、まだ届いていないという。

 しかしハンドガン部門はオープンサイト部門が午前中、フリー部門が午後に開催されるというということで、それを利用した計画が立てられた。

 部のPAS-3は、リイサがマウントベースとダットサイトを購入し、午前中ケイが撃ったあとダットサイトを取り付けて午後からフリー部門で参加するウイカが使うことになった。

 そしてミチエのPAS-1は、ダットサイトを外してノリコが午前中使うことになった。

 グリップは左利き用のものがついているが、ノリコが撃つ時はミチエの家に保管されていた純正グリップに交換する事が決まった。


 ミチルがマウントベースの一部をマジックで黒く塗っていた。

「ダットサイトを装着する部分だけ、プラ板でレール幅を詰めて極力取り付け位置がずれないようにしましたの。会場で照準を合わせるのも迷惑になりますから……ミチルさんの銃にも同様の加工をしましたので、ノリコちゃんも気兼ねなく練習してくださいな」

 ウイカが練習用のターゲット用紙を配って回る。これもリイサが買ってきたもので、PASカップで使われているものとだいたい同じような仕様だという。

 領収書などのように二重になったうちの一枚がカーボン紙になっており、撃つと二枚目の用紙にきれいに弾痕がつくようになっていた。

 用紙を撃ち抜かないようにポリカーボネート製の板に用紙を乗せてクリップで留める。

 的の10点圏が見にくい人のために的に貼る黒いシールもリイサが用意していたが、使っているのはウイカだけだった。

「テレビの見すぎで目が悪くなってるんじゃないの?」ミチエが言うとウイカが答えた。

「元からあんまり目がよくないんだよ。今もコンタクトしてるし……その頃から顔を覗き込む癖がついちゃってさ。中学の頃誤解されるからやめた方がいいよって先輩に言われたんだけど、ノリコには、ついね」

「ノリコちゃんとは誤解されてもよろしいと」

ターゲット用紙と銃を持ってミチルが席を立つ。「では行って参ります。順番は……わたくし、ノリコちゃん、ケイさん、ミチエさん、ウイカさんでよろしいかしら?」



 アンリミットスチールからまだ二月はたっていないというのに、同じ時間の空がだいぶ明るくなっていた。犬の散歩やジョギングをしている人の姿もちらほら見える。

 その一人一人がこの辺に住んでる人だと思うとどうも緊張しちまうねと、日本有数の高級住宅街を車で進みながらアツシが言った。

 意外に坂の多いところは大森家のある住宅街に似ていたが、家の一軒一軒が大きく、街路樹や敷地内の樹木も多く重厚で落ち着いた雰囲気があった。

 ビルもコンビニも見当たらない町並みは、坂の上から見ると朝焼け空がどこまでも広がっているようであった。

「アンリミの時は駅で待ち合わせて車で拾ってもらったんだけど、それでよかったんだわぁって、思うわね。家に入るどころか、近付くだけでもう、こう、オーラが」周囲を見回しながらリイサが言う。

 北糀谷姉妹とアツシが駅でリイサと合流したところでリイサがミチルにメールで連絡する手はずとなっており、駅から少し離れた分広い家の玄関にアツシの車が到着する頃には、門の前に大荷物を積んだ台車を押す少女が見えた。その後ろには、

「おっ、おはようございます理事長、常務理事!」

 ドアを開けて飛び降りるように車から降りると、リイサはミチルの両親と祖父に頭を下げた。アツシとマドカも車を降りて挨拶をする。

 ノリコも少し遅れて車を降り、周りの状況を見てミチルの家族に挨拶をした。

「あなたが北糀谷ノリコちゃんね。ミチルがよくお世話になってるようで……仲良くしてあげてね」

 はい。元気よくミチルの母に返事をすると、ノリコは台車を押すミチルを手伝った。アツシが車に荷物を積み込む。

「雑色先生……本当ならうちの者が保護者として行かなくてはならないのだろうが、なにぶん皆忙しくてね。こうして朝見送るのが精一杯だ……ミチルのレポートは読ませてもらってるよ。ミチルの言う事だから割り引いておかねばならないだろうが、安心して任せられそうだ」

 ミチルのこと、よろしく頼むよ。「はっ、はいっ!」

 それでは行ってまいります。ノリコに続いてミチルが乗り込み、最後にミチルの家族に礼をするとリイサが乗り込んでドアを閉める。

 車が引き返して住宅街を抜け幹線道路に入るまで、車内には緊張感が満ちていた。

「……はぁ~っ、生きた心地がしないねぇ」アツシが言うとマドカやリイサも一斉に緊張が抜けてだらしなく座席に寄りかかる。まるで撃ち終えたノリコのよう。

「家庭訪問に授業参観……A組の担任じゃなくてよかった」

「わたくしとしては、雑色先生に来ていただきたいと思っているのですが」ミチルが言うと顔だけ向けてリイサが答える。

「まあね……ただこの格好は、ちょっとカジュアルすぎるかな。ミチルちゃんのお迎えのためだけに気合入れても、今度は会場で浮いちゃうし」

 ミチルが少し淋しそうな顔をしているのを見ると、リイサはミチルの肩に手を伸ばした。

「まぁとにかく、シューティングスポーツ同好会にいる間は、あなたはあまり練習はしないけど、モデルガンや銃のメカが好きで、ノリコちゃんを見るとおかしなテンションになる、手先の器用なミチルちゃんよ。そんなあなたでいたいのならば、少なくともここでは、そうでいいのよ……わたしもその方が気が楽だし」

「俺の知っているミチルさんは、コンビニで一生懸命働いているミチルさんだよ。ウイカがよく話してくれるよ……体力はないけど接客は抜群で、同じ機械で揚げ物してるのに、からあげサンのできが違うって」

「いろんなみちゅがいるんだね。お嬢様のみちゅと、シューティング部のみちゅと、コンビニのみちゅ。いいなぁ……わたしはみんなが知ってるわたしでしかないよ」

 いつもぼーっとしていて、鈍くさくて、何を考えてるかわからないって。

「みんなが見たからね。誰も知らないノリコを……わたしはよくわからないけど、アンリミの会場にいたみんなを驚かせるようなね」

 マドカの言葉にアツシとリイサがうなずく。ミチルがノリコの肩を抱いて頭をなでる。

「あと受怨の那耶子」

 あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛。「や、やっ……やめてくださいませ!やめてくださいませ!」



 PASカップの会場も、浅草の都立産業貿易センター。秋のジャパンスティールカップも同じだという。

 百人以上が集まるエアガンの射撃競技を行える会場はここくらいしかなく、ほんの一、二年前にここが改装のため使えなかったときは代わりの会場選びが大変だったと、リイサも直接経験してはいなかったが多くのシューターから聞いたという。

 エレベーター前の通路が開場前でごった返しているのも一緒。待っている人の中には、アンリミットスチールで見かけた顔もいる。

 おはようノリコちゃん。ミチエちゃんは?みちぇ……ミチエちゃんは午後からのフリー部門で。じゃぁ一緒に撃てないんだ。はい……午前中は、わたしがミチエちゃんの銃で撃たせてもらうんです。

 荷物が多くて別のエレベーターに乗っていたミチルとリイサが来た。「あっ、ケイちゃーん、来たわよー。ここじゃ迷惑だから、階段のところで落ち合いましょう」周りに気を使いながら台車を押す速度は遅く、階段にたどり着く前に、ケイと両親がミチルたちに追いついた。

「おはようございます。シューティングスポーツ同好会顧問の雑色リイサです。今日はお忙しい中ケイちゃんの保護者として来ていただいて……わたしも部の顧問としてはまだ一年生で、何人まで引率できるのかわからなかったものですから」

「いえいえこちらこそ、足を怪我して目標を見失ってたケイがまたやりがいのあるものを見つけられたようで……ケイは気にしていないと言ってましたが、どうすればいいのか私達にはわからなくて、ケイが新しい部活のことを楽しそうに話してくれて、安心しているんです」

 少し照れくさそうにしているケイ。足の怪我さえなかったら、陸上部の強い高校に進学して、PASカップとは違う大会の場に立っていただろうとノリコも聞いたことがある。

「……どうしたんだい、ノリコちゃん?」

「あっ、うん……改めて聞いて、ケイちゃんすごいなって。走るの好きだったのに、走れなくなっちゃったんでしょ?それがこうしてシューティング部に入って、大会に出て」

「シューティング部に入ったのは雑色先生に誘われたからだし、PASカップに出るのも、別に予選があるわけじゃないからね」

 続きを言おうと少し考える。その間杖を握る手に力を入れて、右足を軽く浮かせる。

「……まあ、ただ黙々とリハビリを続けているよりも、気が楽で、楽しいよ。みんなとワイワイやれて、真剣に打ち込めるものがあって」

 受付がそろそろ始まるかしら。リイサはミチルの荷物から、三人の使う銃の入ったガンケースを取り出す。

 ケイの使う、同好会備品のPAS-3、ノリコの使う、ミチエのPAS-1。そしてミチルの銃。

「……ミチルちゃんまたあなたはこういうところで」

 ガンケース自体はPAS-3と同じもの。リイサが箱を開けて中を見ても、入っているのはPAS-3。しかし銃やガンケースに入れられているロゴの色が青で、入っている文字も違う。

「アンマリーPAS-3。海外の競技銃メーカーが訓練用に販売しているやつ……日本で売っていないじゃない」

「はい。スペック的に問題はないはずですが、念のため国内に持ち込んでも問題ないよう処置を施していただいてからマルヨシ本社に送って調整していただきました。それで少々時間が。わたくしも海外のトイガンを個人輸入するのは初めてでしたから」

 日本でも買える銃をわざわざ個人輸入して。ロゴがちょっと違うだけのものに。

「相変わらずめんどくさい事に一生懸命ね……まあ、練習は部のPAS-3でやってきたんだから問題はないわよね。準備不足とは言わせないわよ」

 リイサも自分の銃を取り出す。部の備品と同じくPAS-3。

「ルールブックとJAGSの会員証は持った?お金は用意した?ケイちゃんゴーグルは忘れてないわよね?マドカさんとアツシさんとで例によって席取りをお願いします……それじゃあみんな、並んで受付を済ませるわよ」


 アンリミットスチールの時は、大会本部は机を並べて機材が置いてあるだけだったが、PASカップの大会本部は全体を仕切りで覆っていて展示会のブースのようになっている。各レンジや射場もネットで囲っていないせいかすっきりした印象を受けた。

 またアンリミットスチールの時は、終了後に成績や写真が記載された小冊子が送られてきたのだが、PASカップではエントリー後しばらくしてからルールブックが送られてきた。

 エアガンでの射撃競技というのが今ひとつ理解できなかったノリコの両親も、ルールブックを見るとルールや体裁のちゃんと整った競技であることを理解してくれたようであった。

 受付でルールブックとJAGS会員証を見せ、料金を払う。スコアシート、ブルズアイ競技用のターゲット用紙とそれを貼る台、名札、そして銃口カバーを渡される。

 競技本番で使うターゲット用紙はシールになっていて、それを台に貼り付ける。

 スコアシートとターゲット用紙に必要事項を記入し終えたらガンチェック。スタッフはJAGS加入メーカーであるマルヨシとSKCの社員が務めており、ミチルのアンマリーPAS-3を調整したマルヨシ社員がガンチェック担当だったらしくミチルと少し話をしていた。

「うえ~なんかもうつかれたー」リイサのアドバイスでノリコは試射を早めに済ませた。

 机にもたれかかるノリコと対照的に、ケイは床にマットを敷いてストレッチを念入りに行っていた。

「受付や試射が終わって、これから撃つのに、ケイちゃんよく体操とかできるね」

「これはまだ本番前の準備運動だよ。ちょっとは緊張もほぐれるよ」

 ストレッチを一通り終えると、ケイはノリコの後ろに回りこんで肩をもんだ。

「ほら。肩や背中の筋肉が硬くなってるよ……ノリコちゃんって本当、力ないね」

 そのままケイはノリコの体をひねったり腕を取ったりして、慎重にストレッチを行った。

「こんなもんかな。ゆっくり五つ数えるよ……1、2、3、4、5」

 ノリコの体をマッサージして、緊張している筋肉を一つ一つ探し出してはマッサージやストレッチでほぐしていく。慎重だが、充分な力で。まるで手慣れた道具を扱うように。

「ノリコちゃんが集中すると速く撃てるのは、すごい気力で体をコントロールしているんだろうね。なんていうかな……自分の体に無理をさせるのがうまいんだよ。そんな気がする。でも結局無理をさせてるんだから、体も集中力も、長くもたない」

 首のストレッチ。動かなくなるちょっと先、少し痛いけどそれ以上は無理に引っ張らない絶妙な位置で、ケイは動きを止める。1、2、3、4、5。

「うん。なんかリラックスできてる感じ……ありがとうケイちゃん。……無理をさせないのは、どうすればいいのかな」

「そうだね……無理しないペースを見つけるか、体力をつけるか、しかないんじゃないかな。僕は午前中、区民プールに通っているんだけど、ノリコちゃんも来てみる?ずっと水中歩行したり泳いだりで、退屈かもしれないけど」

 がばっ。「プール!それだよ!なんで思いつかなかったんだろう!わたしも行くよケイちゃん!なんかかわいい水着持ってかなくちゃいけないかな?」

 たぶんケイちゃんの言ってること、一割も理解していない感じね。リイサは思った。

「あー、ケイちゃん。終わったらミチルちゃんの方も見てやってくれない?興奮のあまり身動き取れなくなってるみたいだから」



 オープンサイト部門は大きく四つのグループに分かれており、ノリコ、ケイ、ミチルはAグループ、リイサはCグループに入っていた。Aグループは開会式とルール説明が終わったら、もう撃ち始める事になる。

「ミチルちゃんとノリコちゃんがシルエットからスタート、ケイちゃんはプレートからスタートね。ミチルちゃんはある程度大丈夫だけど、ケイちゃんのトリガーコントロールと銃口管理、ノリコちゃんの集中力切れが心配ね」

 銃とゴーグル、BB弾。スコアシートに、ブルズアイ用ターゲット。準備はできた。

「競技はゆっくりしているように見えるけど、試合運びは忙しいわよ……わたしはミチルちゃんの保護者としてついていなくちゃいけないけど、なるべくケイちゃんの方も見るようにはするわ」

 アツシは午後から参加するウイカとミチエを迎えに行くために、もう会場を出てしまっていた。

「ノリコちゃんの方まで手が回らないんで、大変でしょうけどマドカさん、ノリコちゃんの世話をお願いします」

 マドカがうなずく。ただ見ているだけでよかったアンリミとは大違いだと思いながら。

「待機時間中に余裕があれば肩をもんだりストレッチしてやってみてください。集中力が切れそうだったら、その旨スタッフに伝えるように……最後のプレートではもう、あらかじめ伝えるくらいで」

 最後にリイサは、ノリコに向き直る。

「ノリコちゃん、前にも言ったけど、ステージに立ったらもう一人よ。ダイキくんもまだ来てないし、……ってそもそもPAS-1は弾倉が固定式だから予備弾倉はないわね」

 そうだ、お守りもないんだ。

「時間に余裕があれば深呼吸して。わからない事があったり、気力や体力がもたない時は、マドカさんやスタッフにちゃんと言うのよ」

 声が出ない。小さくうなずくノリコの肩をケイが叩いて、軽くもんでやる。

「深呼吸してノリコちゃん。ちゃんと練習をしてきたんだから、わからない事なんて、きっとないよ。忘れちゃったなら聞けばいい。そのくらいの気持ちで楽にやってった方が、ノリコちゃんは力が出せるよ」



 シルエット競技。

 右手前から左奥に向かって五本の支柱が並んでいて、そのてっぺんと土台近くに台がある。その上に乗せられた三センチ四方の的を撃って落としていく……一番近い右手前で六メートル、一番奥の左奥が十メートル。

 部室の十メートルレンジは、主にこの競技のために用意されている。的の配置も大きさも部室とまったく同じはずなのに、会場が広いせいか的はずっと遠くにあるように見え、的も心なしか小さく見える。

「以前受けた講習の受け売りだけど、人間の目って思った以上に正確なものよ。距離は六メートルから一メートル刻みとわかっているんだから、BB弾がどの距離でどのくらいドロップするかを覚えてどこを狙えばいいかわかれば、ノリコちゃんなら十メートルでも当てられるはずよ」

 リイサは練習の時そう言っていた。できるのかな。

 サイトチェック。安全装置をかけて、的を一つだけ狙える。シルエットは銃を両手で持っていい……6メートルを、六時照準。

 フロントサイトの高さ、幅。間隔。……あっ、いつもと一緒。狙ったのと同じところに、同じ大きさの、的がある。

 銃を降ろす。隣ではないが、何人か離れたところにいるミチルを見る。真剣な顔で狙いを定めていたが、銃を降ろしてノリコの視線に気付くと小さくうなずいて、微笑んだ。

 準備はできましたわ。よろしくて?うん。

 時間に余裕があれば、深呼吸。息をいっぱいに吸うと、背中にすごく力が入っていた事が、なんとなくわかる。息を吐く。力が抜ける。マッサージをしてもらった感触が、肩や背中によみがえる。

「競技を開始します。シルエット、スタンバイ。レディー……ゴー!」

 安全装置を外し、銃を向ける。サイトチェックの時よりも楽に狙えてる気がする。左右はだいたい合っている。

 息を吸って、少し上を狙う。息を吐いて、体の力が抜けるままに銃が降りていく。ゆっくりと息を止めていくと、銃の動きもゆっくりになる。

 息を止める。安定した状態。体の揺れや筋肉のかすかな動きが気になる。ほんのちょっとの力の加減で、フロントサイトはびっくりするほど的から遠ざかる。

「ブルズアイとシルエットの制限時間は二分。二分以内に五発撃たないといけない計算ね……一発にかけられる時間は24秒。コッキングの手間もあるから、20秒……15秒。ノリコちゃんは体力がないから、12秒狙って狙いが定まらない時は、いったん銃を降ろして仕切り直しなさい。それ以上狙っても無駄だと思うの」

 ちょっと早いけど、仕切り直す。左右は大丈夫。息を吸って、銃を上げ……ゆっくり吐く。銃が降りる。あっ、ここだ。ばしん。

 ちぃん。気持ちいい音と共に、シルエットのターゲットが弾き飛ばされて台から落ちる。うん。次。

 ボルトハンドルを操作して、ちょっとだけ横にカニ歩き。左右に銃を振って狙うと、狙いを定めるときに姿勢のずれが気になってしょうがなくなる。なるべく的の正面に立つように位置を合わせる。

 次は7メートル。ほんのちょっとだけ、狙いを上に。息を吸って銃を上げる。息を吐いて……ここ。

 ばしん。ちぃん。

 ボルトハンドル。カニ歩き。左右、よし。次は8メートル。フロントサイトの先端が、的の一部を隠すくらい。息を吸って、銃を上げ、息を吐く。ここ。ばしん。ちぃん。

 余裕があったら、深呼吸。余裕ってあるのかな……そういう時は。

「あの……残り時間は?」あと1分10秒。スタッフが答える。

 10秒くらいは、大丈夫かな。深呼吸。息を吸って、大きく吐く。少し震えている……緊張しているんだ。もう一呼吸。あと一分ですと、アナウンスが流れる。

 9メートル。ターゲットはだいぶ隠れて、フロントサイトからぴょこっと突き出すくらい。左右、よし。銃を上げて、息を吐く……行き過ぎた。ちょっと修正。だめ。仕切り直し。

 ひと呼吸置いて、息を吸い、銃を降ろす……ここだ。

 ばしん。ちぃん。

 残り30秒。仕切り直す余裕はまだある。10メートル……ターゲットはほぼフロントサイトに隠れてしまう。左右を慎重に合わせて、ひと呼吸。銃を上げて、息を吐く。ゆっくり、ゆっくり。ターゲットの上の縁が、見えるか見えないか。ここ!

 ばしん。ちぃん。「……競技終了です」

 銃を降ろしてミチルを見る。ミチルはすでに撃ち終えていた……にっこりと笑ってミチルがうなずく。

 ノリコの顔から満面の笑みがこぼれると、ミチルの微笑みも満面の笑顔になった。

 ミチルがその場に座り込む。次はシルエットのプローン(伏せ撃ち)……ノリコも座って、深呼吸。座るとだいぶ楽になる。他の競技もプローンがあればいいのに。


 ノリコは立射を満射した。ミチルは9メートルを一発外し、6メートルを捨てて撃ち直した後10メートルを外した。

 10メートルを撃ち直すかどうか少し考え、あきらめて7メートルを撃ち落した。

「シルエットは奥の的ほど点が高くなっているわ。もちろん6メートルから順々に撃っていくやり方もあるけど、8メートルくらいから撃ち始めて、9メートル10メートルをうまく撃てたら仕上げに6,7メートルを撃つというやり方もあるわよ。うまくいかなかった時、6メートルを捨てて撃ち直すか確実にポイントをゲットするかは、その場で判断していく感じね」

 練習でも10メートルはそんなにうまく撃てなかった。9メートルを一発で落とせたら、10メートルを失敗した時6メートルを捨ててチャレンジしてみよう。

 そう思いながらミチルはPAS-3の給弾レバーを起こし、ポンプのレバーを操作した。

 安全装置をかけ、射場に横たわる。他の選手は的の方に頭を向けうつぶせに伏せるが、ミチルは的に足を向け、仰向けに伏せた。右足を立て、そこに腕を乗せて足首に手首を乗せるように。


「またそこはかとなくセクシーなポーズですなぁミチルさん。それってルール的にアリなの?」練習の時、ウイカが聞いたのを思い出す。

「クリードマン、あるいはクリードモアスタイル。ルールブックにも記載されておりますわ。百年以上前の長距離射撃競技から名を取った、由緒あるスタイルでもありますのよ……この方が、ギャラリーにお尻を向けなくて済むのではと思いまして」

「まあたしかに、ノリコがプローンすると誰かさんが後ろでガン見してるしねぇ」ばしん。

「今のは暴発だね……ごめんミチルさん。罰金はあたしも半分出すよ」


 サイトチェックはよし。8メートルをドンピシャに合わせて、安全装置を解除すると首を支えている手を外して頭を床につける。

 深呼吸。わたくしもした方がよさそうですわ。

 競技を開始します。シルエットプローン、スタンバイ。レディ……ゴー!

 8メートルは楽勝。次は9メートル……仰向けに寝そべったまま少し横に移動して、だいたいの体の位置が定まったところで、立てた足を寝かせて銃を少し上に上げ、半ば手探りでPAS-3の給弾とポンプ操作を行う。銃口の向きに気を使いながらの操作は、意外に骨が折れる。

 足を立てて、そこに腕を乗せる。ひと息ついてから頭を持ち上げ左手で支える。床に銃をつけてはいけないのだがクリードモアスタイルなら足に銃を委託できるので、じっくり狙うにはちょうどいい。ばしん。ちぃん。

 10メートル。射座の枠いっぱいまで体を寄せる。体の位置はだいたいよし。給弾、ポンプ。ターゲットはフロントサイトで隠れてしまうので左右をちゃんと合わせてから少し上めを。……ばしん。こん。

 外した。6メートルを捨てて再チャレンジするか、確実に点を稼ぐか……いけるか、いけないか。床に頭をついて深呼吸。

……位置はこのまま。給弾、ポンプ。初参加、失格以外の何を恐れる必要がありましょう。

 銃の位置、角度。狙いはさっきよりやや下。……ばしん。ちぃん。


 競技終了。スタッフ用の集計用紙にサインしてから、渡されたスコアシートに点数が記入される。ノリコはシルエット満射の40点。ミチルは立射が12点、プローンが18点の30点。

 休む間もなくブルズアイのステージに向かう。ちょうど最初に撃った人たちの採点が終わり次の人たちが撃ち始めるところだった。その次がもう、ノリコたちの番……ギャラリーと射座の間に置かれた待機席に座る。

「なんか最初にサバゲーで銃の撃ち方を教わった時のことを思い出すわね……あの時も遠くの的に当ててって。やってる事は変わらない気もするけど、友達ができて、大会に出て、一人で撃って。ノリコ少しは成長したんじゃない?そんな気がする」

 言いながらマドカがノリコの肩や背中をマッサージする。ノリコは深呼吸して肩を大きく上下させ、やがて肩の動きは小さくなり、そのままうなだれて目を閉じた。

 マドカはそのままノリコが倒れないよう肩を押さえ、今撃っている人たちの二回目の射撃、残り30秒まで待ってからノリコを起こした。

 ノリコは大きなあくびをすると銃にBB弾を補充する。前の選手たちが撃ち終わり採点が始まるとノリコたちは射座に呼ばれ、スタッフにブルズアイ用のターゲットを渡した。



 ブルズアイ競技。

 五メートル先のターゲットに、二分以内に五発。それを二回。五点圏の円は直径五センチで、そこに入らなければ0点。八点が三センチ半。十点圏は二センチと二ミリ。そして中央の一センチ一ミリが、X圏。スコアが同点の時は、X圏に当たった数で順位が決まる。

 スタッフがターゲットをセットする間、深呼吸。あんまり落ち着こうとすると眠くなってしまう。体じゅうが疲れてだるいというよりも、頭がぼんやりと重くなる感じ。寝て起きて、寝足りない感じ。

 サイトチェック。ブルズアイは動かなくていいので、左右だけはきっちり合わせておきたい。じりじりと体の位置をずらす……腕が重くなってきた。

 サイトチェックは一度しかできないので、銃を降ろしたら終わってしまう。手が震えてきた。もうだめだ。銃を降ろす……ますます頭が重くなる。

 競技を開始します。ブルズアイ、スタンバイ。レディ……ゴー!

 銃を上げ、ターゲットをとらえる。ど真ん中の、Xの真下。腕と頭に余裕がない。撃っちゃえ。……ばしん。ぱちん。

 ターゲットの乗ってる台にランプが取り付けられていて、それが点灯する。しかしそれは、ターゲットに弾が当たったことを示すだけで、何点なのかはわからない。

 だめだ。深呼吸。20秒……どのくらいだっけ。数える。いーち、にーい、さーん……「残り一分です」えっ。

 反射的に銃を上げる。あっ、ここ。ばしん。

 こんなに早く撃つことはなかった……でも、うまく撃てた気がする。ちょっとだけ、余裕ができた。落ち着いて狙いを定める。息を吸って、ゆっくり吐いて、この辺で止める……ここ。

 ばしん。うまくいった。はず。手が疲れて、力がゆるむ……銃を落としそうになるところを、競技用銃の、手を覆うような大きなグリップが止めた。

 あわてて銃を握り直す。だめだよノリコ。銃を落としたら、失格だよ。ミチエの声が聞こえた気がする。

……そうだよ。みちぇの銃に、みちゅがグリップをつけてくれたんだ。みちゅと、みちぇが、いてくれてるんだ。だからもうちょっとだけ、がんばる。

 緊張しているミチエの手を握るように。大事そうに、愛おしげに、ミチルが手を握るように。そうすれば、フロントサイトの位置がぴったり合う。

 頭の中が見えない霧でいっぱいのような感じ。見えないはずなのに、ラップをくしゃくしゃに丸めたものが頭に詰められているかのように、視界がぼやける。息が苦しい。手が震える。

 しっかり狙って。ミチエの声。ゆっくり息を吐く。ここですわ。ミチルの声。

 ばしん。ランプは点灯。手がもう上がらない。頭がふらふらする。だけど、あともう一発……「競技終了です」あ。

 銃を引きはがすように手を放し、テーブルに置く。スタッフがターゲットを交換するわずかな時間、深呼吸。足がふらふらするが、不思議と倒れない。

……誰かが、肩をがっしりと押さえている。スタッフに許可を取ってマドカが来ていた。

「さっきマッサージしたばかりなのに、もう肩がガチガチじゃない。さっき雑色先生が伝えてくれって……作戦変更。ブルズアイの二回目は捨てて。狙いを定めたらすぐ撃って、早めに撃ち終えて休むように……最悪0点でもいいけど、五発撃って、最後まで立っていること。がんばってノリコ」



 ケイの銃口管理とトリガーコントロールはある程度大丈夫だろうとリイサは言った。それよりも集中力を使い果たしたノリコが最後まで立っていられるかが心配だと、ノリコ最後のプレート競技にリイサは付き合うことになった。


 ノリコちゃんの事は確かに心配だけど、今僕にできる事は何もない。先生が任せろと言ったんだから、先生がいなくても僕が結果を出す。先生がノリコちゃんをサポートしたのは正しかったって、思えるように。

 フレームの側面に、目の荒い紙やすりをミチルが貼ってくれた。指先を押しつけ、軽くこする。指先は引き金に触れていない。何度も確かめる。

 サイトチェックで左右はだいたい合わせている。銃を上げて、息を吐き、止めれば、10点は取れるはず。少なくとも練習ではそうだった。

「PASカップでは、弾の痕が10点圏の輪っかに触れていれば10点になるわ。つまりそれぞれの得点圏は、見かけの大きさより、BB弾二つ分くらい大きいってこと。そう思えば、ケイちゃんは楽に撃てるんじゃないかしら」

 実際それで、練習ではうまく撃てていた。少なくともこの一週間、ブルズアイで100点満点以外は取っていない。

「いい仕上がりって感じね。だけどこれを本番でどれだけ出せるかっていうのが問題よ。本番の大舞台でどんなプレッシャーがどんな風にかかるのか、アンリミ午前中のみんなを見ていれば……ケイちゃん来たの昼前だったっけ」

 直接は見ていない。しかし会場に来た直後、入り口そばの大会本部、ウイカさんと自分の成績を見比べて途方に暮れていたミチエさんの表情は覚えている。

 緊張して実力が出せない時はどうしてるって聞かれた。答えられなかった。

プレートは9枚の36点、シルエットが立射、プローンともに15点。たしかに、練習ほどはうまく撃てていない。緊張……してるんだろうなぁ。

 このままでは何か足りない。100点行かない気がする。……何がいけない。聞いてみるんだ。そんな時は。

 フレームに押し付けた指先に力をこめる。紙やすりの目が指先に食い込むのを感じる……マッチを擦るように指先をこすりつける。

 マッチが燃えるように、軽い痛みとともに指にいやな感触がまとわりつく。暴発事故を起こした後に、先生がかけた、呪い。

 指先から、右足へ。膝の奥が焼けるような感覚。ただ立っているだけなのに、足のあちこちが悲鳴を上げる。足を折った時も、リハビリの時も、無視してきた声。

「先生も、ノリコちゃんも、戦っているんだ。僕は僕の戦いをすることが、みんなのためになる。そう信じるんだ。……そろそろ行こうか。付き合ってもらうよ、PAS-3くん!」

 ブルズアイ、スタンバイ。レディ……ゴー!


 銃を上げ、息を吐く。微妙に左右が合っていない。ほんの数ミリ体を動かそうとするだけで、体が揺れる。力が足りない。入れすぎる。

 足の筋肉にかける力のわずかな違いで、上半身はゆらりと揺らぎ、狙いは五点圏に当たるかも怪しいほどにずれていく。まるではしごの上に立っているよう。

 靴と靴下の上から地面をつかむように、じりじりと足先を動かして立ち位置を直す。

 一番痛みを感じない時が、一番安定して立てている時だ……その状態で、フロントサイトの中央がターゲットの円のいちばんしたを指すように。

 ノリコちゃんが集中しているときは、これを一瞬で決める。すごい集中力。先生は僕の射撃を迷いがないと言ってくれるけど、ノリコちゃんは体力がなくて短期決戦型なところもあって、迷いなく一瞬をとらえる。いったん気にし始めると、どこまでも気になっちゃうよ。

 汗のひとしずくが、ケイの顔をなぞる。残り1分です。いったん銃を降ろし、息を整える。

 足の痛みは、最小限だ。下半身が安定している証拠……改めて銃を上げ、息をゆっくり吐く。指を、引き金にかける。

 不用意に引き金を引いて、ノリコちゃんの目を、シューティングスポーツ同好会を、だめにしてしまうところだった。

 恐ろしい集中力と、子供のような笑顔を見せるノリコちゃん。

 エアガンの射撃がちゃんとした競技であると、真剣に打ち込むミチエさん。

 審判として、みんなのまとめ役として立ち回る、面倒見のいいウイカさん。

 ちょっとおかしなことを言ったり変わった銃を練習に使って、だけど銃に詳しくて楽しむ事に真剣なミチルさん。

 それを全部だいなしにするところだった。その重みは、日を増すごとに重くなる。引き金を引いてはいけないと、指を硬くする。

 だけどぼくは、ひきがねをひくんだ。

 撃っていいものに。撃つべきものに。撃つべき時に。息を止める。もう少し下。……ここだ。いまだ。

 ばしん。少なくとも、10点圏。

 弾かれるように指がまっすぐに伸びる。腕を引き、上面のレバーを起こす。下側のレバーを操作してから、上面のレバーを戻す。

 いったん銃を下ろし、手の中の銃の位置を確かめる。銃を上げ、フロントサイトの位置と円の一番下を確認。もう少し銃を上げ、息を吸う。

 息を吐く。指を引き金にかける。部品がこすれるかすかな感触。

 一週間ほど前に、ミチルが銃のメンテナンスをした時、銃を分解して部品を磨いていたのを思い出す。こういうことか。引き金を引く意思が、よどみなく銃に伝わる。

 ここから先、これ以上引き金を引いたら発射される。その位置で指が止まる。

 息をゆっくり、体の重みで息が口から漏れるくらいにそっと、吐く。ここ。息を止めて、引き金を引く。ばしん。

 レバーを起こし、ポンプを操作。残り30秒。……立ち位置は大丈夫。疲れも出ていない。呼吸も落ち着いている。多少あわてて撃っても、10点圏には当てられる。だけどそれは、最後の最後まで取っておこう。銃を上げ、息を吐き、引き金に指をかける……ばしん。



「ただいまー、ノリコちゃんじゃないけど、なんかずいぶんと疲れたよ。……ノリコちゃんの具合はどう?」

 聞くまでもなかった。ミチルの用意したデッキチェアーに寝そべって毛布をかぶっている……ケイはノリコをうつぶせに寝かせると、肩や背中のマッサージを始めた。

「これはひどいね。試合前と比べても明らかにガチガチになってる……練習でも、ここまで消耗した事はなかった気がする。なんていうか、本当にいっぱいいっぱいまで、体を使い切ったんじゃないかって、気がするよ」

「……正直な話、PASカップではノリコちゃんに期待していなかったのよ」ノリコのスコアシートを見ながらリイサが言った。

「三競技をいっぺんにぶっ通しでやるからね。休む時間がほとんど取れないのはわかっていたつもりだけど、頑張りすぎたのね」

 ケイちゃんやマドカさんがいなかったら、競技中に倒れていたかもね。ノリコを見つめるリイサの表情は複雑だった。

「走ったり速く撃ったりしないでただ立ってるだけに見えるのに、なんか思った以上に過酷な競技なんですね」マドカが言う。

「過酷と言うか……ノリコちゃんとの相性が悪いと言うか、ノリコちゃんの体の使い方が、やっぱり異常なんだと思う」

 ノリコの肩を慎重にストレッチしながらケイが言った。

「体力やスタミナとかは、たしかにミチルさんよりもないけど、学校まで毎日歩いて通ってるんだし、部活も普通にこなしてる。人並みの体力はあるんだよ」

 一通りマッサージを終えて、ケイはノリコを仰向けに寝かして毛布をかけた。

「ミチルさんだってたいして消耗せずに撃ち終えているし、小学生くらいの子も撃ってるよね。何の問題もなく。……ノリコちゃんの集中力が高すぎるんだよ」

 ミチルがクーラーボックスを開ける。氷水の中に、缶ジュースを何本も入れてある……氷水にタオルを浸し軽く絞ると、ミチルはノリコの額に乗せてやった。

 ノリコが気持ちよさそうな笑顔を浮かべるのを見届けると、ミチルは工具箱を取り出した。


「おはよう雑色さん。ガントラブルですか?」

 ミチルが銃のグリップを取り外しているのを見て、大柄な男性が話しかけてきた。チーム赤羽のシャツ。

「おはようございますヤマシタ社長。これはあの、ミチエちゃんの銃で……午前中はうちの生徒が使っていたので、グリップを元に戻そうと」

 ミチルが取り出した左利き用グリップ。側面には、何回か参加してそのたびガンチェックを受けた証拠のステッカーが貼ってある。

 へえミチエちゃんの。ヤマシタ社長が言うとリイサがシューティングスポーツ同好会のPASカップ参加計画を説明した。

 三挺の銃で五人が参加。プランの発案者はミチル。

 ミチルが手を休めて挨拶する。マウントベースの加工跡や、ネジを締めるのに締め付けトルクを測るアダプターをラチェットにつけているのを見てヤマシタ社長が感心し、ミチルのアンマリーPAS-3を見て絶句していた。

「ケイちゃんミチルちゃん、この人が赤羽フロンテーラのヤマシタ社長よ。エアガンのシューティング、とりわけPASカップに力を注いでいて、お店でよくマッチや練習会を開いているわ。うちのPAS-3本体にマウントベースやダットサイト、BB弾もここで買ってるのよ」

 それにその、PAS-1の左利き用グリップも赤フロの製品ね。リイサが言うといつもごひいきにありがとうございますとヤマシタ社長が言った。

「アンリミに参加したチーム赤羽の面々から話は聞いているけど、本当に個性的な子たちが集まっているね。雑色さんの言っていたPASカップ向けの秘密兵器、見させてもらいましたよ……いやぁ最後のブルズアイは圧巻だったね」

 ケイのスコアシートを手に取りつつヤマシタ社長が言った……ブルズアイ満射。100-10X。ほぼ一点に弾が集まり、採点係が五発全部当たったんだよねと担当のスタッフに確認していたのをヤマシタ社長も見ていた。

「そこで寝てる子の事もチェックしましたよ。すぐ寝るけど最初の最初にミラクルを見せてくれるから真っ先に見ておけって言われましてね……噂通りの、シルエット満射。プレートは残念だったね」

「この子をどう育てていけばいいのかは今後の課題ですね。この子に限らず、みんな一長一短があって、それぞれがどう伸びていくのか、楽しみですよ」

 リイサの表情を見て、ヤマシタ社長は満足げにうなずいた。

「雑色さんが先生になったとは聞いていたけど、なんだちゃんと先生やってるじゃない。ROまで育てているって聞くし、ミチエちゃんも伸びているって聞いたよ。なんだかんだで楽しみだね」

 ヤマシタ社長が離れると、ミチルはグリップの交換を再開した。その後、ダットサイトの取り付け。

「そういえば試射レンジは今Cグループだっけ……私も撃っておかなくちゃ。事情は話してあるから、そっちの試し撃ちはケイちゃんお願いね。大丈夫だと思うけどその場で調整できるよう、ミチルちゃんも待機お願い」



 Cグループのリイサが撃ち終える頃に、アツシが大森親子と穴守姉弟を連れて会場に戻ってきた。ノリコも目を覚まし、午前の部の反省会が行われた。

 PASカップでは、一定以上の成績を収めた選手に、成績に応じたマスターバッジが与えられる。ケイはブルズアイ100-10X、プレート36点、シルエット30点の合計166-10X。エキスパートバッジを獲得した。

 ミチルがブルズアイ76-0X、シルエット30点、プレート32点の138点、シャープシューター。ノリコがブルズアイ56-3X、シルエット40点、プレート8点の合計104-3X。かろうじてマークスマンバッジを獲得できた。

「まあ……何はともあれ、まずは全員無事に撃ち終えて、マスターバッジをゲットできた事は幸いだったわ。オープンサイト部門の表彰式が終わったら、大会本部に申請してきなさい」

 リイサはブルズアイ85-2X、シルエット24点、プレート44点の153-2X。シャープシューター相当だが、過去にエキスパートバッジを獲得していた。

「とりあえず共通の課題としてはプレートかしら。これは午後の、ミチエちゃんの射撃を見て参考にしなさい。スピード系シューターとしては、外したくないところよね?」

 はい。ミチエは小さくうなずく。

「ノリコちゃんは……さっきもケイちゃんやミチルちゃんとも話したんだけど、集中しすぎて気力や体力をすぐ使い切ってしまうのをなんとかしないとね。高い集中力がノリコちゃんの最大の強みだけど、なんとかコントロールできるようにしたいところね。これはおいおい考えていきましょう」

 リイサが話している間に、アツシがクーラーボックスから食事を出して大皿に盛り付けていた。ウイカが食器を用意して全員に渡す。

「今回はチャーハンと、ミチルさんが教わったっていうレシピで麻婆豆腐を作ってみました。評判がよければ、うちでも本格四川麻婆豆腐って感じで出そうかと思って……って試合中だけど大丈夫ですかね」

「Dグループが撃ち終わればすぐ表彰式で、その後すぐフリー部門が始まるからね……迷惑にならないように、静かに食べましょう」


 一同の食事がまだ終わらないうちに表彰式が始まった。一番成績のよかったケイもフリー部門十五位で表彰される事はなかったが、協賛メーカーである赤羽フロンテーラからの敢闘賞……初参加者の最高成績……を受賞する事ができた。

 その後抽選会でノリコがBB弾をゲットし、ミチルが赤羽フロンテーラからの賞品である、赤羽が舞台の漫画を獲得した。

 ノリコたちがバッジの申請に大会本部へ向かうと、壁にフリー部門の順位が貼り出されていた。ケイが十五位、リイサが二十八位、ミチルが五十二位、ノリコが九十七位であった。



「なんかいい匂いがすると思ったら、ずいぶん豪勢な食事じゃないですか。ダイエット中なんだから勘弁してくださいよ」表彰式が終わるとヤマシタ社長がやってきた。

 ミチエとイノも、銃やホルスターはフロンテーラで買ったもので、時々イベントにも参加しているという。

「……穴守さん!そういえば妹さんが競技やってるって言ってましたね!じゃあこの子が……雑色さんのところの、ROの」

 銃のパーツやサバイバルゲームの装備品などを買いに、アツシも最近よくフロンテーラを訪れるのだという。

「穴守さん食堂やってるって言ってましたねそういえば。これはうまそうだ……酒井さんも食べます?」

「いや僕はFAグループで、これからすぐ撃つから……もしよろしければ後で食べさせてもらえますか?」

 ヤマシタ社長の後ろから声がした。

 大柄なヤマシタ社長よりも背の高い、細身の体が幽霊のように揺らめいたかと思ったら、次の瞬間には揺るぎない自信をまとった塔がそびえるようにその男は立っていた。

 トイガンのレビューをしているおじさん。銃で楽器を鳴らす人。しかしこの場にいる時は、その人は。

「マッハ……さか……い」ノリコがつぶやくとにっこりと笑い返す。

「はじめまして、北糀谷ノリコちゃん。ノリコちゃんが撃っているところは何人かが動画に撮っていたのを見せてもらったよ、久しぶりにゾクゾクするものを見たよ……いつか機会があったら、ノリコちゃんの撃つところを見てみたいな」

 返事をしようと思うと声が出ない。マッハ酒井さんに期待されている。

 でも、今の自分は、一人で撃ち終えることすらままならなくて、成績も全然悪くて。

 とん、とん。誰かが肩を指先で叩く。そっちを向こうとした時、ノリコの目の前に何かがごとりと置かれた。

「……持ってきたよ」よく知っている。その声は。置かれたものは。

「はい……あっ、あの!酒井さん……酒井さんの動画を見て、これだってやりたくなって……気がついたら、ここまで来ました。これをやってたから、ぶかつに入れて、友達ができて……あの、ありがとうございます!サインしてください!」

 一瞬、驚いたような顔。すぐに荒れ地に染み渡る湧き水のように、マッハ酒井の顔に笑顔が広がる。そして満面の笑みを浮かべると、マッハ酒井はうなずいて鉄琴を手に取った。

「ありがたいな……僕を追う人が、また一人できたんだ。僕を追って、シューティングを始めてくれた人が」

 鉄琴の裏に、大きく書かれたマッハ酒井のサイン。マッハ酒井から手渡された鉄琴を見るノリコの瞳は輝いていた。

「もうすぐ競技開始だね……雑色さん、ミチエちゃん。挨拶はまたあとで」マッハ酒井が自分の席に戻っていく。

「……ていうかあたしたちもだよ!FAグループ!まずいな試射とかしてないけど」言い終わるとウイカはチャーハンの残りを口に流し込んだ。

「サイトのゼロインについてはご心配なく。ケイさんが競技の直後だというのに両方の銃で50-5Xを叩き出しておりましたわ」ミチルが同好会のPAS-3をウイカに渡す。

「おおっ、ケイさんのパワーが込められているんだ……これは当たるね」

 じゃあ当たらなかったらウイカのせいだね。自分の銃を受け取りながらミチエが言う。

 PAS-3にはケイのパワー。じゃあミチエのPAS-1には。ノリコが申し訳なさそうに見ているのに気付くと、ミチエが言った。

「こっちにはノリコのパワーだね……ノリコがコントロールできなかった分も、きっとここにはあるよ」

 ノリコが笑顔になったのを見届けると、ミチエは席を立った。ウイカも立ち上がったが、ミチルの顔を見ると、肩を叩いてガンケースを開けた。

「ミチルさんもちゃんといるよ」ダットサイトの根元。マウントベースに貼られたプラ板。ミチルが照れ笑いを浮かべるのを一瞬確認すると、ウイカも席を立った。


「……ってなんであんたが隣なのよ天空橋。この時期はフィリピン行くんじゃなかったの」ミチエが言う。

「ニュース見てないのか大森。フィリピンの情勢が少々不安定だと両親が心配してな、急遽アメリカに変更になった。どのみちPASカップには、出る予定だったがな……日程が短くなった分、こっちの練習が捗った」

「見せてもらうよその練習の成果とやらを。私たちは夏休みに入ってからずっと練習してきたんだから」そう言うミチエの表情は自信に満ち、誇らしげだった。

「ヤマシタ社長から聞かせてもらった。午前中の三人が三人とも初参加でバッジを取ったそうだな。一人が敢闘賞で、ブルズアイ100-10Xとか。……そういえば大森、その子アンリミの会場に来てたよな。参加はしてなかったが」

「うん。どうかした?」ミチエが聞くとセビオは自分の銃にBB弾を装填する手を止めて、少し考え込んだ。そして今撃っているグループが撃ち終わるのを見てから、口を開いた。

「すまないな……男だと思っていた」

 短い沈黙。

 ぷっ。

 声を上げて笑い出しそうになるのを必死にこらえ、肩を震わせてミチエが笑い出した。

「大森……?大森、そんなに笑うことでもないだろう。というか、おい、しっかりしろ。競技が始まるぞ大森」

 ミチエはまだ席から立てない。「わ……わかってる天空橋。ごめん……でも、なんかおかしくって」セビオがミチエを立たせて、射場のそばまで連れて行った。



 プレート競技。

 六メートル先に置かれた台に、プレート台が置かれている。楕円形のプレートが五枚ずつ三列。一番下の一列目は少し大きく高さ六センチ、幅四センチ。二列目以降は高さ四センチ半、幅三センチ。

 制限時間は一枚につき三秒を十五回繰り返す。三秒たつとプレートはロックされ撃っても倒れない。

 競技で使われているのとまったく同じ仕様のターゲットをマルヨシが発売していたが五万円以上する高価なもので、プレートをロックする機能はないがだいたい同じ仕様のものを赤羽フロンテーラが後に出したがそれでも二万六千円はする。

 魚森女子の機材が元々あった鰻ヶ原のレンジはスピードシューティングがメインだったのと、フロンテーラのターゲットが出る前に閉店が決まっていたとのことで、リイサが預かった機材の中にはプレート用のターゲットはなかった。

 プレート用ターゲットを購入する予算は申請したが降りなかったとのことで、ミチルがターゲットの紹介動画を参考に作ると言い出し、ミチル自身の小遣いで材木などを購入し、組み上がったのは六月末のことだった。

「ターゲットを購入して練習に勤しんでいる方も少なくない中でミチエさんとケイさんが結果を出し存在感を示す事が、同好会のステップアップにつながる。そう思いまして、そのためにもなるべく早くと、プロジェクトを早くから進めておりました」

 結果としては、アンリミの直後に予算を申請して購入した方が早くプレートの練習ができたかもしれませんね。ダメなプロジェクトの実例そのものという感じで、梅屋敷グループの跡取りとしてお恥ずかしい限りです、と、ターゲットを組み立てながらミチルが苦笑していた。

 マッハ酒井アカデミーやフロンテーラの練習会で当たり前のように撃っていたプレート。レンジやクラブ、あるいは個人で、購入した人たちがいて、買えなくてもなんとかして練習している人たちもいる。

 その人たちと戦うために。戦って、結果を出して、シューティングスポーツ同好会を……みんなの居場所を一歩先に進めるために、ミチルさんが用意してくれたんだ。

 今、託されたのは、私なんだ。

 目を閉じて、深く深呼吸。余計な事は、競技中は考えない。

 JSCの練習では、ミスのリカバリーに重点を置いてきたが、PASカップでは、ミスをしないように撃つ。

「競技を開始します。プレートスタンバイ、レディ……ゴー!」

 ぶーっ……サイトチェックで左右は合わせた。プレートにダットサイトの光点を合わせるのに一秒もかからない。ぶれないよう動きを止め、狙いを確認。ばしん。

 ぱたん。一枚目を倒した。その少し後で、びーっ、終了のブザーが鳴る。

 姿勢を変えて狙いが狂わないように、二枚目に正対できるように、ほんの数センチ、立ち位置をずらす。

 サイトチェックはもうできない。ボルトハンドルを操作して、二枚目を見据えて微調整。最後の確認と数ミリ単位の最終調整は、三秒の間にやるしかない。

 スタンバイ、レディ……ゴー!ぶーっ……左右はだいたい合ってる。ダットサイトの光点は、プレートに重なっている。息を吐いて、高さを合わせ、左右を、より正確に。

 ばしん。ぱたん。びーっ。

 三枚目、四枚目。最初の一列は、うまくいった。二列目以降は、的が小さくなる。的の高さも少し上がって、三列目は水平より上を向けなくてはならない。

 慣れない角度。気をつけないと。

 一列目を撃ち終わり、立ち位置を二列目一枚目に戻す。PAS-1の装弾数は十五発。プレート競技ではそれ以上必要ないが、念のため弾を補充しておく。


 ぶーっ……ばしん。ぱたん。びーっ。二列目三枚目。ミチエは順調にヒットを続けている。ウイカはシルエットを撃っているが、それを見ているノリコやアツシの反応を見ればなんとなくわかる。あまり順調ではないようだ。

 ケイとミチルはミチエの射撃を熱心に見ている。ミチルはセビオの射撃も気になるようであった……ふと気配を感じて、リイサは振り返った。

「ミチルちゃんの……」リイサに挨拶したのはミチルの父親だった。

「道が空いていたおかげで10分ほど時間ができてね。少し寄り道して見学しようと……ミチルが打ち込んでいるものが、どんなものか」

 ミチルは父親が来ているのに気付いていない。リイサが声をかけようとしたが、そのままでいいとミチルの父親が言った。

 ミチエとセビオは二列目が終了し、立ち位置を直しているところであった。

「……イコライザー」平等にするもの。ミチルの父親が言う。

「女性や非力な者でも、銃があれば男性と対等に戦える……アメリカの銃規制反対派が口にすると聞いています。正直ガンマニアの、おもちゃを手放したくない言い訳に過ぎないと、私は思っているんですが」

 プレートスタンバイ。レディ……ゴー!

「あの子が雑色さんの同好会の会員ですか……たしか一年生。それが二年の天空橋くんと互角に渡り合って、一歩も引いていない。ああいうのを見ると、あながち嘘でもないのかなと思えるね」

 シルエット以外の射座は個々に仕切られていて他の射手を見ることはない。だからミチエは気付いていない……左利きのミチエは、他の射手と反対側を向いている。

 仕切りを挟んで、セビオと向き合っていることを。

 仕切りの向こうを意識しているのか偶然なのか、撃ち終わるとミチエは見上げ、セビオは見下ろしている。一発撃つごとに立ち位置を少しずつ変えて、五枚目にもなると顔を突き合わせてにらみ合っているよう。

「私は梅屋敷家に婿入りした身だし、継ぐ気があるのなら梅屋敷グループを引き継ぐのはミチルだ。女性は強くなった……というより、男性と対等に戦える場が増えてきたのだろうね」

 プレート終了しました。アナウンスが流れる……ミチエ、セビオともに満射。

 集計用紙にサインし終え射座を出ると、セビオがミチエに手を差し出す。ミチエは相変わらずムスッとしているが、少しだけ表情を崩してセビオと握手した。

 セビオがミチルの父親に気付いてお辞儀をした。それを見てミチルも気付く。「お父さま……」

 移動中時間が空いて寄り道した旨をミチルに話し、セビオに短く挨拶すると、ミチルの父親は会場を後にした。

「ミチルの話は面白いのだけど、いくらか盛っているきらいがあるように思えたのだが……レポートを楽しみにしているよ。今日はみんなでいいものを食べてくるといい」


 全競技が終了し、本大会各部門優勝者と、年に数度各地で行われる公式記録会の各部門最高成績者によるグランドチャンピオン決定戦の準備が会場で進められていた。

「公式記録会オープン部門チャンピオンの人が、PASラジオのセフティさんよ。酒井さんとヤマシタ社長と三人でやってる」

 反応が薄い。毎回聞いているのはミチルとミチエだけで、あとはウイカがたまに聞くくらいであった。

「すいません。音楽とかあまり聞かないから、ラジオとか部屋になくて」

 インターネットラジオの事よ。部屋にパソコンないの?とリイサが聞くと、ケイは目を白黒させていた。

「パソコンは中学の頃に買ってもらった奴があるけど使ってないな……たしか天空橋エレクトロニクスの」お茶を飲んでいたミチエが盛大にむせる。

「まあ……その話は後にしましょう。まずは午後の反省会ね」

 ミチエの成績は、ブルズアイ90-3X、シルエット26点、プレート満射60点の、合計176-3X。

 ウイカがブルズアイ70-0X、シルエット18点、プレート40点の128-0X。

 一方のセビオはブルズアイ85-2X、シルエット38点、プレート満射60点の、合計183-2X。

 ブルズアイ92-3X、シルエット34点、プレート56点、合計182-3Xのマッハ酒井を1点差で破り三位入賞を果たしていた。

「シルエットで明暗が別れたわね。立射で8、9と取って10メートルでしくじったところまでは一緒で、天空橋くんが確実に7メートルを取りに行って……ミチエちゃんは逆を張って10メートルに固執したのが裏目に出たわね」

 ブルズアイでは勝ったのに。ミチエが小さくつぶやく。

「天空橋くんを意識しすぎたのがいけなかったのかしらね。プレートは二人で高めあってダブル満射だったのに……見ているこっちがドキドキしたわよ」

「「なっ、なんですかそれ!」」ミチエとセビオが同時に突っ込む。

 隣でミチルがニコニコ笑っている。その近くではマドカやウイカも。マッハ酒井とヤマシタ社長も。

「PASカップの基本はブルズアイ。プレートでふるいにかけられて、最後の一歩が届くかどうかをシルエットが決める。こんな感じかしら。……酒井さんやヤマシタ社長の前で偉そうに言うのもなんだけど」

 特に二人からのツッコミはない。リイサは話を続けた。

「今回はケイちゃんがブルズアイ、ミチエちゃんがプレート、ノリコちゃんがシルエットでそれぞれ満射を出したわね。同時にケイちゃんはプレートが伸びなくて、ミチエちゃんはシルエットで崩れた……ノリコちゃんの集中力切れは別問題だけど、ともかくみんなそれぞれの長所や短所、課題がわかってきたんじゃないかしら」

 皆真剣な顔でうなずく。とりわけノリコは、浮かない表情であった……

「どの競技であれ、本番で満射が出せるのは、それだけの実力がある証拠だよ。たとえ今はその力を引き出せないとしても……ノリコちゃん、さっきの雑色さんの言葉を借りるなら、ノリコちゃんの力は、いつかきっと最後の一歩が届くのに役立つのだと思う」

 マッハ酒井の言葉にノリコはうなずく。でも、まだ心に引っかかるものがあって。

「ノリコちゃんはまだ、最後の一歩が必要なところには行けないよね。だけど雑色さんやミチエちゃん、同好会のみんながいれば、行けるようになるよ……がんばってね」

 グランドチャンピオン決定戦が始まるとアナウンスが流れ、マッハ酒井とヤマシタ社長、セビオは応援に向かった。

「……さて、フリー部門はオープンサイト部門に比べてバッジを取るのに必要な点数は高いけど、ウイカちゃんがマークスマン、ミチエちゃんもエキスパートに手が届いたわね。これで全員、バッジを獲得。いい結果を出せた感じね」



 翌日。

「ケイちゃんおそいよー。もう10時になっちゃうよ」

 区民プール入り口でノリコが待っていた。ケイはそこでいったん自転車を降りてノリコに謝ると、自転車を押して駐輪場に向かった。

「ごめんごめん。いったんここまで来たんだけど、水着を忘れちゃったのに気付いて取りに戻ってさ……」

 ケイが財布から回数券を出す。ノリコもはりきった顔をしながら、さっき買ったという回数券を取り出した。

 水着忘れないように着てくればいいじゃんとノリコが言う。

「いやぁ、夏休みが始まった時はそうしてたんだけどね……そしたらパンツ忘れちゃって」

 そういえばそういう子だ。

「家まで取りに戻ってから部活に顔出すのもさすがに時間がかかるんで、下は水着のまま撃った事があったよ。さすがに蒸れて気持ち悪かったんで、反省したよ」

 言い終わると、ケイは傘立てに杖を立てかけた。

 ケイが少し遅れて来たためか、ロッカールームの混み具合はだいぶ落ち着いたものになっていた。適当なロッカーを見つけると、ケイは手早く服を脱いでロッカーに詰め込んでいた。

「すごい脱ぎっぷりだね」ノリコがかばんをロッカーに入れて服を脱ぎ始めた頃には、ケイはバスタオルを腰に巻いただけの状態であった。

「別に男子がいるわけじゃないんだし、誰かに見られてるわけでもないんだからさ。パッパと着替えたら準備体操してプール行くよ。遊びに来てるんじゃないんだから」

 ノリコは不服そうな顔。「ノリコちゃんは……遊びに来てるんだっけ。まあ、じゃあ、慌てないで来てよ。僕は屋内プールの水中歩行レーンにいるから」

 ケイはもう水着に着替え終えて、スイムキャップをかぶるとロッカーを閉めた。

 ロッカーの扉で隠れていた隣の人と目が合う……心なしかすごく見慣れた感じのある顔。真剣な目。

 具体的には、シャープシューターの目。

「わずか360円で、ノリコちゃんのかわいい水着姿と生着替えが眺め放題の区民プールがあるとお聞きしまして」ノリコはバスタオルを腰に巻いてスカートに手をかけたところだった。

「ああ……なんていうか、……いるんだね。ごめんノリコちゃん」


「……ねえケイちゃん」ケイの歩くペースになんとか合わせて進みながらノリコが聞いた。

「ケイちゃんってなんかあだ名あったりするの?……なんかケイちゃんって感じじゃないし、ケイさんって感じでもなくって」

 プールの一方の端まであと五メートルほど。ケイは歩調を早め軽くノリコを引き離すと、端にたどり着いて振り返った。

「そうだね……中学時代は、後輩の子からケイにぃとかケイニキとか言われていたね。ニキって兄貴の意味だって」

「ケイにぃ……それだよ。なんかそういう感じ」ケイに追いつくとノリコは腰を落として頭だけ浮いている状態になった。少し息が荒い。

「疲れた?水中歩行は水の抵抗があるから結構体力を消耗するからね。水が冷たいから気付かないけど、結構汗もかいてるって話だしね……ミチルさんもなんか買いに行ったみたいだから、あっちに戻ったら休むといいよ」

 そうだ。ケイはノリコの両手を引いて後ろ向きに進んだ。

「後ろ向きに歩くと普段使わない筋肉を使うからいいって聞いたことがあってね……僕一人だとフラフラしてぶつかっちゃうから」

 水中歩行レーンは意外に人が多い。お年寄りも多く、歩く速度はノリコよりも遅い……前を向いていても、ケイはうっかりぶつかりそうになる。

「ねえケイにぃ」ケイより背が低いので、右に左に頭を振って進行方向を確認しながらノリコが聞く。

「わたしのおっぱいって、普通だよね?ケイにぃもそんなに大きくないけど……ウイカちゃんやみちゅの方がおかしいよね?」

 面食らった顔をするケイ。考えたこともなかったという感じ。「まあ……そうかな。よくわかんないけど」

 ケイは自分の胸に視線を落とし、考え込む。お年寄りに追いつきそうになり、ノリコが手を引いて止めた。

「僕もちょっとは胸が大きくなったのかな。走れなくなってだらけていたら、余分な肉がついちゃった感じだね……これじゃまた間違って男湯に入ったら、騒ぎになっちゃうかな」

 ありそうだからこわいよケイにぃ。いったんケイに前を向かせてお年寄りを追い越してから、また後ろ向きの体勢に戻る。ノリコはまた別の事を考えているよう。

「だらけた暮らしをしていても、おっぱいって大きくなるんだ!?」

「」

 水中歩行レーンと他のレーンを仕切るロープにケイがぶつかる。ケイが周囲を見回し、プールサイドの方に軌道を戻す。

「妙にこだわるね。どうしたの?」

「うん……ウイカちゃんとか、お姉ちゃんとか、おっぱい大きくって、みちゅも今日見たら、おっきくて、すごい人はおっぱい大きいんじゃないかって」

 僕はどうなるのさ。ケイが言うとノリコは口のあたりまで水に沈んで考え込んだ。

「……ケイにぃが違うから、そうじゃないんじゃないかって。だけど、わからなくって……」

 ノリコはまた口まで水に沈める。吐いた息がぽこぽこと泡になってはじけるのを少しの間見つめていたが、すぐに口元まで浮上させてケイを見た。

「みんなすごいんだもん。みちぇは射撃に一生懸命だし、みちゅはお嬢さまなのに、自分からコンビニで働くって……わたしもコンビニでバイトしたいって言ったら、ウイカちゃんがだめだって……ケイにぃもこうやって、リハビリがんばってて」

 ぽこぽこ、ぽこぽこ。「わたし、なんにもできてない。練習だとうまくいってたのに、PASカップも成績がよくなくって。お姉ちゃんと先生がいなかったら、最後まで立ってることもできなくって……わたしやっぱり、おっぱいがちっちゃくて、だめな子なのかなって」

 ケイはノリコの正面で座り込んだ。ぽこぽこ、ぽこぽこ。ノリコが泡に目を向ける。

「PASカップでバッジを取れなかった人は結構いたよ。みんなだめな人?みちぇや先生をさしおいて、マッハ酒井さんが声をかけた子はだめな子なのかい?」

 ノリコは視線を落としたまま。ぽこぽこ、ぽこぽこ。

「誰にだって得意なことと苦手なことはあるよ。ノリコちゃんはちょっと苦手なことが多いけどね……ノリコちゃんの得意なことは、まだ見つかったばかりなんだよ」

 ノリコが視線を上げる。ケイがうなずく。

「僕が見てもわかるよ……ウイカさんや先生が、それをがんばって探しているんだって。何が得意なのかわからないなら、それを見つけるのはみんなに任せちゃって、ノリコちゃんはできることを頑張ればいいんじゃないかな」

 ケイがノリコの手を取って脚に触らせる。張りと弾力が強くてしなやかな、硬いというより力強い感触……ノリコの指先が少し落ち込む。そこは少しくぼんでいて、硬くて、引きつっていた。

「ここまでくるのに、一年近くかかったよ。結果が出るのって、思った以上に時間がかかるんだなって、つくづく思うよ……頑張ろう。焦らないで。……とりあえずはもう一往復くらい、がんばっちゃう?」

「……うん!」ケイの差し出した手をノリコがつかむ。後ろ向きに歩くケイ。進行方向を確認するノリコ。右に、左に。


「……ってなに、泳ぎに行くとか行って、ノリコとミチルさん二人してだらけて」

 聞き慣れた声。見慣れない人。小柄だがスタイルがよく、短い髪、大きな眼鏡。

 おっぱいおばけ。ノリコがつぶやく。

「ウイカさん……なんと言いますか、その小柄ながらグラマラスな肢体に、どこか不釣り合いなその眼鏡!よいですね!これは……おやりになりますわね!」

 ヤバい、名誉変態エロ親父に目をつけられた。何がツボに入るかわかったもんじゃないな……思わず口に出てしまう。

「それはともかくと致しまして、ノリコちゃんがケイさんと水中歩行を熱心にされていたので、休息と水分補給が済みましたら、わたくしも。ノリコちゃんがケイさんとされていた、あれを、あれを」

 あれって何。そうウイカが思っているところにケイがプールから上がってきた。

「おはようウイカさん……ヒューッ、ウイカさんいい体してるね。トランジスタグラマーってやつだ」

「ちょっ、なっ、ケイさんまでそういう!」思わず胸元を隠すウイカを、ミチルがニコニコしながら眺める。

「そりゃノリコちゃんがコンプレックスを持つわけだよ……ノリコちゃん言ってたよ、すごい人はおっぱいが大きいんじゃないかって。おっぱいが大きくないから、自分はだめな子じゃないかって」

 ノリコはケイの後ろに隠れている。ウイカをいじろうという感じではない、自信のない表情……

 感情が表に出ていないだけで、PASカップで思うように撃てなかったのが悔しかったんだ。ウイカは理解した。

「ばかだなぁ。そんなわかりやすい関係性があるんなら、あたしも苦労しないよ……魚森女子に入って、中間テストも期末テストも、赤点取らなかったじゃん。今はそれだけできれば、ノリコはだめな子じゃないって事になってるんだからさ」

 ノリコを正面から見つめ、眼鏡を外すとウイカはノリコの瞳を覗き込んだ。

「あたし一人でもノリコの射撃がうまいって、見つけることができたよ。だけどもうあたし一人じゃない……みんなでノリコを、すごい人にしていくよ。だめな子じゃない子に、していくよ」

 小さくノリコがうなずく。それを見届けると、今度は悪い笑顔で、ウイカはノリコを見つめ直した。

「だけどもう一方の件は、さらなる絶望が待っているみたいだよ。ちょうどあたしが着替え終えてロッカールームを出て行くときに」

「どうしたのみんな泳がずに集まって……ノリコが具合悪くしたの?」長い黒髪をまとめているので一瞬誰だかわからなかった。

 学校指定の水着に縫いつけられた名札。大森。

「スクール水着枠……ノリコちゃんが最適だと思っておりましたが、よもやミチエさん!これはこれで!」

 ヒューッ、トランジスタじゃないグラマーだ。

 ノリコの表情が、また読みとりにくいものになる。「恐怖!おっぱいおばけが五人中三人もいるぶかつ!」

 もうノリコ的には、おっぱいネタが鉄板なんだろうなぁと、ウイカは苦笑した。

「べっ別にいいじゃない!泳ぎに来たんだし、区民プールでおしゃれな水着着てもしょうがないじゃない!」

 ミチエはあわててプールに入り、恨めしそうな目でノリコたちを見つめる。

「銃器メーカーのアパレルブランドに水着とかあったら、ドヤ顔で見せに来るタイプだと思うけどな」

 ウイカが言うとミチルが続けた。

「その後恥ずかしくなってああなるところが目に浮かぶようですわ……恥じらいという調味料が、無限に沸いてくる子ですわね」

 ミチルはノリコとプールに入ると、泳げない子にバタ足を教えるような感じで手を引いて進みだした。ウイカはケイに聞いて、納得した。

「ケイさん悪いけど休んでる間、荷物持っててくれる?せっかくプール来たんだから、あたしもちょっと芋を洗う感じで入ろうかなって……水の中で目が開けられないから、あんまり泳ぎたくないんだけどね。すぐ戻るよ」

 ウイカは水中眼鏡をきちんとかけると、眼鏡ケースとタオルをケイに渡した。プールに入ると、一往復してまだふてくされているミチエに声をかけていた……ケイは近くの適当な席に荷物を置くと、床に座り込んでストレッチを始めた。



 翌日夕方。

「……というわけでウッドボア三等軍曹、きさまに新たな任務を与える!」

 穴守家の食堂は夕方の開店に向けて準備の最中であった。兄弟でよく戦争映画を見るためか、気をつけの姿勢がウイカもダイキも様になっているようにノリコには見えた。

「本日より北糀谷ノリコ三等兵が、わが中華食堂萬福に着任する。しかしわれらが期待のルーキーは、今のところ両生類のクソをかき集めたほどの働きもできない事は明らかである!よってしばらくは、食器の片付けと皿洗いに専念させるように。注文は必ずダイキが聞くこと!」

 サーイエッサー!元気のいい返事。

「ダイキのおこづかいとノリコの給料に関しては、二人で一人前と言う事で折半する方向で上層部と交渉中であるが、いい結果を期待してほしい。なおダイキの働きによっては、サハギンちゃんの件はこちらで処理し不問に付すので、気合を入れて任務に臨んでほしい」

 サハギンちゃん?ノリコがダイキの顔を覗き込もうとするが、ダイキは直立不動の姿勢で動けずにダラダラと汗を流していた。

「それは穴守家のトップシークレットだよ。ともかくノリコは、物覚えは悪いけど覚えた事はちゃんと忘れない子だからね……よそで働くんじゃこんな待遇はできないんだから、感謝しなよ。できる事を、一つずつ増やしてこ」


 数時間後。

 がらっ。「かわいい看板娘におさわり無制限の中華食堂があると伺いまして!」即座にアツシが突っ込む。

「ねえよ!……さすがによそ様の子に変な事させられないですよミチルさん」

「でしたら新メニューのニュー坦々麺と、おっぱいおばけ退治コースアンリミテッドを所望いたしますわ」

 よくわからないですけど、それ絶対ダメなやつですよね。言いながらアツシが振り返ると、すでにウイカがミチルにツッコミを入れていた。

「って言うか、ノリコ的にはミチルさんもおっぱいおばけ枠じゃん……バイト中ずっとこのテンションでさ、明るい接客だって店長さんがほめてたよ。それはそうとノリコはもう帰ったの?」

 厨房を覗くと、流しで食器を洗っているのはウイカの母親。店内のテーブルをダイキが拭いている。

「八時半ぐらいからフラフラしだして、危ないなと思って姉ちゃんの部屋で休ませた。寝ちゃってるんじゃないかな」

「じゃあ起こしてくる……ダイキどうだった?ルーキーの初日は」

 テーブルを拭き終えるとダイキは近くの椅子にどっかりと座り込んだ。

「姉ちゃんが皿洗いだけやらせろって言ったのがわかるよ……マジ使えないねノリコ姉ちゃん。食器を下げる時お客さんに追加の注文されて、オタオタしてメモを取るのも遅いわ注文間違えてるわで」

 アツシやウイカの両親も苦笑していた。「……で、ノリコはがんばってた?」

 両親、アツシ、ダイキ。みんな同じように、深く確かに、うなずいた。

「あたしとノリコの分も、なんか作ってよ」そう言うとウイカは勝手口から家に入る。寝てると言うより、泣いてるんだろうなと思いながら。

 客観的に言うならば、ノリコはできない事の多い、やっぱりだめな子なんだよと。

 だけどがんばれば、できない事を減らしていけるし、できる事を増やしていける。

 ノリコはそれができる子だよ。一人で立つ事がまだできなくても、いつかできるようになる。ノリコが立つと決めたんだから。

 自分の部屋をノックするのも変な感じだと思いながら、ウイカは自分の部屋に入ってノリコを起こした。少し話をして、食事の用意ができたとアツシが呼んだのを聞くと、食堂へ連れて行く。

 ノリコの手を引いて。引っぱっていくのでなく、歩くのを助けるように。



[Stage_04 finished]



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