16. 胸の内には何もなく、故にそれが始まりである
「――さあ、殺そうっ」
神が啓示した。
女神を殺したヒトの子らを殺そう、一人残らず殺し尽くそう。
声高らかに、愉快に、悦楽に、弾んだ声色で、男はうたった。
「――殺してやる。出来損ないごときが」
神が啓示した。
憎々しげに、それは神と言うよりも最早ヒトの業、憎しみに近かったのかもしれないが。
最愛の(ただし一方通行の)女神を失った男はその美貌を微塵も変えぬまま、瞳の奥だけに仄暗い青い炎をともした。
「「滅ぼせ、出来損ないのヒトどもを滅ぼしつくせ。龍種を滅し、巨人を砕き、妖精を朽ちさせ、小さき愚かな小人どもを絶望の底に突き落とせっ!!!!」」
◆◆◆
なにもない、なにもない、何もない。
何一つ存在しない。まるで心の中にぽっかりと穴が開いたように、考えが思い浮かばない、何かを考えることができない。
……生きようと、思えない。
「……」
俺は、いったい何をしていて、何をしようとしていたのだろう?
そしてそんな俺をあの馬鹿は、何を思いどう見ていたのだろう?
いまさら何を思ったって遅いのは。遅すぎるのは分かり切っている、だからって思わずにいられない。
――俺はなんなのだろう?
「――ッッ」
無性に腹が立ち髪をかきむしる。
目に入るのは赤い色。赤い赤い、命の煌きに染まった真っ赤な髪、そして見えはしないがそれを見眺める俺の瞳の色もまた、赤いのだろう。
「……シャトゥルヌーメ」
女神の名前。もしくは蔑称、変体幼女。
真っ赤な髪、真っ赤な瞳。神らしくあり、神らしくなく、だから俺が神と認めた、この世界の“女神様”。
「……ルナ」
唯一無二の家族であり、母親であり、姉――は、流石に年齢的にアウトだが――たった一つのこの世界で何よりも大切“だった”ヒト。
そう言えばついでに生ける痴ゾンビ的なナニカも湧いていた気もするが、まぁそれはどうでもいい。
ルナを殺した、女神を殺した。俺が殺した。……俺が、殺した? それともヤツが勝手に殺されて逝った?
――俺は何をしているのだろう?
至極真っ当に考えて、一柱殺したのだからさっさと残り二柱も殺るべきだ。――その考えに否はないはずなのに全く気が乗らない。気力が湧いてこない。
はっ、これは女神が残した呪いか何かか? ……なんて嘯ければどれだけ楽だろう。あんな記憶を見なければそれもできたかもしれない、でも無理だった。
俺は最低のクズ野郎だ、ルナの仇を取れるならそんなもの喜んでなってやる、と思っていたはずなのに。
「――おい」
俺が女神を殺した、そこで思考が止まる。その先に進めない。さっきから何度自問自答してもその繰り返し。
俺が女神を殺した――だから?
――俺はなにをしたかったのだろう?
ただルナがいて、いつもと変わらない日常があればそれでよかった……だけだった気がするがそれも思い出せない。
「おい」
「……」
「おい、異界の堕とし子」
「……ッ?」
聞き覚えのある呼び名に驚いて顔を上げると、視界全体に、手
「神の宣告を伝える」
「な、なんだ、だれだっ!?」
聞いた気もするが分からない。たぶん、女の声。顔を鷲掴みにされたまま、何故か全身に力が入らない。
「神はヒトの“処分”を決定した。女神様を殺した我が子らを 男神らは赦しはしない。故に私たち……いや、使徒等はこれより各自『裁き』を実行に移す」
「……」
「先ずは管理を怠った龍種を。次に邪魔な巨人族、肉体の脆弱な妖精族をじわりじわりと嬲り殺し、最後に元凶たる小人族に絶望の中で己等の罪を悔い誅す」
「……どこかで聞いた声と思えば、お前」
「決定は伝えた。そしてこれで私の最後の使命を終えた」
「――【灼眼】」
視界から手が退ける。
目の前に立っていたのはやはり、見覚えのある赤髪灼眼の女。俺が殺し損ねた、使徒【灼眼】。
表情がなく、造形がぞっとするほどに美しい、人形のような――否、使徒なんて神の人形、か。
「なんだ、女神の仇を取りに来たのか?」
やはり何もする気は起きない。
こいつが『そうだ』と言って俺を殺そうとすれば、もしかしたら俺は何の抵抗もせずに殺されて終わるかもしれない。
……俺が終わる?
ハッ、ククッ、それでもいいのかもしれないなぁ、なんて思ってしまう時点でもう俺は終いだ。
けど、まぁ、しゃぁねぇ、な?
けど返ってきたのはそんな望んだ答えじゃなくて。
「違う」
「……」
「女神様はそんなことは望んでいない。それに燎原も。だから私は異界の堕とし子、あなたを殺さない」
「……俺が憎くはないのか」
「憎い、と言う感情は知っている。けどそれだけ、よ」
「……所詮人形、か」
「あなたがそう思うならそうなんだと思う。だから私はあなたを殺さない。その必要性を認めない、から?」
「ついさっき、神や使徒どもが粛清とか報復とか言ってた気がするが?」
「違う、『裁き』だよ」
「言い方が違うだけだろうが」
「……そうなの?」
「あぁ」
「あなたが言うのなら、そう。訂正する。使徒等はこれより各自『粛清』『報復』を実行に移す。……これで良い?」
「ンなの俺が知るかよ」
「そう」
「……」
「……」
「で?」
「なに、異界の堕とし子」
「だから、ならテメェは何しに来やがったんだよ?」
「あなたへ神の啓示を伝えるために。そしてそれが私の最後の使命」
「……そういやぁ、さっきも最後、とかほざいてやがったな、お前」
「そして私は使徒としての役目を終えた。今の私は灼眼」
「……」
「ただの“灼眼”」
「……おい」
「なに、異界の堕とし子」
「……くく、くくくくっ、お前、面白いことを抜かすなぁ、おい」
「面白い? 何が?」
「……いや。んで、そのただの灼眼サンは俺に報復するんじゃなけりゃ、これから一体どうしようって?」
「燎原は言った、『真っ直ぐこの世界を見て、誰もに喜びを与えてあげて欲しい』と。でも分からない。ヒトが消えてしまうこの世界で私は“誰”に喜びを与えれば良い、のかな?」
「……ンなモノ、俺に聞くな。てめぇで考えろ」
「考えた。考えて、でも分からない」
「知るかよ。誰もいないってのならテメェ自身にでも喜び与えて満足してろ」
「私、に?」
「ああ、そうだよ」
「……」
「――チッ、ナニか知らねぇがやっぱりムカつく。ムカついて、ムカついてムカついて……チッ、俺は使徒なんかにナニ話してんだか」
「違う。私はただの灼眼。もう使徒じゃない」
「あぁ、そりゃわるぅございました、なっ!」
「うん」
「……チッ、あぁ、くそっ、苛立ったらなんだか腹が減ってきやがった」
と、自分で言ってから気がついた。
腹が減った?
つい先程まで何もする気が起きなかったのに、それが今じゃ腹が減った?
灼眼と話してて気でも紛れたかぁ? ――つくづくいい加減な自分に余計に腹が立つ。本当に、俺は何がしたいんだか。
「はい、これ」
「あン?」
「これをあげる、異界の堕とし子」
「……イモォ? 毒でも入ってるのか」
「違う。燎原のお土産。おなかが空いたら食べるようにって言ってたから。お腹が空いたのならあなたにあげる、異界の堕とし子」
「はぁ」
「……はい」
「まぁ、いいか。毒でも入ってたらそんときゃ、そん時だ」
「燎原のお土産、だから毒は入ってない」
「へぇへぇ」
生、は流石に遠慮したいから火……薪でも探すか。
なんとなく、ヤツの奇跡を使う気がしない。地道に火でも焚いて蒸すか。
「? どうかしたの、異界の堕とし子」
「どうした? 薪を探してるだけだ」
「薪?」
「火を燃やすんだよ、こう、薪で。ンでその下でイモを蒸すんだ――って、また俺は何でこんなことを使徒なんざに話してなきゃいけないんだよ」
「もう使徒じゃない。ただの灼眼」
「へぇへぇ、っと」
「……薪、焚き火……火が燃えること?」
「あ? なにを当たり前のことを。そうだなぁ、ま、どうせだから盛大にいってみるか」
火、と言えば。
そういえば俺はルナの墓すらも作ってなかったんだなぁ、なんて今更なことを思い出した。女神の墓……は、どうでもいいとして。
「火、盛大、燃える……」
「さっきから何なんだよ?」
「異界の堕とし子」
「あン?」
「ここから歩いて北へ行くといい」
「は? いきなり何ほざき出すんだ、テメェ」
「この先で盛大な焚き火がこれから“起きる”。だから焚き火が必要なら向かうと良い」
「起きる? これから? は?」
「うん」
「……へぇ」
“焚き火”が“起きる”ねぇ。
北に何があるのか知らないが。別に何をするわけでもなく何をする気にもならず。
……ならいいか。何も考えてなさそうに見えて、この目の前の使徒が何を考えてるのかなんて考える気もないが、いいか。その思惑に乗ってやろうじゃねぇかよ。
――ただ我武者羅に何かをしたい気分になった、本音を言えばただそれだけだったかもしれないけれど。
「そうかよ。じゃあてめぇの言うとおり北にでも行ってみるとしよう」
「うん」
「――じゃあな、灼眼」
「うん、異界の堕とし子」
使徒……神の人形、ねぇ?
◆◆◆
片手を挙げて“彼”が去った後で、一人その女は立っていた。
「私自身に喜びを……」
一人呟きをもらす。その言葉を聞いているものは誰もいないし、誰かに聞かせるための言葉でもなかった。
「私自身に喜びを……」
言葉を繰り返す。
そっと上げられた手が唇に触れて、無表情のまま女は首を少しだけ傾げる。
「私は、燎原が居てくれると嬉しい。燎原が居てくれないと、悲しい?」
ぽろぽろと。
表情を変えぬまま女の目から涙が溢れ出し、零れ落ちる。――けれど女はそれに気づかない。
「……燎原。燎原はそう言うけど、私は何をすればいいの? 分からないよ、燎原。だからいつもみたいに教えて欲しいの。――……燎原」
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