この出会いは何を生むか?
女子が使うには、少し実用的すぎるヘッドホンだな、というのが第一印象だった。彼女は講義棟の屋上で、きっとキャンパス内の誰もその存在を覚えていないであろうベンチに座り、音楽を聴いていた。彼女の隣には、鞄も、お菓子も、缶コーヒーの一本さえなかった。音楽を聞く、それ以上でもそれ以下でもなかった。
あるいはそれは音楽ではないのかもしれないけれど、実用的なヘッドホンは音漏れをしないものなのだ。だから僕には彼女の鼓膜が受け取る音がどんなものなのか想像するしかなかった。彼女は英語のリスニングをしているのかもしれないし、元彼の部屋の盗聴をしているのかもしれないし、やはり音楽を聴いているのかもしれなかった。
僕からは彼女の背中しか見えない。けれど口ずさんでいるようにも見えないし、リズムに乗っているようにも見えない。ただ何か、全部を拒絶しているような感じがする。晴れ渡った空も、降り注ぐ太陽も、風も、何もかもだ。もちろん僕も。
何聴いてるの、なんて気軽に聞けるような雰囲気ではないのだけれど、何故だか僕は、彼女のヘッドホンの中身が気になって仕方なかった。そのヘッドホンがどんな音を流すのか気になって仕方なかった。
だから聞くことにした。
「ねえ、何聴いてるの?」
やはりというかなんというか、彼女には僕の声が聞こえていないらしかった。仕方ないので肩を叩く。思ったよりも、彼女の肩は跳ねなかった。そのかわり、思っていたよりもずっと不機嫌そうな顔で彼女は振り返った。
「……何、誰」
「何聴いてるの?」
「あなたは初対面の人間に対して名前を名乗ることもできないの?あなたが誰か、私は知らないんだけど」
考えてみればその通りだった。僕は彼女の名前を知らないし、今こうして顔を見ても何も思い出せないということは完全に初対面だ。僕がそう思うということは、彼女もそう思っているのだ。
「高峰守、二十一歳、十二月四日生まれ、身長は百七十八センチ、体重は高校の時に量ったきりだから情報が不正確なので割愛、靴のサイズは二十七センチ、彼女はいない、コーヒーはブラックが好き、あまり酒は飲まない、冬よりは夏のほうが好き、休みの日は本を読むか映画を観るかしてる、テレビはほとんど観ない、風邪はあまりひかないから身体は丈夫な方だと――」
「ちょっと待って、それはいつまで続くの?」
「君がもういいって言うまで」
「もういい」
彼女は、さっきの嫌悪感丸出しの顔ではなく、呆れた顔をしていた。嫌悪感よりは呆れのほうがまだましだと僕は思う。呆れには攻撃性がないから。
彼女が首にかけているヘッドホンは、やはり実用重視で、何一つ装飾というものが無かった。せいぜいメーカーのロゴマークがついているだけだ。音を聞くための電子機器。音を聞くためだけの電子機器。やはり女の子が使うためのものではないな、という感想しか出てこない。いったいどんな顔をして、このヘッドホンを買ったのだろう。見てみたいものだ。
「ねえ、今僕は自己紹介をしたんだから、もう聞いてもいいよね?何聞いてたの?」
「……あなたに言ってもわからないと思うけど」
「それは僕が決めることで、君が決めることじゃない」
彼女の呆れ顔に嫌そうな色が出たので、どうやら僕は言葉を間違ったらしかった。けれど口から出してしまった以上はまた飲み込むことはできないから、彼女の反応を待つしかできなかった。
「さっき聴いてたのは、フランキー・ヴァリとザ・フォーシーズンズよ」
なんとなく聞いたことがあるような気がした。一つ有名な曲があったような、そんな気がする。なんだったっけ。
「えーと……『君の瞳に恋してる』?」
彼女の顔が、今度は驚きに変わった。彼女は表情が無いようでいて、実はとても豊かな表情をしている人だった。目だけが動いて、他のパーツが動かないから、そんな印象を与えてしまうのだろう。彼女は誤解されやすそうだ、と勝手に判断しておく。
「よく知ってるわね、でも半分正解で半分不正解。『君の瞳に恋してる』は、ヴァリのソロ曲であって、フォーシーズンズの曲じゃない」
「五十点」
「そういうこと」
先ほどから何度もこの感想を持っているのだけれど、それは今時の女の子が聴くような音楽ではなかった。彼女は全部の物事に、「今時の女の子はやらない」という枕詞を必要としているみたいだ。
フランキー・ヴァリとザ・フォーシーズンズを知っていて、しかもわざわざ聴こうというような女子大生に、僕は出会ったことがない。『君の瞳に恋してる』という曲を知っていても、カバー曲として知っている程度で、オリジナルアーティストなんてみんな知らない。それは悪いことではない。むしろそれが普通で、常識的だ。
でも彼女は知っている。そして彼女は今時の女子大生のはずだった。世の中には絶対というものが無いらしかった。僕が知っている限りでは、こんな女の子は存在しないはずなのだ。女の子は小さくて可愛らしい、とにかく音がするだけのイヤホンを耳に詰めて、最新のヒットチャートを聴くものだとばかり思っていた。でもそうでない女の子もいるのだ。それはある意味で衝撃的な発見だった。こんな女の子がいるのか、という衝撃ではない。今まで会ったことがある女の子は揃いも揃って同じだったということに対する衝撃である。
ヘッドホンに気を取られすぎて気付いていなかったけれど、彼女が着ている服も、実用的に過ぎる服だった。良く言えば実用的、悪く言えば可愛げも色気もない黒いパーカーに、はき込んだジーンズ、足に馴染みすぎた緑色のスニーカー。そして、どうしても目を引くヘッドホン。さっき僕は、彼女が誤解されやすそうと判断したけれど、たぶんこれは、自動的に距離を置かれてしまうタイプだ。
でもどうしてか、気になる。目を引くと言えばいいのか、魅力的とでも言えばいいのか、まあそのあたりの微妙な表現は上手く見つからないが、とにかく僕の興味はヘッドホンから彼女自身に移っているようだった。
「ねえ、横に座ってもいい?」
「嫌だって言ってもあなたなら居座りそうね」
「そんなことはないよ。嫌だって言われたら説得し直すんだ」
「どっちにしても一緒よ。座っていいわ」
完全に拒絶されているわけではなさそうだった。音楽の趣味が合うと、なんとなく距離が縮まるようだ。実際のところ、僕が洋楽好きというわけではないから、厳密には趣味が合ったわけではないのだけれど。父親の洋楽好きがこんなところで役に立つなんて思わなかった。今度会ったら感謝しておこう、覚えていたらの話だけれど。
「いつもこんなに大きいヘッドホンで聴いてるの?」
「そうよ。イヤホンじゃ周りの音が聞こえてしまうから」
「ふうん」
確かにこのヘッドホンだったら、周りの音は確実に遮断できるだろう。さっき感じた、何もかもを拒絶しているような雰囲気はこのせいだったのかもしれない。
「いい音?」
「さあ、どうかしら?どれだけ音質が良くても、直接聴く音にはかなわないもの。結局これは音が出る機械でしかないわ」
僕はずいぶんと、面白い子を見つけたようだった。僕の発想と同じような発想、のように見える微妙に違った考えを持っているらしい。不思議だ。決して嫌なずれではないけれど、僕の中にはない発想だった。確かにヘッドホンは音が出る機械だ。でも直接聴く音がいいとは、特に思っていない。それはこちらの耳の問題だ。
ねえ、と彼女が僕に言う。初めて彼女から話しかけてくれた。
「あなたがナンパするつもりで話しかけてきたんだったら、私も今すぐに帰るんだけど。でもそうじゃないでしょう?あなたの目的は何?」
「目的?いやそんなたいそうなものは何もないけど。ただ君のヘッドホンが気になっただけ。そんなにちゃんとしたヘッドホンで何を聴いてるのかなと思ったんだ」
「何を聴いてると思ったの?」
「音楽か、英語のリスニングか、盗聴かのどれかだと思ってた」
とうちょう、と彼女は呟いてから、クスクス笑った。なかなかに可愛い。そういえば、ここに来て初めて笑う顔を見た。
もしかしたら少しくらいは、僕に心を許してくれたのかもしれない。そんなことを考えたりした。許してもらったからといって、僕が何かできるわけでもないし、気を許してほしいかどうか改めて考えてみると、別にそうでもなかった。
「私、あなたとはわかり合える気がするけど、好きにはなれない気がするわ」
「僕はわかり合える気はしないけど好きにはなれそう」
「そういうところが好きになれなさそうなのよ」
「繰り返すようだけど、僕は好きになれると思う」
僕たちは五秒間くらい見つめ合って、意見が変わらないことを確認し合った。なるほど、やっぱりわかり合えない感じがする。でも嫌いではない。嫌いになれるとは思わない。
僕は彼女に何を求めているのだろう。何を聴いているのかはもう聞いた。面白い子だと思った。好きになれそうだなとも。もしかしたら一回くらいできるかもしれないなとも。でもナンパしたかったわけじゃない。寝られるなら寝るけど、積極的にそうしたいわけでもない、これは彼女に対してある意味とても失礼なことかもしれないけれど。
さてどうしようか。僕はこれから、彼女とどうなりたいんだろう。なんだかよくわからない。どうもなりたくないのかもしれない。でもそれも違う気がする。どうにかはなりたいのだけれど、どうなりたいかが掴めない。
何かが起こりそうなのに、起こらない時はどうしたらいいのだろう。
「ねえ、君と出会ったのって何かの縁だと思うんだけど、どんな縁だと思う?」
「安い恋愛ドラマのセリフみたいね」
「いや本気で。だってこんなふうに誰かと出会ったことなんてある?僕は無いんだけど」
「……私も無いわよ」
「でしょ?これってすごいことじゃない?」
「すごいことかもしれないけど、ここからあなたとの関係を深めたいとも思わないわ」
彼女の言い分はもっともだ。そもそも僕の方向性も決まってないから深めようにも深められない。どうしたいのかなあ、僕は。せっかく、何か起こりそうな出会い方なのに。
そうこうしているうちに、彼女は立ち上がった。ベンチに積もっていたのだろう、服についたほこりを軽く払い、僕の方を何とも言えない目で見つめた。
「あのね、きっと初対面でこんなこと言うのは失礼だと思うけど――あなた、無条件で人に嫌われるタイプでしょう?」
「……僕も同じこと思ってたよ」
彼女は軽く肩をすぼめて、またヘッドホンの中の世界に戻ってしまった。もう会話は終わり、ということらしい。くすりとも笑わないで、彼女はどこかへ行ってしまう。最後にひらひらと手を振って、彼女は屋上から消えてしまった。
やれやれ、何か起こりそうだったのになあ。そうそう上手くいくものでもないか。
こんな出会い方があったら面白いと思うけど、実際にこうやって出会ったことは無いし、もしこうやって出会ったとしても何も起こらず終わりそう。と思ったので書いてみました。思った以上によくわからないものに出来上がってしまいました。そうそう上手くいくものでもないか。
ちなみに、「フランキー・ヴァリとザ・フォーシーズンズ」は、とても素敵な4人組バンドです。綺麗な声のリードボーカル。