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緋色院 詩織

 結局、僕は校長先生の言葉を弓角君には伝えなかった。

 それは校長先生が神様だという世迷いごとのような現実を説明するのにかかるであろう時間をみみっちく惜しんだ、というのもあるし、それを伝えれば調子付いた弓角君が「運動系文化部」の設立を早めんとして何らかの行動を開始し、それによって僕が被るであろう迷惑を嫌がったからでもある。

 とにもかくにも、その日の昼食会談でも侃々諤々の議論の結果、「結論は先送りにする」という結論が出、僕は六時間目のホームルームを少々侘しい気持ちで受講していた。




「そうそう、今日ようやくクラス全員がそろうぞ」

 担任の先生が言ったその言葉は、少なからず僕を驚かせた。

 前述したとおり、クラスメイトは僕を含めて総員二十名。内男子が我々転校生組を含めて九名、女子が十名と、ほんの些細な違いではあるが女性の方が多い。

 しかし、だからといって我ら男子勢が、女子に囲まれた桃色の青春汁滴る学生生活を送っていたかと思われれば、それは大きな間違いである。

 その良い例が宮下さんだ。いくら均整の取れた顔立ちであり、莞爾と笑うような女生徒であったとしても、大鎌を常に持ち歩き、ちょっとでも気に触ることがあればすぐにその巨大過ぎる刃物を振り回すような女子に囲まれては、滴っていた青春汁など凍りつき、代わりに鮮血が噴出する猟奇的な学園生活が始まってしまうであろう。

 このようにクラスに在籍する数多の女生徒たちは皆、大体が我々男子などを寄せ付けぬ何かを持っているのである。

 そのような女子がまたひとり、今日から学校に復帰するという旨を先生は告げた。僕にしてみれば、それは宣告に近い通達であった。

 何故六時間目から復帰をするのか。疑問を抱える僕に答える者はおらず、先生は「良かった良かった」と拍手をしながら教室のドアを開けた。




 頭脳明晰容姿端麗、眉目秀麗明眸皓歯 。

 元華族の家の深窓の令嬢で、お茶、花はもとよりピアノ、スイミング、新体操、バレエその他習い事全般を完璧にこなし、芸術的なセンスも抜群。

 異性を問わず人気がありそれでいてお高く留まったところなぞは欠片もない。

 触れれば折れてしまいそうなほどほっそりとしているが、出るべきところは出ている。

 スポーツ万能で、艶やかで、たおやかで、玉を転がすような声をしている。

 無論髪はしなやかで性格のよさは天下一品。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

 これが彼女の自己紹介の文面である。

 阿呆か。いや、阿呆である。

 教室に入り、教壇に立つや否や彼女が言い放ったこの自己紹介は、僕が「この人にだけは近づかないようにしよう」と確信するに十分過ぎるほどの威力を持っていた。

 ややあって、先生が「何故自己紹介をしたのか」と問うても、彼女はやんわりと微笑んで

「転校生の皆さんに挨拶をしたいなぁ、と思いまして」

 と、やたら作り物臭い台詞をいけしゃあしゃあと吐いただけであった。


 クラスにひとつ、空席があることは前々から気付いてはいた

 もともと生徒数の少ない学校であり、その空席はひどく目立っていたこともあって、僕は「あの席には誰が座るのか」と近くにいた生徒たちに訊いたことがある。

 すると、それまで和やかに会話を交わしていた生徒たちの微笑が一瞬で凍りつき、取って付けたような笑顔と乾いた笑い声で空しく苦笑いをすると

「すごく普通の子だよ」と見え透いた嘘をついて、皆一様にそそくさとその場を離れるのである。

 違うリアクションをとったのは芽河さん、葵木さん、そして院辺君だけであった。

 その三人にしたって、院辺君は一度身を震わせると、

「あん畜生は色々おかしいんでござんす。同じ人間とは思えん」と言って触覚を蠢かした後、一切口を利かなくなる。

 芽河さんは「彼女は精神的平衡を保てていない」とだけ発言した後、読んでいた『世界のジョーク――抱腹絶倒のユーモアをあなたに』という恐ろしくつまらなさそうな本を、恐ろしくつまらなさそうに再度読み始める。

 葵木さんに至っては質問の直後「うぎぎ」と呻いてひきつけを起こし、保健室に搬送されるという有様であった。

 この出来事のあまりの不可解さにおぞましき何かを感じ、僕はそれ以上の調査の続行を断念した。

 今、教壇に立って作り物臭い笑顔を振り撒いている女生徒こそ、生徒たちの恐怖の対象。その名を呼べば泣く子も恐怖で叫び返す、怖れの表れに他ならない。

 彼女は、その名を緋色院 詩織(ひいろいん しおり)という。




 いくら僕がこの世に生を受けてから十数年、一切心ときめくような恋愛に出くわさず、恋路をひた走ることなど全く無い、無意味に禁欲的な生活を送らされてきたとはいえ、自らの都合のいいように初対面の女性との恋愛沙汰を妄想するほど性格は歪んでいないと信じていた。否、今だって信じている。そうに違いない。異論など聞きたくもない。

 深く考えるまでも無い。緋色院とはヒロインのもじりではないか。

 およそこの瞬間ほど自分の能力とやらを恨んだことは無い。こんな事実には気付くべきではなかった。

 いやしかし、と自分を諌める声が心の奥底で響いている。

 よく考えてみろ。単純に名前の語感がヒロインという言葉に似ているというだけで、お前のような脆弱な男子にあのような女性が好んで寄り付くとでも思うのか。そんな虫の良い話がある訳が無い。お前は忌み嫌っているはずの自分の能力を、少し過信してはいないか。冷静になれ。ありえるはずが無い。妄想も大概にしろ。恥を知れ。

 僕の心の中に生息する理性という名の小人が、必死になって僕の思考の手綱を引こうとしている。

 確かに、彼の意見には一理ある。というか、かなり筋が通っているような気がする。

 いまだ教壇に立って、何かを探すかのように辺りを見やる緋色院さんを見ていると、やはり理性は正しいことを言っている、という気になってくる。

 先程の自己紹介は異常なまでの誇張に満ち溢れていたとはいえ、緋色院さんは非常に可憐な人であった。

 くりくりとした目に長いまつげ。真っ赤な髪の毛によく映える黄色いカチューシャ。

 何処の学校のものかは不明だがやたらと似合っている制服。

 これ以上の明確かつ詳細な描写を続けると「お前はそんなに女生徒をじろじろと見つめていたのか、この変態野郎」などと罵られそうなので自粛しておくが、一昔前の「美少女」像を具現化したかのように、彼女はレベルの高い女性であった。

 そんな女生徒が己に対して好意を寄せると思うのは、議論の余地も無い変態的妄想である。改悛の情を示さなくてはならない。猛省せねば。


 一人で深読みし、一人で気をもむという孤独な精神的奮闘を続けていた僕の横に、いつの間にか空席がひとつ出来ていた。

 奇怪な。はて、横には確か男子生徒が座っていたはず、と思うよりも先に、

「じゃあ、空いてる席に座ってくれ」という先生の声が聞こえ、僕は戦慄した。

 あわてて辺りを見渡すと、転校生組である後ろの二人を除いた皆が明らかに机ごと移動している。

 見覚えのある男子生徒は荷物ごと隣の席に移動したらしく、空席のはずの机に乗っている鉛筆をちょうど回収し終わった様子である。

 嵌められた、と心の中で呟いても後の祭りであり、恐怖の象徴は僕の机の前までつかつかと歩いてくると、「はじめまして、これからよろしくお願いします、ね」と言って、男子には到底真似できない角度に首をかしげると、にっこりと微笑んだ。

 僕は観念して「こちらこそよろしく」という限りなく形式的な挨拶をぼそぼそと呟くと、今後は首および体を緋色院さん方面に九十度以上傾けることは避けよう、と固く心に決めてから前を向いた。




 帰りの会というものは一刻も早く終了して欲しい時に限って、だらだらと長引いているように感じられるものである。

 隣席の緋色院さんが、何故かこちらをじろじろと見つめてくるという、これ以上ない程居心地の悪い状況に陥っている今、「よもやクラス全員で結託して、帰りの会を長引かせているのではあるまいな」とあらぬ疑いに苦慮して悶え苦しみ、机の上で頭を抱え「ううう」と唸って晩空君に一種異様な目つきで見られてなお、余りあるほどの時間が経っているように僕には思われた。

 芽河さんの謹厳そうな声が響き、掃除の為に椅子を机の上に載せる音が聞こえ始めた瞬間、僕は自分で自分を褒めたくなるような瞬発力を発揮し、瞬時に机の上に椅子を叩きつけると、鞄を引っつかんでドアに向かって駆け出した。

 何人かの生徒に怪訝もしくは不快の眼差しで睨まれたが、それを気にも留められない程可及的速やかに教室から逃れ出たかったのである。

 帰宅部時代に無意味に鍛えられた、さほど逞しいとも言えない細足が唸りを上げる。半ば落下するような勢いで階段を駆け下り、下駄箱付近で迅速に靴を履き替え、元帰宅部の本領発揮。面目躍如たる活躍を見せてやろうと息巻いて駆け出そうとした瞬間、頭上から女の子のような甲高い声が飛来し、僕の頭部を打った。


 見れば校舎二階、教室付近の窓辺から、弓角君が身を乗り出して何かを振り回している。

 黒っぽい棒状のそれは僕にとって非常に見慣れたものであり、視認できた瞬間思わず変な声が出た。

「筆箱を忘れるとは!」

 帰宅部時代には決して犯さなかった極めて初歩的なミスであり、やはり帰宅道が辛く険しい道であると再認識させられる。

 たった数日間鍛錬を怠っただけで、よもやこのような醜態をさらす羽目になるとは。あの頃の友人たちが今の僕の無様な姿を見たらなんと言うだろうか。


 ひどく馬鹿馬鹿しい事で反省をしている僕を哀れんだのかどうか分からないが、弓角君は窓からずり落ちそうな危険な角度を保ちつつ「そっちに持っていこうか」と好意的な提案を申し出た。

 しかし一度は帰宅部部員として極一部に名をはせた僕にとって、そのような情けは無用である。いや非常にありがたいのだが、わざわざここまでご足労願うことも無い。

「いや、僕がそっちまで行くよ」と声に出すと、僕は足を校舎の方に向けた。

 その時、にわかに上の方が騒がしくなった。校舎外にいた僕ですら気付いたのだから、それなりに大きな騒ぎである。

 ひょいと弓角君がいた窓辺を見ると、相変わらず見える彼ともう一人、長い髪の女子が口論を繰り広げている。より正確に描写するならば、女子が一方的にまくし立てているようだ。

 ひどく嫌な予感がして、あわてて目を凝らすと、窓の外に鮮紅色の髪の毛が翻るのが見えた。

 僕は慄然とした。

 彼女から逃れようと必死に帰宅を試みたのに、よもやその帰宅までも邪魔をされるとは。

 恐怖のために我が身が震えるのを抑え、僕は努めて冷静に考えた。

 現状で弓角君に筆箱を窓から投げてもらうという作戦は実行出来ない。彼が一方的にやり込められているという状況もさることながら、弓角君は運動が出来ないという確固たる事実がある。

 一度、教室内で落としてしまった消しゴムを、彼に投げ渡してもらおうとしたことがあるが、消しゴムを拾った彼はいきなり暗黒舞踏の中途のような姿勢をとると、「えひぃ」という全く気の入らない声で腕を振り、消しゴムを自分の足元にぽとりと落とした。

 つまり先の暗黒舞踏は彼の投球フォームであり、その場にいた僕と幾人かの生徒たちは、弓角君渾身の一球が脅威の記録、マイナス五センチメートルを叩き出した瞬間を目撃したのである。

 彼に窓際で前衛芸術を躍らせた挙句、筆箱を床に落として無用なダメージを与えるという手段を望まない場合、やはり僕自身が筆箱を取りに行かねばなるまい。

 理由は一切不明だが、緋色院さんが弓角君に突っかかっていることは事実である。彼には申し訳ないが、緋色院さんが彼に構っている間にさっさと筆箱を入手して学外に逃げ出せば、とりあえず今日は彼女から逃げ切ることが出来よう。

 彼に尊い犠牲になってもらうためには、一刻も早く教室にたどり着くことが要求される。

 僕は再び細足を唸らせて教室前まで奔走した。


 さて、勝手に他人を犠牲にして、己の目的だけを達成しようとする我欲むき出しの人間には、それ相応の天罰が下される。

 非常に単純明快なこの世の理である。しかし僕はそれを完全に失念していた。

 教室前で急ブレーキをかけた僕が見たのは、筆箱を片手に仁王立ちする緋色院さんと、雨にぬれたダンボール入りの子猫のようにしょげかえった弓角君であった。

「ごめん、とられちゃった」と呟く彼を後ろに、彼女はあくまでも清楚な笑顔浮かべ、

「お話があるの、主人君」と言った。

 のっぴきならない状況とは、こういうことを言う。

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