反面教師の鑑
白いワンピースに、サイズの合っていない大きな麦藁帽子を被って、常にサンダル履きだが、足は速い。
身長はクラスで下から数えて一番で、髪の毛は少々長い。一人称はいっちゃん。好物はイナゴの佃煮。嫌いなものはイナゴ。本名|
夏河岸 伊代。
断っておくが、これらの情報は院部君の「人間づかんノート」に記載されていたものであり、僕個人の意見、思想、偏見その他個人的な諸々とは一切の関係が無い。そのあたりを念頭においていただきたい。
院部君の計画はこうだ。
まず祭りの騒ぎと夜陰に乗じて夏河岸さんを近くの林に誘い込む。次に用意しておいたクロロホルムを彼女に嗅がせ、気を失った頃合をはかって実験を開始する。
この良い子には見せられない実験計画に、しかし僕はあまり恐怖を感じたりはしなかった。転校当初の僕ならば、まず間違いなく聞かなかったことにして仮病を駆使し、一目散に学校から逃げ出したであろうが、今の僕は院部という少年を多少は知っているのである。
「院部君、クロロホルムとか持ってんの?」
「いんや。しかし理科室にならありけるだろう」
案の定、院部君の計画は穴だらけであった。常々言いふらしている世界征服計画のいい加減さから薄々分かっていたことではあるが、今回もまた綿密とは言えない作戦のようだ。
大学病院ならともかく、そんな危ない薬品がこの土井中の理科室程度にある訳がない。僕はよっぽどそう言ってやろうかと思ったが、彼は机に広げていた人間づかんノートを音高く閉じると、僕の手を引いた。
「さあ、他の学童どもに発見通報される前に、おくすりを譲り受けにいきましょうぞ」
履きつぶしたピヨピヨサンダルをぺたぺた鳴らしながら、院部君は廊下へのドアに手をかけた。
「この時間帯なら、あの先公も理科室にあらせらるるでしょうよ」
理系担当教諭の丘品 博士は、近年稀に見る駄目人間である。一介の生徒風情が何を生意気な、と思われるかもしれないが、しかし一介の生徒風情の目から見ても、非の打ち所のない駄目人間なのである。
強者にへつらい、弱者に媚を売る。夏の暑さに不満を垂らし、冬の寒さに不平を漏らす
東に病気の生徒がいれば、行って見舞いの品を食し、西に疲れた母親がいれば、行って「仕送りを増やせ」と無理強いし、南に課題で死にそうな学徒がいれば、行って「未提出でもええじゃないか」と要らん忠告をし、北にいさかいの種があれば、野次るだけ野次って帰ってくる。こういうものにだけはなりたくない、と人々に言わしめる、反面教師の鑑、それが丘品博士その人であった。
では、この紛れもない駄目人間の、一体どこに「おかしな博士」、つまりマッドサイエンティストな部分があるのか。
我々のクラスメイトに、一人の女子がいる。背は少し低めだ。感情表現が豊かで、喜怒哀楽が非常に激しい。得意科目は体育で、苦手なのは水泳。大体いつも笑っている。
彼女は、名を安藤 炉井戸という。
その彼女の生みの親こそ、丘品先生なのである。
理科準備室に入ると、安藤さんがカップ麺をすすっていた。忌々しそうにそれを見つめる、白衣を着た大柄な男性が丘品先生である。手には小さなヨーグルトのカップが握られている。
「ようよう、お先公方、朝食がビフィズス菌だかなんだかの集合体たぁ、随分と寂しげですな」
「黙れ。ヨーグルトを不味そうに言いやがって」
先生は苦々しげに舌打ちをした。「クソガキとエロガキが、揃って一体何の用だ、部活なら勝手にやってろよ」
丘品先生はAV研究部の顧問を勤めている。部活動の設立にあたって、僕が一番の難関であろうと踏んでいた顧問の獲得が、いとも簡単に突破できたのも、先生が職員会議にて、素晴らしき熱意で顧問に立候補したからである。余計なことをしてくれたものだ。
というのも、先生はAV研究部が、本当に「AV」を研究するものだと思って、顧問に出馬したのである。
「お前のせいで厄介な役職になっちまったんだ、なんも協力してやんねえからな」
「提出したビデオを見なかったんですか」
「俺、会議はいつも目を開けて寝てるんだよね」
「いろんなツケがまわってきたんだと安藤は思うよ」
そう言って残りのスープを掻っ込む安藤さんに向かって、先生は再度舌打ちをする。
読者諸賢の予想通り、安藤さんはアンドロイドである。だが、アンドロイドと聞いて我々が思い浮かべるそれとは、大分異なる。
まず、安藤さんは食事をする。なんでも食う。やたらに食う。食い過ぎて腹を下して、学校を休んだことさえあるという。
腹痛のアンドロイドが何を排出するのかは、僕の皮相なおつむでは想像できないし、何より尾籠な話であるから、ここでの言及は避ける。
次に、安藤さんは電動式ではない。これは自己申請なので、信憑性には疑問が残るが、確かに彼女の体から充電用ケーブルの類が飛び出しているのは見たことがないし、製作者たる丘品先生も「食費だけでも馬鹿にならんのに、この上電気代まで付くことになったら、俺は迷いなくこいつを解体するぜ」という。先生は他人のために出すものは舌でも嫌だ、という程の吝嗇家であるから、これは信用してもよかろう。
また、安藤さんの腕は射出可能で、風のない日は二、三十メートル程離れた木にも、五回に一回くらいは当てられるという命中精度を誇る。
「どっちかって言うと、アンドロイドよりはスーパーロボット寄り」とは、彼女と仲の良い水素さんの言葉である。
尚、蒸気を用いて発射する仕組みになっているので、いざ放たんという時には、安藤さんの鼻から大量の蒸気が音と共に吹き出すのだという。ますますアンドロイドとは思えない。
ぽんぽん飛ばせる割に腕の代えはきかず、勇んで打ち出したはいいが、その後腕が見つからず右往左往する彼女の姿はよく見かけられるらしい。一度など、景気よくぶっぱなした腕がとうとう見つからず、先生の機嫌と資金繰りが着くまでの二ヶ月間、片腕無しで過ごしたことさえあるという。
「あれ一本に材料費だけでも十数万かかってんだ、ホイホイ飛ばすんじゃあねえ」と先生は再三激を飛ばすが、当の本人にはあまり効いていないようで、今日も空になったカップを握った腕をまっすぐ伸ばすと、
「見ていろ。今からこれをゴミ箱にシュートするから、上手くいったら安藤を褒めてくれても構わんよ?」
「お前ら、早く要件をいえ」目頭を押さえながら、先生は唸るように言った。
「クロロホルムをよこしてくんな」
「分かった」
すぐ横の薬棚から乱暴にひとつ取り出すと、先生はその瓶を院部君に向かって放った。
「俺の俺による俺のための俺薬、俺謹製の俺印クロロホルムだ。二滴くらいをタオルにとって嗅がせればいい」
「お主も悪よのう」
へらへらと笑いながら薬瓶を尻ポケットにしまい込むと、彼はこちらに向き直って、
「では、祭りの夜に乞うご期待」
言うが早いか、あっという間に廊下に飛び出していった彼を、僕は言葉もなく見送っていた。
「博士、あれ、クロロホルムなんかじゃあないだろう」
「当たり前だ、俺、捕まりたくねえもん」
あれは親がなんでか送ってきた香水だ、と言うと、先生は未だにつっ立っている僕に声をかけた。
「で、お前はなんだ、塩酸か?」
「僕はただの付き添いです」
そういうと、安藤さんがくつくつと笑った。
「誤魔化さなくてもいい、この安藤の、熟れに熟れた肉体を撮りに来たんだろう、AV研として」
胸を抱くようにして、安藤さんは身をくねらせる。「男はけだものね!」
「まな板がよく言うよ」
ピーッという笛のような音がして、戸に手をかけていた僕が振り向くと、鼻から白い煙を噴出している安藤さんの、肘から先が先生の突き出た腹に食い込むところであった。顔が赤いのは、照れているのか蒸気のせいなのか、僕には判断がつかない。
たちまち巻き起こる二人の舌戦に、僕は踵を返して廊下に出、理科準備室をあとにした。