有り体に言って換言すればすなわち早い話
結論から言えば、録音は成功した。
その日の午後、斜陽差し込む木造の教室で、僕たちはボールペンを囲んで会合を開いた。
「さて、無事に怪音も録れたところで」
「何処が無事だ」
「何処が無事よ」
晩空君と芽河さんが声をそろえて言うと、緋色院さんは平然と「何が?」とのたまった。
「葵木、保健室から戻ってこねぇじゃねぇか」
「晩空君、真実を究明するには犠牲が付き物なのよ」
ぱん、と音を立てて手を拝むようにすると、緋色院さんは天井を見やった。「葵の犬死を無駄にしないためにも、私たちで真実を見つけましょう!」
「まぁ前々からこういう子だと分かってはいたけど」芽河さんがあきれ果てたようにため息を吐いて、本を伏せる。「ここまで堂々と白を切られると、いっそ清々しいわ」
「何処が」
「そうでも思わないと、こっちだってやってらんないわよ」
当朝午前九時九分九秒、在鍛理学園にて発生した事件は、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに話しているだけでやる気がそがれる為、簡潔に説明させていただく。
僕たちが教室で浦内さんに詰問されてるのと時を同じくして、葵木さんは放送室で立ち尽くしていた。
放送機材の使用方法がまるで分からなかったからである。
科学心理学論理学電子工学など脳内におけるありとあらゆる知識を総動員して問題に解決に当たった結果、彼女は「とりあえずスイッチ類を全部オンにしてみる」という奇手を実行に移した。結果思惑とは少々ずれ、余分な場所までも含め電源は入った。しかし、機械的知識に乏しい彼女にはいかんせんそれを確認する手段が無い。
悪いことに放送室の時計は大分前からその機能を停止しており、四時半前後を指してとまっている時計を見て、現在時刻を知る術すらないと知った葵木さんを、強烈なプレッシャーが襲った。
緋色院さんの冷たいつくり笑顔が目の前をちらつきだし、蠕動を始めた体内に蠢くすっぱい臭いの獣を押さえつけようと、葵木さんは生唾を飲み込んだ。
「とにかく怪音を録らなければ」
殆ど強迫観念に近い使命感である。恐怖と言い換えても差し支えない。「録れなければ、緋色院さんにいてこまされてしまいます」
そして握り続けて温まったボールペンを握りなおすと、頭の部分に親指をあてがった。ところが、頭が押し込めない。何度か握り直してみてもカチリと音がしない。
葵木さんは非常に焦った。怪音が録れないということはすなわち、今後の学生生活が緋色院さんの手により手ひどく掻き乱される事に他ならず、それは後の人生が目も当てられない惨状に陥ることを意味する。
繰り返すようではあるが、緋色院さんは在鍛理学園における恐怖の象徴だったのである。
焦れば焦るほど物事はうまくいかないもので、冷や汗によってボールペンは葵木さんの手を逃げ出し、機材と床の隙間に転がっていってしまった。あわてて屈みこんで手を伸ばし。ほこりにまみれたボールペンを引っ張り出してみれば、今度は頭の部分のキャップが無い。
ふと気付けば、葵木さんはミキサー卓と呼ばれる『「』の形に出っ張った機材の下に屈みこんでいた。頭の上の機材越しに、ぼそぼそと呟くような声が聞こえる。
「これが噂の怪音」
いったん意識してしまうと恐怖は倍増するものである。そして恐怖に伴う好奇心も比例的に上昇する。怖い怖いと思いながらも、葵木さんはつい音の出所らしいスピーカーに耳を傾けた。
遠く離れた雨の音を聞くように、さらさらと何かが擦れるような音がする。
そしてその雨に黒いものが混じるように、ぼそぼそと何かのうめき声がする。
しっかりと聞き取ろうと耳を近づけた瞬間、ふいに雨のような音がぴたりと止んだ。
「誰か、いるんですか」
見つからないボールペンの頭。始められない録音。怪音の主に気付かれた恐怖。緋色院さんの笑顔など、いくつもの重圧材料が葵木さんの体内に蠢くすっぱい獣を一気に天まで押し上げた。
つまり有り体に言って換言すればすなわち早い話が、葵木さんは吐いたのである。
晩空君の提案により、僕たちは保健室に会議の場を移した。葵木さんは青白いを通り越して、シーツに擬態してるんじゃないかと思えるほど血の気の無い顔をしている。
弓角君は、キャップのないボールペンを指でくるくる回している。ついにボールペンの蓋は見つからなかったが、頭自体はしっかりと押されていたのである。どうやら放送室に着く前に、なんらかの衝撃で頭が押し込まれたまま、ひっかかって止まっていたらしい。
「ごめんなさい、私が小間物を撒き散らしたばっかりに」
「心配させないでよ、葵」
緋色院さんがそういって、芝居がかった動作で葵木さんの手をとった。流石の緋色院さんも吐しゃした友人には優しいのであろう。そう僕は考えたが、緋色院さんは心配そうな顔のまま「機材が壊れても経済的な援助は一切しないからね」と言った。
「分かってる、分かってるよ」
すっかり諦めた様子で手を握り返す葵木さんを、信じられないという目つきで晩空君が見ている。まさか先程までの物憂げな目線が、げろを吐きかけた機材の修理費に対するものだとは思わなかったのだろう。僕も同じである。
「お前、吐いた奴に向かって金の心配させるか、普通」
「だって払えないもの。払う気もないし」
「お前なぁ」と息巻く晩空君を、芽河さんが「この子、そういう子だから」の一言で刺した。動きを止めた彼には気付かぬ様子で、弓角君が近くの小さな机を引き寄せる。
「さぁ、部員の無事が分かったところで」
弓角君がノートを机に開くと、緋色院さんが、ぱん、と音を立ててその上に手を置いた。
「部活動、開始ね」
家に帰ると父さんが、野菜の詰まったビニール袋を持ってニヤニヤしていた。半そでのシャツにジーパン、片手に団扇のスタイルは、僕が朝出かけたときと全く同じ格好であり、どうにも働いているように見えない。
袋を指して買い物をしてきたのか、と聞くと、父さんは首を横に振った。昼頃家に帰ってくると、玄関に引っかかっていたらしい。僕はその出所不明の野菜には毒でも入っているのではないかと注進した。
「怪しい。お隣さんでもないのにわざわざ親切にしてくれるわけがない。きっと後で請求書が来るに違いない」
「大丈夫さ。土井中に限らず、こういう地域にはこういうことをしてくれる人や習慣があるものだよ」
父さんはそういって、早くも野菜を洗い出した。「ま、これも父さんの人徳のなせる業というわけだ」
「越してきて数日で人徳もなにもあるもんか」僕はここぞとばかりに不満をぶつける。「大体、人徳のある人間は、外出する際にはちゃんと鍵をかける」
父さんが土井中に越してきてから変えた習慣の一つに、家の鍵をかけなくなった、というものがある。僕は三度ほど、帰宅時に自分で鍵をかけて擬似密室状態を作り上げた。
「土井中で鍵なんかかけてたら、それこそ疑われるぞ。鍵までかけて、一体何をやってるんだろうってね」
「そんな阿呆な」
夕食の席で部活の話を持ち出すと、父さんは我が子が逃れようのない悪意の渦中に囚われているのを見るような目をした。有り体に言えば、面白いおもちゃを見つけたときの目である。
「親しき友人、美人の部長、刺激的な部活動、何もかも最高じゃないか」
「友人はバットで頭をどつくし部長とは反りが合わない。部活動は聞き込み調査が主な内容だし、そもそも学校から認められてすらいない」僕はぐいと麦茶をあおった。「どこが最高だ」
「まぁ美人というのは得てして自分勝手になりがちだ。これは父さんの人生哲学だがね」そういって薬缶を持ち上げると、僕のコップになみなみと麦茶を注ぐ。「もちろん母さんは例外」
僕は言いようのない不満を感じ、腹いせに胡瓜をばりぼりと齧った。水洗いしてヘタを取っただけの胡瓜を、味噌につけて食べる。父さんが『漢の料理』といって引かない手抜き料理の中では、割と美味しい一品だ。
母さんは父さんに輪をかけてよく分からない人である。四六時中家を空けており、その仕事内容は父さんですらおぼろげにしか把握していない。どうやら世界各国を飛び回っているらしいというのは、不定期に送られてくる手紙と、本人以上に訳の分からないお土産から推測する事が出来る。この間などは何処で手に入れたのか、藁人形が釘と共に送られて来て、二人とも危うく胆を潰しかけた。付属していた手紙には「ただの人形」と説明されていたがどうにも恐ろしく、結局押し入れの奥にそれをしまいこんだ。しかし布団を取り出そうとするたびに、あるはずのない目と目が合うような気がして恐ろしい事この上ない。
お土産ほどではないが、手紙も度々僕たちを悩ませた届け物である。パリやロンドンなどの分かりやすい場所ならまだ良いのだが、トンブクツーやらブタペストやら、挙句の果てにはスケベニンゲンなどという「まさか捏造してんじゃあないだろうな」と疑いたくなるような名称の土地にもぐりこんでは、のんきにピースをしている写真なんかが一緒に送られてくる。そのたびに父さんが世界地図を引っ張り出しては大騒ぎをする。寝食を忘れて夢中になる。部屋は散らかる。食事は一向に出来ない。仕方がないので自分で料理を作るが、大抵失敗する。かといって店屋物で済ますと「もったいない」と父さんに怒られる。やりきれない悪循環である。
時には地球を挟んで行われる大陸間超遠距離恋愛を続ける母さんは、父さんに言わせると「非常に存在感のある女性」だったらしい。「まるで漫画のヒロインみたい」だそうである。
部長の顔が浮かび、怖気で粟立った肌を落ち着けるために、その夜僕は一番風呂に浸かろうとして危うくやけどしかけた。