下らぬイントロ
――ああ、もう、どうでもいい――
太宰治『走れメロス』より抜粋
靴の中に砂利が入っている。
そんな些細なことすらも、今の僕には不吉な出来事の兆候に思えた。
陽光は眩しく、空には一片の雲も無い。前に横たわる道は、舗装こそされていないが、なまじ古い分踏み固められていて、転ぶ心配など糟ほども無い。
だが、僕の心中は早くも、灰色コンクリの硬すぎる道を思い出して、それに負けず劣らずの灰色模様になりかけていた。
さて、下らぬイントロはここまでにして、小説ならば(これを小説と呼ぶならば、の話だが)そろそろ自己紹介に移らねばなるまい。
もちろん懸命な読者諸君なら(いれば、の話である)先ほどの一人称が『僕』である事に既に気付いており、この語り手が紛れも無く男子である事がはっきりと分かっているだろう。
得体の知れない男子の自己紹介など聞く気もない。それより早く女子を出せ,という意見はもっともだが、しかしこの状況を正確に伝えるには、まず僕自身の話をしなければならないのである。その辺りはご了承頂きたい。
私こと公太郎は、ごく一般的な中学生である。趣味は無く、友人も存在し学業面でもそれなりの成績をそれなりにとってきた。
だが、僕のごく一般的な人生にある日突然、アブノーマルな出来事が起こったのが先月の事。
僕の通っていた中学校が、夏休み中に廃校になったのだ。
ああ、今の僕には、この部分を読んでいるあなたの、その疑わしげに潜められた眉毛を、あたかも眼前にあるのかのように描写する事が出来よう。
ウソではない。マジな話である
どうやら僕の母校の校長は、多額の負債を抱え込んでいたようで、思い返せば夏休み前から、朝礼に出席する校長の顔には、生気とかそういうものが無かったような気もする。
そんな状態の校長が、自らの領域、校長室に閉じこもって三日、流石におかしいと感じた教頭が、意を決してマスターキーの使用を試み、封印されし扉を開けたが、時既に遅く、部屋には輪になった縄が釣り下がっていて……。
そう、校長は夜逃げしたのである、窓から。
輪になった縄を家具に引っ掛け、静まり返った夜の学校から金目の物を盗み警備員さんの目を掻い潜って窓からの逃走を試みたのだ。
昔のスパイ映画じゃあるまいし、すぐにつかまるだろうと高をくくっていた我々生徒と教職員達の期待を裏切り、校長は見つからなかった。
その後、校長はなんと学校の備品のほぼ全てを、教職員のパソコンに至るまで、文字通り全てを抵当に入れていた事が判明し、教職員の必死の抗議にも拘らず、その全ては幾枚かの日本紙幣と、僅かばかりの硬貨へと姿を変えた。
当然我々も抗議した。義務教育などどうでも良いが、長い長い昼間の時間。一体何をして時間を潰せというのだ。ぶっちゃけゲームばかりしているのは、夏休み初頭の数週間でものの見事に飽きた。
だがそんな我々の悲痛な叫びも「差し押さえ」という魔法の言葉には適わず、教頭から潰れ行く学校の校長へと『昇進』した元教頭苦渋の決断により残された生徒達は皆、他の学校へと転校する羽目になったのだ。
当初僕は、転校先の学校にいくらかの余裕があることもあって、全くもって行動を起こさず、夏休みの時間を惰眠をむさぼる事により、効果的に消費してきた。
だがやがて、父親の転勤という恐ろしき命令が発令され、僕は住み慣れた町都会の東京を、ボストンバッグ一個という身の軽さで泣く泣く去らざるを得なくなったのだった。
そしてやってきたのは、強すぎる日差しを嘆くかのごとく泣き叫ぶ虫達や、まるで異国の民の如く、僕には一切理解できぬ言葉を喋くる、なまりの強い中年たちの住み着く未開の地であった。
果たして父上にコネがあったのかどうか、甚だ不明ではあるが、翌日父は「学校は調達した」との旨を、満面の笑みで僕に伝えてくださった。
そして時は緩やかな山の上にあるという学校を目指し、回想に浸りながら登校中の現在に至る。
学校名は教えてもらっておらず、無理に聞こうとした際には「世の中には知らん方がいい事もある」とこの上なく不安感をあおる釘を刺された。
そして、目的地が小さな山の上にある、というアバウト極まりない情報だけをもらい、一抹どころではない不安を抱えて家を出てきたのである。
やがて先ほどから見えていた学校らしき建築物の、校門らしき何かが見えてきた。僕はそれを確認すると、学生鞄を背負い直し、一目散にかけだした。
そして、高札に刻み込まれた『在鍛理学園』という文字を見て、僕は父を散々罵った後、学園内を目指して暗澹たる気分で再び歩み始めた。
「四時間目はホームルームだから、始まるまで待っててくれ」と言われて通された木造建ての応接室で、僕は父から説明されていた事を反復していた。
在鍛理学園……名前こそふざけた学校だが、その歴史は中々に古く、築八十二年を誇る、いまだに倒壊する兆しさえ見えない木造の校舎に、山ひとつを贅沢に使った、むやみやたらと広い敷地を保持する、大きな学校。
だが近年は少子化に加え、田舎を出て都会で生活する者が増え、一時は学校の閉鎖も考えられたという。
しかしいまだに根強くこの地に残る卒業生も多く、その子ども達をかき集め、なんとか学校としての体裁を保っているのが現状である。
なにせこの学校、ひとつしかクラスが無いのだ。
ああ、またしても脳裏に浮かぶのは読者の猜疑心に満ちた眼差し……。
違う、決してウソではないのだ。
一クラス十七人の生徒と、数人の教職員。この学校に居るホモサピエンスの数はたったのこれだけである。僕らを足しても総員二十名の生徒と、一人の担任。そして幾らかの教科担任。これが全てであった。
今『僕ら』といったのは決してタイプミスではなく、この夏休み明けから転校を余儀なくされた不幸な同士が、他に二人、僕より先に応接室で待機していた。
僕はその話を聞いた際、例えその同士がどのような姿格好であろうと、間違いなく『転校させられた悲劇』という話題で盛り上がる事が出来ると、一片の迷いも無く信じていた。否、今だって信じている、というか、信じていたい。
今僕の目の前に座っている二人は、明らかに僕とは方向性の違う人間であった。
向かって右に座っている人類は、明らかに校則違反ギリギリアウトだと確信出来る、むやみやたらとさらっさらの金髪をなびかせた、童顔の少年である。
だが注目すべきはそこではない。彼と僕とを隔てる、とてつもなく大きな壁は、その服にあった。
この在鍛理学園に制服は無い。理由は至極簡単、資金が無いからだ。
よって、生徒たちには私服で通う事が必然的に義務付けられる。
そうでなかったら全裸しか選択肢はないし、全裸で来るものは犯罪者であって、生徒ではない。
だが眼前の少年のそれは、突飛さでは犯罪者と大差ない異端ぶりであった。
真っ白なTシャツにデカデカと描かれた『男の中の男』の文字も。
腕についている、小さいながらも場違いな程の高級感を放つ腕時計も。
綺麗な白色の上履きに何故か刺繍されている『弓角財閥』の文字も。
何から何まで、僕とはベクトルが違う。正直、あまり関わり合いたくない。
一方左のホ乳類はというと、こちらもこちらで酷い。
まず服が何故か制服である。もちろん母校の思い出が詰まった一品なのかもしれないし、僕も同じく、以前の学校の制服を着用しているので、まぁそこはよしとしよう。
だが、何故襟がそこまで立つのか?
そしてその時代錯誤のリーゼントはなんだ?
僕には彼が、典型的な不良……いや、ここはあえてこう言おう、バンカラな人である、と。
さて、ざっと状況を説明したところで、そろそろ行動を起こさねばなるまい。
僕だって一介の中学生である。こんな沈黙に耐えられるほど、まだ大人ではない。もちろん、彼らと積極的にフランクなコミュニケーションをとりたい訳ではないが、今僕のほかにこの応接室にいるのは彼らだけであるし、同年代なら一応話は通じるだろう、多分。
「あの、皆さん、新入生、ですよね、ここの……」
いかん、我ながらなんと陳腐な語り出しであろうか。
しかし、深き自己嫌悪の穴に身を投じかけた僕のアクションに対して、彼らは予想外の愛想の良さで微笑んでくれた。金髪少年などは
「うん、今日からここに転校してきたんだけど……とりあえずよろしく、ね」
等と言う非常に好意的な言葉すらかけてくださった。ありがたい事である。
「まぁなんだ、黙りこくってんのも味気ない。先に自己紹介でもするか」
そういってバンカラさんは、その明らかに大きすぎるリーゼントをふらつかせながら立ち上がり、僕らにも立ち上がるように促した。
「じゃあとりあえず、名前と年……は、いいか。後は転校の理由とかを……」
そういうと、金髪少年はチラリとバンカラさんを一瞥する。
……流石に自分から紹介する度胸はない訳だ。僕だって人の事は言えないが。
しかし、バンカラさんも気まずそうに下を眺めたまま、黙りこくっている。いかに不良といえど、こういう場合は緊張するのだろうか。あるいは、彼は格好だけの不良かもしれない。不良にあこがれて、あんなステレオタイプの不良の格好をしているのだとすれば、ひょっとするとこれは親友になれるかもしれないな。僕もよく言えば内向的だし。
そのような勝手な妄想を一人で繰り広げていると、痺れを切らしたのか、あるいは腹を決めたのか、金髪少年が口火を切って話し出した
「ボクは弓角。弓角 五徳って言います。転校の理由は、叔父の療養の為にこの田舎までくっ付いて来たから、かな……」
ほほう、どうやら金髪君も僕と同じような理由で、この学校に来たらしい。これはもしかして、彼とも友達になれるかもしれない……いや、待てよ?
「ごめん、もう一度名前を言ってくれないかな……?」
「ああ、ごめん。珍しい名前だしね……。弓道のゆみに、角笛のつの。それに、五徳猫のごとくで『ゆみづの ごとく』って言うんだ」
待て。ゆみづのごとく?それってもしかしなくとも、『湯水の如く』じゃないか、あの『金使いの荒い事を表す様』っていう諺の。
……ひょっとして、ふざけているのか?この空気の中で。
僕がそれを指摘しようとした瞬間、バンカラさんが何かに気付いたように金髪を指差した。
「弓角って、あの弓角財閥のか!?」
「うん。あんまり大きな声じゃ言いたくないんだけどね……」
えーと、話が飛躍しているんですが……。
つまり、この金髪少年の本名はまさしく『湯水の如く』で、おまけにモノホンの
金持ちである、と。
「……名は体を表す、って言うレベルじゃないだろ……」
「え……何が?」
小首をかしげる金髪――弓角君に、なんとも言えぬ眼差しを送りつつ
あきれ果てた僕はバンカラさんに紹介を促す。
「じゃあ……っと、俺は晩空 歩良。転校はまぁ、少しいざこざがあって、な」
ほうほう、やはりバンカラさんは何か問題を起こした様だ。いや待て、問題はそこじゃない。
「ええと、お名前の漢字は、どのような……」
「ああ、朝昼晩のばんに、空。んで歩くに良いで『ばんから ふりょう』だ」
こ、これは弓角君より酷いぞ。親は自らの息子に『ふりょう』と名付けるのに抵抗を感じなかったのだろうか。
難しい顔をして黙る僕に、若干軽蔑のこもった眼差しを送る晩空君。
その視線に気付いた僕は、ふと自分も自己紹介をしていなかった事に気付いた。少し照れてうつむいたが、思うと、何を恥ずかしがる事があるのか。僕は少なくとも諺が名前ではないし、『歩良』なんていう名前でもないのだ。
なんたって公太郎である。ハム太郎なんて呼ばれる事もあるが、一般的な名前には違いあるまい。恥ずべきことなど何もないのだ。そう思い直すと、僕は姿勢を直して二人に向き直った。
「ぼ、僕はしゅびと。『しゅびと こうたろう』って言います」
「しゅ、しゅびと……?」
またも首をかしげる弓角君。確かに、僕の姓はかなり珍しいが、何も恥ずかしい意味がある訳ではない。僕は自信を持って、満面の笑みで答えた。
「えっと、主な原因の『主』に、人でなしの『人』で『主人』。こうたろうは普通に
『公太郎』で、『主人 公太郎』、です」
暫くの間、弓角君も晩空君も口を開けっ放しにして黙っていた。
やがて、ようやく口を閉じると、状況を把握していない僕の方に手を置いて
「よろしく。『主人公 太郎』!」
僕にはそこから先生が呼びに来るまでの数分間の記憶が、断片的にしか無い。
覚えている事と言えば、十数年生きて来て今の今まで一度も名前の突飛さに気付かなかった己の愚かさと、そんな名前を付けた父さんに対する、失望や怒りなどのマイナスエネルギーに身を任せ、罵詈雑言を吐きながら壁に頭を打ち付けていた事だけだ。確か二人は、ドン引きしていたと思う。
かくして、僕の在鍛理学園――通称『在学』での日々は始まった。
否、始まってしまったのだ。
そう、僕の名前の仕掛けなど取るに足らないような事に成り代わってしまう程、悪い意味での驚きに満ちている生活の火蓋が今、切って落とされたのである。