♯4
「……先生、私ぁ、昔からどうも回りくどいのは嫌いな性分でしてね」
とある病院の診察室。
先程からずっと難しい表情を浮かべ、現像されたレントゲン写真を無言で見つめている医師に、男は言った。
顔に刻まれた幾筋もの深い皺。
真っ白になった髪の毛。
脇に立てかけられた杖。
丸くなった背中。
血管が浮き出る程に痩せ細り、骨ばった腕。
それら全てが、彼という人間が過ごしてきた年月の長さを表している。
「単刀直入に言ってくれて構いません。私の余命はあとどれくらいなんですか?」
長い沈黙の後、医者はため息を吐き、
「……恐らくはもって半年、といったところです」
「そう、ですか……」
男の声色から、悲壮感といったものは感じ取れない。むしろその顔には穏やかな微笑みすら浮かんでいる。
「しかしそれは今の状態のままであれば、の話です。治療次第ではもっと伸ばす事も恐らく可能かと」
「ふむ……」
「もしあなたが治療による延命を望むのであれば、私は全力を尽くしてあなたをサポートします。ですが治療を受けるかどうか、決めるのはあなた自身です。……どうしますか?」
男の事を真っ直ぐに見据える医師の目は、利益などは関係無くただ純粋に人の命を救いたい、という使命に燃えていた。
「……今日は確か四月の……二二日でしたかな?」
短い沈黙の後に男の口から出てきた言葉は、全く見当違いのものだった。
「え、えぇそうですが……それが何か?」
戸惑いながらもその問いに応じる医師。
「あぁ、いや念のための確認という奴でしてね。お気になさらず」
「は、はぁ……?」
「治療の方ですが……先生にゃ大変申し訳ないが、私はこのまま下手に足掻かずに余生を過ごそうと思います」
「……分かりました」
その声色は平静を装おうとしているものの、残念であるという心情が隠しきれていない辺りは、まだまだ医師としては未熟な証拠だろう。
腕に抱えていた上着を羽織りながら、男は改めて目の前にすわる医師を観察する。
年齢は、どんなに高く見積もったとしても二十台後半、といったところだろうか。
門外漢の男に、医師の平均年齢などというものはよく分からないが、
それでも医師としては比較的若い部類に入るだろう。
「……私の顔に何か顔に付いてますか?」
視線に気付いた医師が問いかける。
「あ、あぁ、いや、気にせんで下さい」
――この人は将来いい医者になって、たくさんの命を救うだろうな。
そんな奇妙な確信が、男の中に芽生えた。
まぁこんな老人に太鼓判を押されたところで嬉しくも何とも無いだろうが、と苦笑しながら
「どっこいしょ」という小さな掛け声と共に丸椅子から立ち上がり、
「さて、それじゃ、ありがとうございました」
「……気が変わられましたら、またいつでもいらして下さい。それではお大事に」
「えぇ、それでは」
一礼して、男は診察室から出た。
バス停のベンチに腰掛けて帰りのバスを待ちながら、男は同居中の娘夫婦にどう切り出そうか考えていた。
事の発端は数日前だった。
日課である散歩の途中に突然激しい眩暈に襲われ、たまらずその場に蹲ってしまった。
その時は幸いと言うべきか、人通りが少なかったために、救急車を呼ぶような大事にはならず、眩暈も数分で治まったものの、嫌な予感を感じた男は、娘に散歩と偽ってこうして病院に来ていたのだった。
「……あと半年、か」
いよいよ間近に死の影が迫って来たのだと知っても、男の心中に不思議と恐怖は湧いてこなかった。
何故だろうかと考えてみると、答えはすぐに見付かった。
男にはもうやり残した事が無いのだ。
二人の子供達も無事に独り立ちしていき、その孫達も今では結婚して、初曾孫の顔まで見れた。
親の死に目にも会えた。
数十年勤めた会社も、無事に定年を迎える事が出来た。
長年連れ添った伴侶も、数年前に旅立っていった。
やりたい事もやり残した事も、もう男には無かった。
――最後にもう一度だけ、彼女に会いたい。
その一つの願いを除いては。