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♯3

「――それじゃ行ってくるよ。今日は帰り遅くなるし、先に寝ててくれて構わないから」


「分かりました。それじゃ行ってらっしゃい。あなた」


 休日だというのに、暑苦しいスーツを着込んだ夫の後ろ姿を笑顔で見送った妻は、玄関の扉が閉まると同時に、小さなため息を吐いた。




 妻が男と出会ってから、もう十六年が経つ。




 執拗なまでのアタックが功を奏し、付き合い始めてから三年後に、男からの突然のプロポーズ。


 戸惑いながらもそれを受け入れ、籍を入れてから三年後に長女が、更にその二年後に長男が誕生。


 そして現在、長女は十歳、長男は八歳。


 決して裕福とは言えないにしても、一家四人、そこそこ幸せに暮らしてきた。


 男は、子供達にとって優しい父親であり、妻にとっても優しい夫だった。


 


 しかし妻は気付いていた。


 夫は自分や、子供達を見てくれているようで、実は見ていない。


 初めて出会った頃からずっと変わらず、彼の心の中にはいつも別の女性がいるという事を。


 八月三十一日。


 その日は毎年、例え平日で仕事があったとしても、夫は会社を休んででも、どこかへ出かけていく。


 幼馴染との大事な約束なんだと、夫は言っていた。




 ――俺の事そんなに想ってくれてるってのは嬉しいんだ。だけど、本当に申し訳ないけど、この先君が俺に何度告白してきたって俺の気持ちは絶対君には傾かない。




 五度目の告白の時に言われた言葉。


 あの時女は、それでも構わないと思った。


 自分に好意を寄せてくれていなくてもいい。


 ただこの人の傍にいれるだけで、きっと自分は幸せになれると、根拠は無くてもそう思っていた。


 それでも、妻の心の隅には、いつかはその目が自分の事を見てくれるのではないか、という微かな期待が確かにあった。




「ねーねーおかーさん」


 いつの間にか物思いの耽っていた妻は、娘にエプロンの裾を引っ張られて我に返った。


「ん? どうかした?」


 慌てて笑顔を取り繕い、娘の身長に合わせて身を屈めた。


「おとーさんはどこにでかけてったの?」


「お父さんはね、大事な人に会いに行ったの」


「だいじなひとって……おばーちゃんとおじーちゃん?」


「ううん、昔からの幼馴染の人なんだって」


「その人っておとーさんのウワキアイテなの?」


「……は、はぁ?」


 十歳の娘の口から出てくるとは思えないその発言に、妻は思わず素っ頓狂な声をあげた。


「あ、あなた……そんな言葉どこで覚えてきたのよ?」


「クラスの子が言ってた」


「あ……そう……」


 妻が娘達と同じくらいの年齢の頃には、「浮気」や「不倫」などという言葉の意味は知らなかった筈である。


 最近の子供は進んでいる、という言葉の意味を実感すると共に 離婚や再婚が珍しくもなくなってきた現代社会が、子供達の世代にも影響を及ぼし始めているのだと、妻は思い知らされたような気がした。


「おとーさんウワキしてるの? おかーさん、おとーさんとリコンしちゃうの……?」


 家族が離れ離れになるのだろうか、という不安を湛えた眼差しで見つめてくる娘に苦笑しながら、


「……大丈夫。うちのお父さんはそういう事するような人じゃないから。だからあなたが心配しなくてもいいのよ?」


「……うん、わかった!」


「ん、いい子ね」


 母親の言葉に安心したのか、元気に大きく頷いた娘の髪をくしゃりと撫でる。


「……あ。それと、あんまり人前でそういうこと言っちゃ駄目よ?」


「どうして?」


「どうしてって……と、とにかく駄目なものは駄目なの! ほら、今からお部屋に掃除機かけるから、終わるまで弟とお外で遊んでらっしゃい!」


「はーい」




「行ってきまーすっ!」


「車に気をつけなさいよー?」


「わかってるーっ!」


 弟の手を引いて玄関から出て行く娘を見送り、妻はふと、自分の左手を顔の前に掲げた。


 その薬指の根元では、夫からプレゼントされた、少しくすんだ色をした銀の結婚指輪が、日光を浴びて光っている。




 妻は思う。


 あの時、彼に告白したのは正しかったと。


 優しくて頼りになる夫が出来たから。


 二人の可愛い、愛する子供達がいるから。


 そこそこに裕福で、とても温かい家庭があるから。


 自分はちゃんと幸せになれたから。


 しかし同時に考える。


 じゃあ彼は、夫は今、幸せなんだろうか? 




 その答えを夫から訊く勇気は、妻には無かった。

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