どうして私が頑張る必要があるんですの?
時計の針が、深夜二時を回った。
エリアーナ・アシュフォードは、ようやく羽根ペンを置いた。
王宮の片隅にある、暖炉もない小さな執務室。机の上には、修正を終えた書類がうずたかく積まれている。
三日前、婚約者である第二王子セドリックが「急ぎで頼む」と押し付けてきた、東部治水計画の予算書だった。
数字は滅茶苦茶だった。工期の計算も、資材の見積もりも間違っていた。このまま提出されれば、東部の村々は来年の雨季を越えられない。だからエリアーナは、一枚一枚、資料と照らし合わせて直した。
三日間、ほとんど眠っていない。
(……これで、東部の民は水害から守られますわ)
指先はインクで汚れ、目の奥は鈍く痛む。それでも、誰かの役に立てるのならと、エリアーナは薄く微笑んだ。
その時、扉が乱暴に開いた。
「エリアーナ! まだこんな所にいたのか」
セドリックだった。夜会帰りらしく、上等な衣装から香水の匂いがする。その隣には、桃色の髪の男爵令嬢——モニカが、しなだれかかるように寄り添っていた。
「殿下。ご依頼の予算書、すべて修正が終わりましたわ。明日の御前会議には——」
「そんなことより、今日の夜会はどういうつもりだ」
「……は?」
「僕の婚約者が欠席など、恥をかいたのは僕なんだぞ。モニカ嬢が気を遣ってずっと側にいてくれたからよかったものの」
エリアーナは、一瞬言葉を失った。
「殿下。この予算書の期限を明日と定めたのは、殿下ご自身ですわ。夜会に出れば、間に合いませんでした」
「言い訳か? 君はいつもそうだ。理屈ばかりで、可愛げがない」
「エリアーナ様ぁ、きっとお忙しかったんですよね? 私なんかがお側にいて、ごめんなさい……」
モニカが潤んだ瞳で王子を見上げる。セドリックは「君が謝ることはない」と目を細め、それから、机の上の書類の山を一瞥した。
「ふん……字が硬いな。まあいい、もらっていく」
礼の一言もなく、彼は書類を抱え上げた。そして空いた机の上に、どさりと新しい束を置く。
「隣国への親書の清書だ。三日後までに頼む。婚約者の務めだろう」
扉が閉まる。
遠ざかる二人の笑い声。
冷え切った部屋に、一人。
「……ありがとうの一言も、ないんですのね」
小さな呟きは、誰にも届かなかった。
◇
エリアーナが第二王子の婚約者に選ばれたのは、八歳の時だった。
「家のためだ。励め」
父であるアシュフォード伯爵は、それだけ言った。よくやったとも、大変だなとも、言わなかった。
その日から、妃教育が始まった。
ダンス。三か国語。歴史。帝王学。テーブルマナー。社交。
同い年の令嬢たちがお茶会で笑い合う間、エリアーナは机に向かい続けた。ヒールで足の皮が剥けても、ペンだこで指が変形しても、休むことは許されなかった。
厳格な教師は、満点の答案を返しながら言った。
「王子の婚約者なのだから、できて当然です。褒められると思わぬように」
九十点なら叱責され、百点なら無言。それが、エリアーナの世界のすべてだった。
十二歳の誕生日のことを、彼女は今でも覚えている。
朝から妃教育、午後は家政、夜は帳簿の見習い。日付が変わる頃、ようやく気づいた。今日、誰も「おめでとう」と言わなかった。父も、使用人たちも——彼女自身でさえ、忘れていた。
自分の誕生日を、自分で忘れる。
それがどれほどおかしなことか考える暇もなく、彼女は次の日も机に向かった。
十歳の冬、母が病で亡くなった。
優しい人だった。病床で母は、娘の手を握って囁いた。
「エリアーナ。あなたは頑張り屋だから……お願いだから、自分のことも、大事にしてね」
その意味を考える前に、母は逝った。
葬儀の翌週から、エリアーナは伯爵家の家政を任された。使用人の采配、来客の応対、季節の贈答。母がしていたことを、十歳の少女がすべて引き継いだ。
泣く暇があるなら、献立表を確認しなければならなかった。母を想う夜は、いつも仕事の途中で終わった。
「お前は長女なのだから、当然だろう」
十四歳になると、領地の帳簿までが彼女の机に載った。父は社交と観劇に忙しく、数字を見ようとしなかったからだ。
凶作の年があった。エリアーナは徹夜で備蓄計画を立て直し、税を軽減し、領民を一人も飢えさせなかった。父は夜会で「我が領は今年も安泰だ」と胸を張った。娘の名は、一度も出なかった。
三つ下の妹、シャルロッテは言った。
「お姉様は何でもできていいわねえ。私、難しいことは苦手だから」
そう笑って、妹は友人と遊びに出かけていく。エリアーナは妹の家庭教師の手配をし、妹の夜会の受け答えを紙に書いて持たせ、妹の失敗を先回りして防いだ。
十六歳の春、エリアーナは倒れた。
医師は「過労です。休ませてください」と告げた。父は言った。
「体調管理も婚約者の務めのうちだ。自覚が足りん」
三日後、彼女は執務室に戻った。
セドリックとて、最初からああだったわけではない。婚約したての頃は、庭を並んで歩いたこともあった。だが彼は、王子と褒めそやされて育つうちに、面倒事をすべて婚約者に流すことを覚えた。
「君は優秀だから」
それが彼の口癖だった。優秀だから、頼む。優秀だから、できるだろう。優秀だから——礼など要らないだろう?
いつしか彼の隣には、「難しいことは分からない」と首を傾げる令嬢たちが集まるようになった。可愛げがある、癒される、と。
夜更けまで彼の執務を肩代わりする婚約者は、「可愛げがない」らしかった。
誰も、ありがとうと言わなかった。
それでも——いつかは、と思っていた。
いつか、認めてもらえる。いつか、報われる。頑張り続ければ、いつか。
その「いつか」を信じて、エリアーナは十年、走り続けたのだ。
◇
一週間後。建国記念の夜会。
シャンデリアの光の下、セドリックは国王の御前で、東部治水計画を発表していた。
「——以上が、私の立案した計画です」
拍手が起こる。「さすがはセドリック殿下」「なんと聡明な」。称賛の声の中、エリアーナは末席で静かに微笑んでいた。
(それでいいのです。東部の民が救われるのなら、手柄など誰のものでも)
その時、財務大臣が一歩進み出た。
「殿下。恐れながら一点。第三区の堤防予算、この数値では強度が足りませぬが」
「……な、なに?」
セドリックの顔が強張った。答えられない。当然だ。彼はあの書類を、一度も読み通していないのだから。
そして——彼はよりにもよって、その数値を指した。エリアーナが「危険です」と修正を進言し、彼が「ここは僕の案だ、直すな」と突っぱねた、ただ一箇所を。
王子の視線が、会場を泳ぎ、エリアーナを見つけた。
「……ここは、エリアーナに任せた箇所です。おい、どういうことだ! 僕に恥をかかせる気か!」
会場中の目が、一斉に彼女に向いた。
「殿下、その箇所は——」
「言い訳をするな! 婚約者の失態は僕の恥だぞ!」
「まあ……エリアーナ様、間違えてしまわれたの?」
モニカの声。ひそひそと囁きが広がる。人垣を割って、父が血相を変えて駆け寄ってきた。
「エリアーナ! 殿下に謝罪しなさい! 家に泥を塗る気か!」
——その瞬間。
エリアーナの中で、何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
三日の徹夜。十年の妃教育。母の代わりの家政。父の代わりの帳簿。妹の尻拭い。剥けた足の皮。変形した指。倒れた日の、冷たい言葉。
感謝は、一度もなかった。
なのに失敗だけは、こうして押し付けられる。
「……ふ。ふふっ」
笑い声が漏れた。周囲がぎょっと息を呑む。
「エリアーナ? な、何がおかしい」
「いいえ、殿下。ただ……ふと、不思議に思いましたの」
彼女は顔を上げた。背筋を伸ばし、まっすぐに婚約者を見つめて、十年分の問いを口にする。
「——どうして私が、頑張る必要があるんですの?」
夜会の喧騒が、水を打ったように静まり返った。
「な……何を言って……」
「殿下の書類を直すのも、殿下の恥を被るのも、家の帳簿をつけるのも、妹の失敗を防ぐのも。すべて『私の務め』だと、皆様おっしゃいますわ」
一歩、前へ。
「では、伺います。私が十年頑張って——どなたかお一人でも、ありがとうと、言ってくださいまして?」
誰も、答えなかった。
セドリックも。父も。囁いていた貴族たちも。誰一人として。
その沈黙こそが、答えだった。
「問題の数値は、殿下が『直すな』と命じられた箇所ですわ。私の修正案は書面で財務府に提出済みですので、大臣、後ほどご確認くださいませ。……ですが」
エリアーナは、ゆっくりと、完璧なカーテシーをした。
「もう、どうでもよろしいの。本日をもちまして、殿下の公務の代行は、すべて終いにいたします。婚約の見直しにつきましては、後日正式に王家へ申し入れますわ」
「エ、エリアーナ!?」
「ごきげんよう、皆様」
ドレスの裾を翻し、彼女は歩き出した。父の怒声も、王子の呼び止める声も、もう心には届かない。
大扉を抜けた先、夜風が頬を撫でた。
十年ぶりに——ただ、心地よかった。
◇
翌朝、伯爵邸。
「王家に詫びて撤回しろ! 家を潰す気か!」
「いたしませんわ、お父様。それと、こちら」
エリアーナは、分厚い帳簿の束を父の机に置いた。
「本日付けでお返しします。領地経営は、ご当主のお務めですもの。引き継ぎ書は作ってございます。私にできたことです、お父様にできないはずがありませんでしょう?」
「なっ……ど、どこへ行く気だ!」
「お母様が私に遺してくださった、すずらんの家へ。あの家と年金は母の遺言で私のものですから、お父様にも取り上げられませんわ」
旅行鞄は、ひとつだけだった。十年働いて、彼女自身のものと呼べる荷物は、それだけしかなかった。
馬車で二日。丘の麓の小さな村に、白い壁の家はあった。母の生家。庭には、すずらんが揺れている。
扉の前で、白髪の老婦人が待っていた。母方の祖母、ローズマリーだった。
「よく来たね、エリアーナ」
祖母は皺だらけの手で、孫娘の頬を包んだ。
「よく……今まで、頑張ったね」
——ああ。
その一言が、欲しかったのだ。ずっと、ずっと。
エリアーナは、祖母の胸で泣いた。声を上げて、子供のように。十年分の涙が、涸れるまで。
◇
すずらんの家での日々は、驚くほど静かに流れた。
最初の一週間、エリアーナはほとんど眠って過ごした。
目を覚ますたび、体が跳ねた。書類は。帳簿は。清書の期限は。——何もない。ここには、何もないのだ。それを理解するのに、体は心より時間がかかった。
朝は、日が高くなるまで眠った。最初は罪悪感で飛び起きたが、祖母が「寝るのも仕事のうちだよ」と笑うので、そのうち慣れた。
ある朝、食卓で祖母が、ふとエリアーナの手を取った。
ペンだこ。あかぎれ。指輪の似合わない、二十歳の令嬢の手。
祖母は何も言わず、その手に自分の手を重ねて、長いこと撫でていた。温かい掌の熱が、じわりと染みた。
「……おばあ様。私、間違っていたのかしら。十年も」
「間違っちゃいないよ。お前の頑張りで、救われた人は本当にいる。東部の村も、領地の民もね」
祖母は、ゆっくりと首を振った。
「間違っていたのは、お前の頑張りにあぐらをかいた連中さ。……それとね、エリアーナ。頑張った分だけ、これからは自分を甘やかしていいんだよ。十年分、たっぷりとね」
パンを焼くことを覚えた。不格好だったが、焼きたては呆れるほどおいしかった。
庭の手入れをした。土に触れると、不思議と心が凪いだ。
そして、村にひとつだけある小さな書店に通うようになった。
「いらっしゃい。……ああ、丘の上の。今日は何にします?」
店主は、ノア・リンドールという青年だった。元子爵家の三男で、王都の文官職を辞めてこの村に流れ着いたのだという。
「肩の力を抜きたいなら、これがおすすめですよ。恋愛小説ですが」
「こ……恋愛小説、ですの? 私、読んだことが」
「二十年生きて一度も? それは重症だ」
彼は笑いながら本を包んだ。棚から一冊落としてしまったのを彼女が拾って渡すと、ノアはごく自然に言った。
「ありがとうございます」
エリアーナは、固まった。
「……どうかしました?」
「い、いえ。その……ありがとうって、いい言葉ですのね」
ノアは瞬きをして、それから、少し眉を下げて笑った。
「あなた、礼を言われ慣れていないんですね。じゃあ、練習しましょうか。——今日も来てくれてありがとう。本を大事に読んでくれてありがとう。落ちた本を拾ってくれて、ありがとう」
視界が、滲んだ。
こんな小さなことで泣くなんて。恥ずかしいのに、涙は止まらなかった。ノアは何も聞かず、ただ黙ってハンカチを差し出してくれた。
それから、書店に通うのが日課になった。
「読みましたわ、あの恋愛小説。……その、続きは、ありまして?」
「ふふ、ありますよ。三巻まで」
初めて読んだ物語の感想を、頬を染めて語る。ノアは楽しそうに相槌を打ち、次の一冊を選んでくれる。義務ではない勉強が、こんなに楽しいものだとは知らなかった。
ある雨の日、店じまいを手伝いながら、彼女は尋ねた。
「ノアは、どうして王都をお辞めになったの?」
「僕ですか。……潰れかけたんですよ。仕事を断れない性分でしてね。気づいたら三人分の仕事を抱え込まされていて、倒れました」
彼は棚の本を、とん、と整えた。
「病床で思ったんです。僕が死んでも、あの職場は明日も回るんだろうなって。なら僕は、僕の人生を回そうと。——だからあなたが夜会で言った台詞を聞いた時、拍手したくなりました。『どうして私が頑張る必要があるんですの』。あれは、名台詞です」
「まあ……あんな醜態が、こんな所まで」
「醜態なものですか」
ノアは、まっすぐに彼女を見た。
「あれは、十年頑張った人にしか言えない言葉ですよ」
——エリアーナは、怠けたわけではなかった。
庭を耕し、パンを焼き、やがて村の子供たちに読み書きを教え始めた。誰かに命じられたからではない。やりたかったからだ。
頑張ること自体は、嫌いではなかったのだと、彼女は初めて知った。
嫌いだったのは、自分をすり減らして、誰にも顧みられない頑張り方——それだけだったのだ。
◇
その頃、王都は静かに軋み始めていた。
王宮では、決裁書類が滞留した。式典の手配は漏れ、隣国への親書では誤訳騒ぎが起きた。セドリックが頼ろうとしたモニカは、書類の山を前に青ざめた。
「わ、私、難しいことは分からなくて……お茶会なら、ご一緒できますけど」
やがて彼女は「殿下が最近怖いんですもの」と、実家に帰ってしまった。悪女ですらなかった。ただ、王子の隣という気楽な特等席が好きだっただけの娘だった。
セドリックは生まれて初めて、朝まで机に向かった。
一枚の予算書を読み解くのに、三時間かかった。それが机には、百枚積まれていた。エリアーナはこれを、笑顔で、三日で仕上げていた——夜会に出ろという小言と、追加の仕事付きで。
「……冗談だろう……」
インクで汚れた自分の指を見て、彼はようやく、婚約者の変形した指の意味を知った。
異変を重く見た財務大臣は、過去十年の書類を精査した。そして、青ざめた。
「陛下。殿下の名で処理された実務は……筆跡も、立案の構成も、すべてアシュフォード伯爵令嬢のものです。この十年、殿下の政務を支えていたのは、あの令嬢ただ一人にございます」
国王夫妻は絶句した。
伯爵家も同じだった。帳簿は三か月で崩壊し、父の浪費が数字となって露呈した。妹のシャルロッテは、夜会で受け答えができずに立ち尽くした。
「……お姉様は、いつも横で、教えてくれてたのに」
姉が渡してくれていた紙が、どれほどのものだったか。妹は失って初めて、それに気づいた。
社交界の噂は、ゆっくりと反転していった。
——完璧だったのは、王子ではない。あの令嬢だったのだ、と。
◇
初夏。すずらんの家に、一台の馬車が停まった。
「エリアーナ……!」
降りてきたのは、見る影もなく憔悴したセドリックだった。
「戻ってきてくれ。頼む。君が必要なんだ」
エリアーナは、庭の手を止めて、静かに立ち上がった。怒りは、不思議なほど湧かなかった。
「殿下。それは違いますわ」
「な、何が……」
「殿下に必要なのは、私ではなく——私の働きですわ」
セドリックは口を開き、閉じた。反論の言葉が、出てこなかった。
「では、伺います。私の好きな花を、ご存じ? 私の好きな本は? 私が十年、何を我慢してきたか、ひとつでも言えまして?」
「…………」
「十年婚約して、それですのよ、殿下」
「……すまなかった。書類を、自分で読んだ。君がどれだけのことを……僕は、何も見ていなかった」
その声には、確かに悔恨が滲んでいた。夜会のあの日より、ずっと人間らしい顔をしている、とエリアーナは思った。
思っただけだった。
「その謝罪は、受け取りますわ。十年目にして初めての、殿下の本当のお言葉として」
「なら——」
「ですが、殿下。私、気づいてしまいましたの」
彼女は、庭のすずらんに目を落とした。
「あそこに戻れば、私はまた頑張ってしまう。今度こそ認められるはず、今度こそ報われるはずと、また十年、すり減ってしまいますわ。私はもう、そういう自分の生かし方を、やめると決めましたの」
彼女は、ふ、と息を吐いた。
「私、殿下をお恨みしてはおりませんの。ただ——お側に戻る理由も、もうございませんわ」
入れ違いに父も来たが、玄関先で祖母が仁王立ちした。
「娘が孫に遺したものまで、奪いに来たのかい」
「ち、違います、義母上。私は……」
父は、しばらく俯いて、絞り出すように言った。
「……すまなかった。帳簿を、自分でつけてみて……お前が、どれほどのことをしていたか、ようやく分かった」
体裁が半分。本心が半分。そんな謝罪だと、エリアーナには分かった。それでも。
「謝罪は、受け取りますわ、お父様」
「では——」
「でも、帰りません。シャルロッテには、私の作った手引書が書庫にあると伝えてくださいな。あの子が本気で学ぶ気になったら、役に立つでしょうから」
後日、王妃直筆の書状が届いた。正式な婚約解消。王家としての謝罪。十年の働きに対する年金。そして、望むなら王宮文官として登用したいという打診。
エリアーナは、解消と謝罪だけをありがたく受け取り、登用は丁重に辞退した。
「私、しばらくは村の子供たちで手一杯ですの」
——その夜、王宮では。
セドリックは、返却された修正案の束を、初めて最初から読んでいた。欄外に、小さな書き込みがあった。
『殿下は夜に目が疲れやすいので、要点は大きな字で』
『この件は殿下が矢面に立たずに済むよう、根回し済みです』
十年間、気づきもしなかった細やかな気遣いが、紙の隅々に眠っていた。
彼は書類に突っ伏して、長いこと動かなかった。だが、どれほど悔いても——失われた十年は、もう戻らなかった。
◇
冬の終わりに、一通の手紙が届いた。妹のシャルロッテからだった。
『お姉様へ。書庫の手引書、使わせていただいています。正直に言うと、まだ半分くらいは、お姉様がいなくなったせいで大変なのに、と思ってしまいます。ごめんなさい。でも、帳簿を三行つけただけで頭が痛くなって、これを十年やっていたお姉様は化け物だと思いました。あ、悪口ではないです。すごいという意味です。次に会ったら、お茶の淹れ方を教えてください。お姉様の淹れるお茶が一番おいしかったと、最近気づいたので』
不器用で、身勝手で、それでも精一杯の手紙だった。
エリアーナはくすりと笑って、返事の便箋を取り出した。
『いつでもいらっしゃい。ただし、お客様としてよ』
人は、そう簡単には変わらない。父も、妹も、殿下も。それでも、変わろうとする一歩を遠くから眺めるくらいは——してあげてもいい。戻らないまま、赦さないまま、それでも憎まないまま。今の彼女には、その距離がちょうどよかった。
◇
翌年の春。
すずらんの家の隣に、小さな図書室が開いた。エリアーナの発案に、ノアが蔵書を持ち寄って実現したものだった。
「エリアーナ先生、ありがとう! 続き、また明日読むね!」
子供たちが、口々に礼を言って駆けていく。ありがとう、ありがとう。この村に来てから、彼女は一生分の「ありがとう」を受け取った気がする。
図書室を開くと決めた時、エリアーナは危うく、昔の癖を出しかけた。蔵書目録、貸出台帳、修繕計画——三日三晩で完璧に仕上げようと机に向かった彼女の前から、ノアはすっとペンを取り上げたのだ。
「はい、没収」
「ま、まだ途中ですのよ!?」
「期限、ありましたっけ? この図書室に」
「……ございませんけれど」
「なら、明日でいい。明後日でもいい。あなたが倒れてまで開く図書室を、子供たちは喜びませんよ」
ぐうの音も出なかった。誰かに仕事を止められたのは、生まれて初めてだった。
悔しいのに——胸の奥が、じんわりと温かかった。
「はい、休憩」
今日もノアが、焼きたてのスコーンと紅茶を運んでくる。
「あら。まだ本の整理が」
「駄目です。あなたは放っておくと際限なく働くので、僕が止める係です」
「まあ。どうやって止めますの?」
「こうやって、おいしいもので釣ります」
真顔で言うので、エリアーナは吹き出してしまった。声を上げて笑う自分に、自分で驚く。一年前の彼女は、笑い方すら忘れていたのに。
「……ねえ、ノア。私、あの夜会で言いましたのよ。『どうして私が頑張る必要があるんですの』って」
「ええ、聞きました。王都まで届く名台詞でしたよ」
「答えが、やっと分かりましたの」
窓の外では、すずらんが白い鈴を揺らしている。
頑張る必要なんて、本当は、どこにもなかったのだ。
誰かに認められるために、すり減る必要も。感謝されない場所で、走り続ける必要も。
頑張りたい時に、頑張りたいことを、頑張りたい人のために——何より、自分のために頑張ればいい。ただ、それだけのことだったのだ。
「これからは——私のために、生きますわ」
「ええ。……その『私のため』の中に、いつか僕も入れてもらえたら、嬉しいんですが」
「っ……! の、ノア!?」
「さ、スコーンが冷めますよ、先生」
春の風が、二人の間を柔らかく吹き抜けていく。
頬を染めて紅茶に手を伸ばす彼女の顔は——十年分を取り返すように、幸せそうに笑っていた。




